砂上の城(アレクセイ視点)前編
ルヴィアに接吻を拒まれたのは、学園の卒業近き春のことであった。
「どういうことだ!」
アレクセイは、自室にて叫んだ。思いが通じてから、ゆうにふたつきは経つ。気の短く手も早い自分にしては、随分と長い譲歩であった。
「俺のことが好きではないのか? あの女、どういうつもりだ!」
「落ち着いてください、殿下」
いつの間にか控えていた側近のニースに、アレクセイは舌打ちを打つ。付き合いの長いこの男に余裕のない様を見られたのは少々ばつが悪く、目線をさまよわせた。ニースは温度感の無いいつもの表情で、しれっとのたまう。
「まあ考えてご覧なさい。殿下と違い、ルヴィア嬢はまったく初心の令嬢。もう少し時間が必要なのでは?」
「もうふたつきだ! これ以上など、いつまで待てというのか?」
「まあ……結婚式まででは?」
ニースの言葉にアレクセイはがく然とした。
「そんなに待てるか!」
アレクセイは人生で女性相手に一度も待ったことがない。それ故に、全く堪え性がなかった。ニースはそれに至っては全くの同感という様子で、「なら」と切り出す。
「花街で適当に発散でもなさっては? こういうのは鬱憤を溜めると負けです」
ニースの言葉に、アレクセイは口ごもる。そうしたいのは山々だが、そんなことをしたら最後、二度とルヴィアは自分に心を開かないだろう。
あれだけ好きと示してきたくせに、たった一度浮気現場をおさえただけでこうなのだから。
「なんという面倒くさい女だ……くそっ」
しかし、それで切り捨てられたら苦労しない。アレクセイの人生で、初めて惚れた女が、その性質なのだから。
初めてルヴィアと出会った時、大した感慨はなかった。
ルヴィアとは、生まれたときからの婚約者だった。
しかし、幼い日のルヴィアは病弱で、顔を合わせたのはずいぶんと遅かった。母は、ルヴィアの母と親友であったようで、ルヴィアを姪か何かのように気にかけていた。幼心に、アレクセイはつまらなかったものである。
ようやく病が体から抜けたので、ルヴィアと顔を合わせると聞き、アレクセイの心中は面倒くささしかなかった。もうすでに学友もたくさんできていたし、可愛らしい貴族の子女も見かけている。何でまた、顔も知らない曰く付きで、母からの思い入れだけが深い娘と、自分は婚約者なのか。
盛り上がる両親と裏腹にアレクセイの心は冷める一方だった。
いざ顔を合わせたルヴィアは、たいそう可愛い少女であった。白銀の髪に、大きな蒼の瞳。抜けるような白い肌は、自分を見てぱっと朱に染まった。
ぎこちなく、自分を意識していると丸わかりの表情で挨拶するルヴィアは、両親には微笑ましく、アレクセイにはいっそ滑稽に映った。
この女、俺のことが好きなんだな。出会ったばかりで、よくやるものだ。
今まで会ってきた女は皆自分を見てこうなるが、ルヴィアほどわかりやすい女は、初めてかもしれなかった。
◇
実際にルヴィアは、たいそう滑稽な女だった。
「ルヴィア嬢、見たか」
「ああ、本当に殿下に夢中だな」
たまり場のサロンで、悪友たちと笑う。ルヴィアは、アレクセイに気に入られる為に、どんな努力も惜しまなかった。
巻き髪が好きだと聞けば巻いてきたし、乗馬が好きと聞けば、教師をつけた。
面白半分に情報を流しては、そのとおりに振る舞うので、アレクセイの友人間では、ルヴィアはいい玩具だった。
「さっさとお情けをかけてあげたらどうだ?」
「よしてくれよ。俺はああいう目の潰れた女はごめんだ」
ルヴィアはアレクセイのことを、完璧な礼節を持った王太子であると信じ込んでいた。このように、サロンでふざけ、視察と称し悪い遊びにふける一面があるなど、考えもしないのである。
自分を見上げる、尊敬に満ちた瞳。馬鹿らしくて、乾いた笑いさえ消え果てる。あんなおろかな女が自分の婚約者だと。
「まあ、隠れ蓑には十二分だな」
「要注意なのは、家がラタというところだけだな」
まさにそれだけだった。ラタの当主とその後継は厄介だが、ルヴィアは、本当にアレクセイにとって、取るに足りない女であった。
◇
「それがどうして、こんなことになったのか……」
アレクセイは、廊下を苛々と歩いていた。自室にこもる気にもなれず、とりあえず鍛錬でもしようと思ったのである。
「あっ」
そこでちょうど、最も会いたくて、最も会いたくない相手に出会ってしまった。ルヴィアは、ものすごく気まずい気持ちを押し隠した様子で礼を取った。アレクセイは苛立ちを抑え応える。
「鍛錬にございますか」
「そんなところだ」
「そ、そうですか。それでは私は、失礼いたします」
どうしていいかわからないという顔で、慌てて去ろうとするルヴィアの手を取る。ルヴィアが大きく肩を跳ねさせた。
「私より先に去ろうとするなど感心しないな」
「殿下……」
「なにを怯える? 私は待つと言ったが」
手首を掴む手に力がこもる。ルヴィアは息を飲んで、俯いた。それから「怯えてなど」ともたもたと呟く。アレクセイは笑う。
「ルヴィア・ラタ嬢らしからぬ振る舞いだな?」
「殿下」
「何が不満だ」
ルヴィアの目に涙が滲んだ。アレクセイの中で、二つの気持ちが生まれる。一つは愉快、一つは罪悪感だ。
「殿下が……」
ルヴィアが、固く目を閉じると、まつ毛から涙の雫がぽろりと落ちた。一度こぼれればあとからあとから続く。
「私が何だ」
ルヴィアが口を開こうとして、また閉じた。しばらく繰り返され、それらが音になることはなかった。
「応えられず申し訳ありません」
ただ、その一点張りで。
アレクセイは、流石に腹が立ってしまい、ルヴィアの肩を掴んだ。
「何だ、さっきから! 言いたいことがあるなら言えばよいだろう!」
何故ここまで信用がない。
「いつも君はそうだな。好きという割に自己完結ばかりして……私の気持ちは無視か?」
これだから箱入りの女は面倒だ。そして、つい、口走ってしまった。
「フラーラはわかりやすかったぞ!」
次の瞬間、頬に衝撃が走った。また打たれたのだと気づいたのは、ルヴィアが泣きながら、アレクセイを睨む顔を見てからだ。ルヴィアは歯を食いしばって、嗚咽を耐えていた。
「嫌い……殿下なんて、大嫌いです!」
アレクセイの時が止まる。その間に、ルヴィアは、走り去っていた。
嫌い。