ガラスの城(ルヴィア視点)後編
「申し訳ございません」
「いえ。こちらこそ無粋な真似をいたしました」
ルヴィアは恐縮していた。冷静になれば、介抱してくれた紳士は、隣国のズーシャ王子ではないか。褐色の肌に漆黒の髪、金色の瞳とくればわかるものを、よほど自分は頭がどうかしているらしい。
ズーシャと彼の側近(未婚の令嬢たるもの、紳士と二人になるべからず、のためのズーシャからの気遣いである)に見守られながら、ルヴィアは青くなったり赤くなったりと忙しかった。
「お恥ずかしい限りです。兄離れができなくて」
「いえ。そこまでルヴィア嬢に思われて、兄君も果報者でしょう」
ルヴィアは涙の理由を咄嗟に兄恋しさにすり替えていた。若干の後ろめたさを覚えつつ、ルヴィアは兄の手紙に感謝した。
「あの、どうかこのことはご内密に……」
図々しいことこの上ないが、令嬢が泣いていたなど心得違いにもほどがある。ルヴィアの嘆願に、ズーシャは笑った。
「ええ。内緒にしましょう。私は口が固いので安心してください」
「ありがとうございます」
ズーシャはすっと拳で彼の両肩と胸を往復させた。それは隣国の約束を意味するのだと、兄から聞いていた。ルヴィアは微笑んだ。何故か、この人のことは信頼して良い気がした。
「では、ルヴィア嬢、またお会いしましょう」
「はい。ご機嫌麗しゅう」
木枯らしの中、みどりの香を残し、ズーシャは去っていった。
◇
言葉通り、ズーシャはよく現れた。隣国からの遊学に来ていることは知っていたが、未婚の令嬢たるもの、未婚の紳士と行動を共にするなど出来ないし、儀礼的な付き合いしかしたことがなかった。
しかし、あの一件以来、ズーシャは何くれと理由をつけては、ルヴィアに会いに来るようになったのだ。
「あなたの兄君が私の国にいらっしゃるのなら、あなたに礼を尽くさねばと思っていました」
側近――ちなみに既婚女性もいる――もたくさん連れて来てくれるという気づかいを見せられては、隣国の王子ということもあって無下にはできない。また、隣国の話を聞くことはルヴィアの気持ちを楽にしてくれた。
ズーシャは優しく、気品高いのに気取りのない男で、いつもまっすぐルヴィアの目を見て話してくれた。ルヴィアも不思議と気負うことなく、兄を頼るようにズーシャに話すことが出来た。
「ルヴィア嬢は、笑うととても愛らしいですね。いつもそうなさればよいのに」
「またそのような。本当にズーシャ殿下は、ご冗談が上手いのですから」
笑うと子供っぽくなるのが恥ずかしく、ルヴィアは努めて美しく微笑するように心がけていた。しかし、ズーシャといるとどうにも気が抜けてしまうらしい。扇子で隠し、ルヴィアは顔を背けた。
素敵なお方だ。自分のような者にも優しいのだから。
アレクセイを見ると、胸が痛くて仕方なかった。アレクセイがフラーラと共にあり、自分には見せない笑顔で笑う。それだけで、楽しい気持ちはぐしゃぐしゃに砕けてしまう。泣き出したくなるのを、最近はとみに抑えるのが難しかった。
何故ならば、アレクセイはいっそう、ルヴィアに冷たいのだ。
「君はずいぶん余裕があるようだな」
フラーラの教育が行き届いていないと、ひどく責められる。ルヴィアは「申し訳ございません」と謝るしかない。最近のフラーラはというと、アレクセイと同じようにルヴィアに軽蔑の目を向けるのだ。
「殿下がいらっしゃるのに、ルヴィア様は酷い方」
要するに、ズーシャのことを責められているようだ。アレクセイに詰られるならまだしと、フラーラに責められるのは屈辱だった。もっともアレクセイは自分に興味などない。それもまたみじめだ。
たしかにフラーラの理屈でいうと、フラーラはアレクセイの事しか見ていないし、ルヴィアは移り気で身分高き者の傲りに満ちているように見えるのだろう。
しかし、ルヴィアだってアレクセイだけを見てきたのだ。ズーシャといると楽しい、その気持すら自分には許されないのだろうか。
そこまで考え、ルヴィアは自らの浅ましさを恥じた。
今まで、儀礼としてしか、異性と交流を持ったことなどなかったのに。アレクセイ以外の男性に、楽しみを見出すなど。
それはやはり移り気というものではないだろうか。ルヴィアは、自らの信条でもって、自らを不貞の道へ突き進むことをよしとしなかった。
だから、ズーシャから求愛されたとき、はっきりと断った。
◇
「私は婚約者ある身です。殿下の御心に応えることはできません」
ズーシャが隣国に帰る折、告白をされた。このような時でも、ルヴィアに不利にならぬよう、側近を側においてくれていた。
その優しさに胸を打たれないルヴィアではなかった。けれども、心は決まっていた。ズーシャといると、胸が温かくなる。けれど、そこに安住するわけにはいかないのだ。
苦しくても、自分はアレクセイといたいのだ。アレクセイに、自分を見てほしいのだ。
「あなたは自分を縛めている」
ズーシャは哀しげにルヴィアを見つめた。ルヴィアは頭を振った。
「私にはアレクセイ殿下だけです。あの方以外、考えられないのです」
「そんなあなたごと、私が愛していてもですか」
ルヴィアの目から、思わず涙がこぼれた。急ぎ拭い、頷いた。
「私の心は、アレクセイ殿下のものです。誰にも好きにはさせません!」
「……そうですか」
ズーシャはハンカチを差し出し、ルヴィアの手に握らせた。布越しに熱い体温が伝わる。
「それなら忘れないでください。私の心はあなたのもの。あなたにもそれは変えられません」
そう言って、ズーシャは去っていった。みどりの香りだけを残して。
◇
ズーシャが隣国へと帰り、ルヴィアはアレクセイに呼ばれた。ルヴィアは覚悟して王宮へ向かった。
「来たか」
それだけ言って、アレクセイは黙り込んだ。ルヴィアは、静かに言葉を待つ。フラーラの聖女の行が完遂されたばかりだ。国中で、フラーラの名声は高まっている。だからきっと、このままフラーラを正妃に迎えたいという話だろう。その為に、自分にひいてほしいと……。
「フラーラは村に帰すことにした」
「――え?」
「君が私の妃だ」
ルヴィアは時を忘れ、アレクセイの顔を見た。アレクセイは常にない、どこか落ち着かぬ顔で、ルヴィアとその他に目線をさ迷わせていた。
ルヴィアは、茫然とした。それは待ち望んでいた言葉のはずだった。なのに、ちっとも嬉しくなかったのである。
「どういうことですか?」
「何がだ」
「フラーラ嬢を、側妃にすると……その為に、私に彼女の教育を頼んでいたのでは」
「気が変わった。聖女を側妃にするなど、やはり外聞が悪い」
「でも、愛しているとおっしゃいました」
「そのようなこと言った覚えはない」
ルヴィアは、言葉を継げば継ぐほど、何かが壊れていくような気がした。何だろう、この事態は。今まで自分はなにを頑張っていたのだろう。
「でも」
「くどい! 望み通り、君が正妃だ。何が不満だというのだ?」
がしゃん。ルヴィアの頭の中で何かが完全に砕けてしまった。
私はこんなものが欲しかったのではない。
「私はただ、あなたに謝って欲しかったのです」
「何?」
「自分が間違っていたと。好きなのは私だと」
涙が頬を伝う。もう、泣くことを我慢しなくていいのだ。
「私は殿下にずっと、振り向いてほしかったのです」
でも、それだけだ。自分たちの未来に、何にも想像も展望もない。自分は勝手に、一人で未来図を描いていただけだ。
それでも、ずっとずっと好きだった。
嗚咽をもらし、ルヴィアは泣いた。扇子を握りしめ、震えながら、その場から動きはしなかった。ずっとずっと、子どもが駄々をこねるように、泣きたかった。
ずっと、独りよがりだった。けれども、自分はいつだって真剣だったのに。殿下にとって自分は、それさえ受け止めるに値しないのだ。
「すまなかった」
あたたかなものに包まれ、ルヴィアは目を見開いた。それがアレクセイの腕だと気づくに、ゆうに五秒はかかった。
「殿下……?」
「君を、ないがしろにしたかったわけじゃない。ただ」
アレクセイは言い淀んでいた。とてもそれらしくない振る舞いだった。ルヴィアは身じろいだ。すると、もっとかたく抱きしめられた。
「君は、いつも好きだという割に私を見ないから。それで腹が立っていたんだ」
ルヴィアは目を見開いた。その拍子に、涙が瞬いた。アレクセイはそれを指先でぬぐった。
「それは、そのことに気づいたのは最近だが」
涙が落ち、明瞭になった視界の向こうで、アレクセイはばつの悪そうな顔で、ルヴィアを見ていた。こんな顔をなさる方だったのか。十年以上一緒にいたのに、気づかなかった――。
「私だって君を好きだ。だから君しか正妃にしない」
ルヴィアがアレクセイの頬を思い切り張ったのは、その数秒後である。
「なっ……」
頬をおさえ、動揺するアレクセイを見下ろし、ルヴィアは「うう」と嗚咽を漏らした。アレクセイが目を見開く。ルヴィアは子どものように泣いていた。
おおよそ令嬢の中の令嬢、ルヴィア・ラタらしからぬ振る舞い。アレクセイはしばしその様を見つめ、そして、ルヴィアを抱きしめた。
「すまなかった」
「許しません、許しません、殿下の浮気者……!」
「本当にすまなかった。愛している」
「わああ……!」
ルヴィアはアレクセイにしがみついた。そして、一晩中泣き明かした。
目が覚めた時、ルヴィアはいつものルヴィアと戻っており、ひたすら恥ずかしそうに小さくなった。
アレクセイは、追及せず、ただ「私の妻に?」と問うた。ルヴィアも謝らず、ただアレクセイに応えた。
《了》