第二十二陣
気づけば、俺は夢の奥底から浮かび上がっていた。
ふわっとすると言うか、ペタッとするというか、頬の感触と心地良い匂いに違和感を覚える。
「おはよう、河上君」
野村の声。
ああ、そうか。
俺は今、野村の膝の上で、眠っていたのだ。
意識は戻ったはずなのに、体は動こうとしない。まるで、今この瞬間が一秒でも長く続いてほしいかのように。
「また、耳かきしていい?」
野村が問いかける。
その声には少しだけ、名残惜しさが滲んでいた。
俺は少しだけ考え、ふと口を開いた。
「…頼む」
それは決して惰性ではない。心の奥から出た素直な言葉だった。
「うん、今度はゆっくり、ね」
そう言いながら、野村は指先で耳の淵をなぞった。
それだけで、また意識が揺らぎそうになる。
「本当に気持ちよさそうに寝てたよ、河上君」
「…覚えていない…」
その言葉に、野村は小さく笑った。
こうしていると、喧騒も、義務も、孤独も、全てが遠くなる。
静かな図書室に、誰の気配もない。
それでも俺は、この静けさを、しばらく壊したくなかった。
野村は手を緩めない、俺の耳の淵に、ゆっくり、ゆっくりと触れる。
この全てがどうでも良くなるような感覚、病みつきになる。
「…ねえ、河上君、私さ、好きって伝えたけど、その先は伝えてないよね?」
ああ、野村は、俺の事を…そうだった。
「…そうだな、好意だけは、聞いた」
「うん、だから、ちょっとズルいかもだけど、ここで言うね…今でも好きは変わらないし、それどころか、日に日に増して、最近はどうしようもなくなっているんだ、でも河上君の返事を聞くまでは、全部我慢しようと思う」
「……」
大事な話をしているはずだが、俺の意識は遠くなりそうになる。
「…………」
そして野村の匂い。
野村の香りが、やけに強い。柔らかくて、甘くて、体温のように生っぽくて。
「…寝てんじゃないよ!」
「…あ、ごめん、つい……」
「ったく、いいけどさぁ」
これは――危険だ。
膝枕の快適さではない、もっと根本的な危険。
この感触と匂いに慣れたら、俺の日常は崩壊する。
「……野村、何か香水でもつけているのか?」
「ん? 香水?つけてないよ? どうしたの?」
「いや、野村の匂いが…強いのだ」
「えっ!? ちょ、私、臭う!? いやだ……」
「違う、嫌な匂いではないむしろ…おそらく、その逆だ」
「……へ、へえ、ふ、ふーんふーんふーん……?」
野村が変なテンションで鼻歌を歌い始めた。
その耳元の距離で。さらに香りが強まる。
……やはりまずい。
このままでは、フェロモンというものが俺の理性を切り崩してくる
「ねえ、河上君」
「…なんだ」
「耳、じゃなくても、さ…触れられると意識しちゃう?」
「…する」
正直に答えると、野村は嬉しそうに笑った。
「そっか…じゃあ、次はここ、触ってみてもいい?」
そう言って、野村は俺の首元に指を這わせた。
「うっ…」
「わ、ほんとに反応してる…こういうとこ、無防備なんだ」
「野村…これは…お前、自分が何をしてるか… …分かって…」
「うん、分かってやってるよ?」
はっきりと、笑顔で言い切った。
もう、野村は引く気がない。
それどころか、あえてじわじわと距離を詰めてくる。
「だって、もう伝えたもん、好きって。返事がもらえなくても、今の私はこうしたいって思ったら、するよ」
手が、首筋から鎖骨の上へと、そっと移る。
そこは、シャツの襟元――肌に触れそうで触れない、ギリギリのライン。
「それとも、やめてほしい?」
「……」
「ふふ、そっか」
野村の声が、ほんの少し震えていた。
それは恐らく、高揚感だ。
俺の理性と、彼女の好意と、全てを賭けた戦い。
その手が今度は、俺の頬に触れた。
「…河上君の、ほっぺ、あったかい」
「体温があるからな…」
「でもさ、河上君の体温、今、私の膝にも伝わってきてるよ…変な感じ」
そう言いながら、彼女は俺の頬を両手で包み込む。
だが野村はあくまで、ギリギリで止まる。
「まだ返事は聞いてないからね…私は待つ、ちゃんと、河上君の言葉で、聞きたいの」
それは、彼女なりの一線。
俺は――今すぐにでも、理性を手放したい衝動に駆られていた。
だが。
「…野村、お前は…強いな」
「ううん、私、今めちゃくちゃ怖いよ、でも、これが私の勇気なんだよ」
その言葉に、俺の心がほんの少し傾く。
ほんの少し。
だけど、それは確かな一歩だった。




