自転車だから
夜の空気は、少し冷たかった。
アルコールの熱を、ちょうどいい具合に冷ましてくれる。
「自転車だし」
それが、彼の中での免罪符だった。
終電を逃したわけでもない。
泥酔しているわけでもない。
ただ、同僚との飲み会で、ビールを数杯飲んだだけ。
歩いて帰れない距離じゃない。
でも、少し面倒だった。
駅前の駐輪場に置いてある、自分の自転車。
鍵を外す手元は、わずかにおぼつかなかったけれど、本人は気にしていなかった。
「真っ直ぐ走れれば大丈夫だろ」
そう思っていた。
夜道は静かで、車も少ない。
街灯に照らされたアスファルトが、ゆっくり後ろへ流れていく。
風が気持ちいい。
少し酔いが覚めた気がした。
そのときだった。
横断歩道の手前。
信号は青。
だから、減速しなかった。
見えていなかったわけじゃない。
ただ、「ちゃんと見ていなかった」。
歩行者は、杖をついた高齢の女性だった。
足取りは遅く、背中は小さく丸まっていた。
ブレーキをかけた瞬間、音がした。
キーッ、という乾いた音。
間に合わない、と頭が理解するより先に、体がぶつかった。
衝撃は、思ったより軽かった。
自転車だから。
そう、彼は一瞬、安心すらした。
でも。
女性は倒れた。
ゆっくりでもなく、派手でもなく、ただ、横に崩れるように。
頭が、アスファルトに当たった音がした。
「……あ」
声が出なかった。
足が動かなかった。
周囲がざわつき始める。
誰かの叫び声。
スマートフォンを取り出す音。
女性は、動かなかった。
救急車のサイレンが、やけに遠く聞こえた。
まるで、自分とは関係のない世界の音みたいに。
「自転車なんです」
彼は、何度もそう言った。
警察にも、救急隊員にも。
自転車だから。
車じゃないから。
大したことじゃないはずだ、と。
でも、女性はそのまま意識を取り戻さなかった。
後日、聞かされた言葉は短かった。
「頭部外傷による死亡です」
その瞬間、ようやく理解した。
自転車でも、人は死ぬ。
軽い乗り物でも、命は軽くならない。
彼の人生は、その日で終わったわけじゃない。
会社にも行ったし、眠りもした。
ただ、世界の重さが、決定的に変わった。
そして、通知が届く。
「飲酒運転による違反」
「自動車運転免許 停止」
紙切れ一枚の事実。
彼は、理解できなかった。
自転車なのに。
車を運転していないのに。
でも、それは後になってわかる。
あの夜、
彼は“乗り物”を運転したんじゃない。
「命が行き交う場所」に、
判断力を失ったまま、入った。
それだけのことだった。




