Blindness
私の兄は、本である。
比喩でもなんでもない。
兄は「本」そのものなのだ。
赤い立派な装丁の割には、薄っぺらいので持ち運びが非常に楽。
本来、題名のあるべき場所には「ティト・カルデイロ」という文字がでかでかと書かれている。
これは、兄の名前だ。
著者部分には、兄に呪いを掛けてこんな姿に変えた魔術師「ベルナルド・エスキペル」の文字がある。
これらは金色で印字されているため、太陽の光を受けてキラキラと輝いているのだが、兄の名前はまだしも、あいつの名前も光っているというのが忌まわしい。
「お兄ちゃん、本当にこの先の街に行くの?」
『もちろん。そこには、かなり昔だけど、高名な魔術師が住んでいたはずだ。魔術師年鑑に載ってた情報だから、たぶん本当』
「今はもういないんでしょ?行っても意味ないんじゃない?」
『子孫がいるかもしれない。魔術師の腕は血筋で決まるから、そいつが俺たちの呪いを解ける可能性はある』
「わかった」
本である兄に話しかける私は、はたから見ればただの不審者でしかないだろう。
兄は声を出して話すことができないから、開いた適当なページに私と会話するために文字を映し出す。
インクが滲み出るように文字が現れては、次々と消えてまたページが書き換えられていく様子は少しだけ面白い。
こんなことを言えば、怒られるのだろうけど。
『ラナ、頼むからこの前みたいな無茶はするなよ』
「何よ。あの時だって私が頑張らなかったら、お兄ちゃん、今頃、暖炉の中で灰になってたよ」
『そうかもしれないけど…。絶対に怪我をするな』
「はいはい」
私だって、好き好んで怪我をしている訳ではない。
むしろ、誰かに攻撃され、負傷するのはこの世で最も忌むべきことだ。
これ以上、説教をされるのも嫌なので、私はぱたん、と本を閉じると鞄の中にしまう。
きっと、本の中では兄が私に対する罵詈雑言を綴りまくっているのだろうけれど、見えなければそれでよし。
普段は会話ができない寂しさを感じるが、こういう時は、うるさくないので実に楽である。
そもそも、もうお分かりかもしれないが、私たち兄妹が旅をしているのは呪いを解くためである。
呪いを掛けた張本人に解いて貰うことが出来るのであれば、それに越した事はないが、相手は悪名高い魔術師。
自分の欲望に忠実で、相手の意見など聞きやしない。
自分が一番正しいと、盲目なほどに思い込んでいるのだ。
そんな人間に、頭を下げたからと言って、呪いを解いてもらえるはずがない。
という訳で、仕方なく、呪いを解くことのできる他の魔術師を探して回っているのだ。
けれども、この呪いがまた高度な魔法らしく、なかなか解けるような人間がいない。
私たちが旅に出て、すでに3年は経っているだろう。
3年間、優秀な魔術師に1度も出会えていないなんて、運が悪すぎるにも程がある。
「あーあ、次こそ当たりだといいなぁ!」
兄に話しかけるせいで独り言に慣れてしまった私は、周りの目を憚ることなく、道中で大きく空に向かって叫んだ。
◇ ◆ ◇ ◆
『どうしてお前は、人が話してる途中で本を閉じるんだ!』
「もう、終わったことでしょ!街に着いたからせっかく報告するために開いてあげたのに!説教するなら、また鞄の中に入れるよ?」
『人が動けないのをいいことに、好き勝手しやがって!』
「お兄ちゃん、カリカリしすぎ!カルシウム足りてないんじゃない?あ、本だから牛乳も飲めないもんね!」
『うるさい!お前は牛乳飲んでる割には全く成長しないな!このちび!』
「はぁー?今のお兄ちゃんの10倍は大きいですけどー?私の手に収まるサイズの男が何言ってんだか!」
街の広場でこんなやりとりをしていたら、当然目立つ訳で。
というより、目立っているのは、本に向かって怒鳴り散らしている私だけなんだけど。
周囲にいた人々は、こちらを見て囁き合いながら、もしくは、逃げるようにして早足に通り過ぎて行く。
すみませんね、変な人で。
運の悪い時だと、警察に通報されてしまうこともある。
そうなったら、もちろん、全力で逃げるんだけどね。
私はともかく、お兄ちゃんのことがバレたら、珍しいからって国立魔術研究所に送られかねない。
きっと、バラバラに解体されて、一枚一枚を調べ上げられるんだろうな。
サンプルとか言って、身体の一部を持って行かれるかもしれない。
そうなったら、ちょっといい気味だと思いながら、私は本に向かって怒鳴り続ける。
「ふん、お兄ちゃんなんか、研究所で解体されちゃえ」
『俺が解体されたら、お前泣くだろ?この泣き虫!』
「誰が泣くのよ!馬鹿にしないでよね!」
『やーい、ばーか、ばーか!』
「子供か!」
「君、ちょっと良いかな?」
突然、後ろから肩をぽんぽん、と叩かれて私は飛び上がる程驚く。
肩に掛かった手を払いのけ、距離を取って振り返った。
そこには、私と同じように驚いた顔をした男の人が立っている。
顔面偏差値は65くらいで、身なりは上の上。
貴族か!と突っ込みたくなるような、上等な織物にきらびやかな装飾を施された洋服。
形状から見るに、ローブのようだ。
と、いうことは魔術師?
「何か用ですか?」
間合いを取ったままそう問いかければ、苦笑が返って来た。
笑う度に、銀色の髪がさらさらと揺れている。
「いや、1人で怒鳴り散らしていたようだから、どうしたのかと思って」
「どうもしませんよ。独り言です」
「本に向かって、話しかけてなかった?」
「いいえ、独り言です」
「その本から妙な魔力を感じるんだけど、気のせいかな?」
なかなかどうして、鋭いようだ。
少し腕の立つ魔術師なら、私たちから出る魔力が微妙におかしなことに気づくだろう。
呪いを掛けられた人は、自身の魔力だけじゃなくて、呪いを掛けた相手の魔力も混ざるからね。
「失礼ですが、お名前は?」
高名な魔術師ならば、話をする価値はある。
私はそう踏んで、注意深く相手を見守る。
こちらが警戒してるのは、嫌でも伝わるだろう。
けれども、この人は私の警戒を意にも介さず、にっこりと笑って手を差し出して来た。
「イルッカ・ラハティだ。君は?」
「ラナ・カルデイロです」
差し出された手を無視するのも失礼なので、私は渋々と右手を出して握手を交わす。
あまり人と触れるのが好きではないので、その生ぬるい感触に、少しだけぞわりと鳥肌が立った。
「もし良かったら、僕の家に来るかい?」
「は?」
握手しながらの、突然の申し出に思わず間抜けな声が出る。
独り言を喚いていた不審者を家に呼ぶとは、この人は一体、どういった神経をしているのだろうか?
私はイルッカさんの顔をまじまじと見つめてしまった。
見られるのは慣れているのか、この人は動揺する様子もない。
「ここでは話しにくいこともあるだろう?」
そう言ったイルッカさんの目線が、明らかに本に注がれる。
あぁ、家に来て、このへんてこりんな本について、洗いざらい話してもらおうって魂胆かな?
もし、この人が兄の言っていた「高名な魔術師の子孫」なのであれば、上手くいけば呪いを解いてもらえるかもしれない。
けれども、違ったら?
自分では判断をしかねて、兄の助言を貰うために本のページに目を落とす。
そこには小さく『ビンゴだ』とだけ書かれていた。
「行きます」
その文字を見て、躊躇うことはない。
兄がビンゴだと言ったのであれば、この人がその「高名な魔術師の子孫」なのだろう。
◇ ◆ ◇ ◆
客間に通されて、一人きりにされた私(正確には2人なのだけど)は、部屋の中を見て回る。
客間のくせに、本がやたらと置いてあるのはどういうことなのだろう?
疑問には思うけれど、その辺の本に興味はないので私は調度品を眺める。
イルッカさんはお茶を用意するから、と言って、部屋を出て行った。
そこそこ大きい家ではあるけれど、使用人などを雇っている様子はない。
というより、人の気配がないので、ここはイルッカさんだけが住んでいるのだろう。
「見て、この棚。端に小さく神言が刻まれてる。これ、どういう意味?」
『ちょっと待て。探して来る』
兄はそう言うと、黙り込むようにページに文字を映さなくなる。
これは神言についての文献を探しに行っているからだろう。
兄曰く、本になってからこの世のありとあらゆる活字の書かれた媒体に潜り込むことができるようになったそうだ。
おかげで、欲しい情報は兄に訊けば十二分な程の答えを返してくれる。
物語だろうと歴史だろうと魔術だろうと、ありとあらゆる情報を網羅しており、この能力に助けられたことは数えきれない程ある。
もちろん、情報の取捨選択は自分たちでしないといけないのだが、そこは頭の切れる兄。
完璧なくらい、真実に近い答えを弾き出してからページに映してくれる。
我が兄ながら、非常に便利だ。
『あった。その神言は、ただの魔物避けみたいだ。ついでに、イルッカ・ラハティについての文献も引っ張って来た』
「さすが。あの人、どんな人物なの?」
『一応、魔術師だけど、今はファンタジー作家をやってるみたい』
「なにそれ。勿体ない」
『本人のやりたい仕事なんだから、ラナがつべこべ言うことじゃないだろ?』
「そうだけどさ」
客間に本が置いてある理由はなんとなく理解できたが、強い魔術師の家系なのにそれを生かさないことに対しては、全く以て理解できない。
私がそのことについて口を尖らせている間にも、兄は文字を写し続ける。
『基本的には真面目で穏やかな人みたいだけど、過去に何回か逮捕歴があるようだ』
「真面目な人が逮捕される訳ないでしょ」
『尤もな意見だけどね。イルッカはどうやら、自身の興味の対象にはかなりしつこく絡むらしい』
「どういうこと?」
『つきまとい、所謂、ストーカーというやつだ』
「最低」
人の身体に触れるのは嫌いだ。
そして、そんな人間の手に触れたと思うと虫酸が走る。
私はさっき握手をした右手を、服の裾でごしごしと擦った。
「小説のネタにするための興味ってこと?それとも、魔術師として興味が沸くってこと?」
『どうしてそういう方向に話がいくかな…。好きな女性への興味ってのも考えられるだろ?』
「何それ、あいつみたい」
『ベルナルド?』
「うん」
私はあいつの名前を見るのすら嫌で、眉をしかめる。
兄に早くその文字を消して、と言えば、時間が巻き戻るようにページが白紙になった。
『ごめん、ラナ』
「別に、いいよ。でも、イルッカさんがストーカーとかちょっと想像できない」
『かっこいいもんな』
「そうだね。女の人くらい、黙ってても近づいてきそうじゃない?」
『ラナが肯定するなんて、珍しい。もしかして、惚れた?』
「馬鹿じゃないの!」
ふん、とそっぽを向いて、兄を投げてやろうとした瞬間、扉が開く。
トレーを持って入って来たイルッカさんと目が合って、少しだけ気まずい。
「今も、話してたのかな?」
「聞こえてました?」
「少しだけね」
イルッカさんは苦笑すると、私にソファに座るように促す。
別に反抗する理由もないので、素直に席に着くと、イルッカさんは対面に座る。
そして、紅茶を淹れてくれた。
華やかな香りが部屋に充満する。
「それで、その本は一体なんなんだい?」
あまりにも直球な質問に、私は苦笑してしまう。
魔術師ってまわりくどくて、嫌味な言い方をする人が多いんだけれど、この人はどうやら違うみたいだ。
ストーカーしてたという、変な前情報が無ければ、この人には好感を抱いていたかもしれない。
「兄です」
「え?」
「この本、兄なんです。呪いを掛けられて、こんな姿になってますが」
私はページを開くと、イルッカさんに見えるように掲げる。
『こんにちは。ラナの兄のティト・カルデイロと言います』
「すごい。文字が湧き出て来るみたいだ」
イルッカさんは目をまんまるにして、本を凝視する。
作家だって言うし、本自体にも興味はあるだろうに、それに魔法が掛かってるとなると魔術師の血も騒ぐのだろう。
「本になってるって、どんな感じなんだい?身体の感覚とか。ページを破ると、痛いと感じる?」
矢継ぎ早にされたイルッカさんの質問に、兄が答える前に私は本を閉じる。
家に呼んでくれたのはイルッカさんだけれど、私たちがのこのこ着いて来たのは呪いを解くためだ。
あまり長居をして、余計なことをあれこれ聞かれるのも気持ちのいいことではないし、さっさと用件を済ませてしまいたい。
もちろん、解いてくれるのであれば、それなりの報酬は渡すし、出来る限りの私たちの話もするけれど。
「イルッカさん。不躾なお願いだとは思うのですが、呪いを解いて頂くことってできますでしょうか?」
私は彼の質問をばっさり切り捨てて、手短に用件を伝える。
イルッカさんは、それに対して不快感を表すこともなく、うーん、と顎に手を当てると、考えるように目を瞑る。
「できる、とは言い切れない」
「はっきりしませんね」
「ごめん。解法はいくつか検討がつくけれど、検証しないとどれが正解かは分からない」
私はその言葉に内心驚く。
今まで、何人もの魔術師を当たって来たが、誰もが私たちを見た瞬間に首を横に振っていたのだ。
解法が今の段階で思いつく、というのはもしかしたら、希望があるのかもしれない。
「解いてもらうことは出来ますか?」
「僕で良ければ、やれることはやってみる。その代わり…」
交換条件か、と内心、舌打ちしながらも私は黙って言葉の続きを待つ。
これだけ、やっかいな呪いを解いてもらうのであるから、多少の犠牲は仕方が無い。
兄のページが破られようと、まぁ、我慢してもらうしかないだろう。
「君の呪いを発動させていいかい?」
「え…」
意外な条件に、私は言葉を失う。
イルッカさんは、申し訳なさそうな顔をするけれど、じっとこちらを探るように見つめている。
「君にも、掛かっているだろう?どんな呪いか見てみたいんだ」
「どうして…」
見破られたのは、初めだ。
兄と違って、私はそのままの姿だし、あの下衆な魔術師と混ざっている魔力もかなり微量だ。
あいつと同等の力を持っているか、それ以上でないと分かるはずがない。
これはいよいよ、当たりだ。
絶対に、私の呪いを発動させる訳にはいかない。
この人を、殺すことだけは、絶対にしてはいけない。
「ダメです。その条件だけは呑めません」
「どうして?私の見立てでは、君に刻まれた呪いは一時的に姿が変わるだけのように見えるんだけど…?」
「ダメなものは、ダメなんです」
「発動条件は分かっている。君に危害を加えれば発動するんだろう?」
「やめてください。あなたを、殺したくないんです」
「大怪我をさせたりはしないよ」
「お願いですから、変な気を起こさないで!」
私が頑なに断れば断る程、イルッカさんの目が爛々と輝く。
人間というものは、隠せば隠すほど、その中身を知りたくなる生き物なのだ。
私も、そういう人間だからその気持ちは痛い程わかる。
逆の立場だったら、きっと、私は…。
「ごめんね、ラナさん」
この人と同じことをしただろう。
相手の身体を魔術で縛り、少しだけ、傷つける。
イルッカさんがしたように、指先とかを、ね。
「うぁ…」
血が溢れ出る。
真っ赤な血が、指先から流れて、ぽとりと床にシミを作る。
真っ赤な血が、あいつの瞳の色と重なる。
瞬間、どくりと心臓が大きく波打った。
思い出す、あいつの声を、あいつの姿を、頬を撫でられる感触も、あの気が狂った表情も、全部、全部。
「あぁ、ラナ、ラナ、あれだけ怪我をしないようにって言ったのに」
自分の口から、自分の言葉ではないものが零れ落ちる。
もうだめだ。
イルッカさんは助からない。
せっかく見つけた、優秀な魔術師だったのに。
「私が殺してあげるからね。ラナを傷つけた奴は、この世に存在する価値なんかない」
驚き固まっているイルッカさんの顔が目に入る。
きっと、私はいつものように緑の目ではなく、赤い目をしているんだ。
髪も栗色じゃなくて、真っ黒に染まっているはず。
あいつと同じ、忌まわしい、兄を私をこんな身体にした魔術師と同じ色。
「ティト」
私の口がこう言えば、兄のページがひとりでにペラペラと捲れる。
私も、兄も、こいつには逆らえない。
こいつの気が済むまで、我慢するしか無いのだ。
「好奇心でラナを傷つけた罰だ。最高に苦しんで死ぬ魔法を掛けてやろう」
私の手が、兄を拾い上げて開いたページに目を落とす。
そこには、びっしりと呪文が書き記されている。
私の口が命令した、最高に苦しんで死ぬ魔法が。
嫌だ。そんな呪文、唱えたくない。
私は心の中で、お願い、やめて。と何度も念じる。
自分の口がふっと歪んで、吹き出すのを感じた。
「ラナ。私は君のためにやっているんだ。ティトだって、大事な妹を傷つけた奴を許せないだろう?」
兄は答えない。
ページはひたすら、呪文のみを映し出す。
「まぁいいや。そんなに見たくないのなら、今日は眠っていると良い」
私の口はそう言うと、兄を持っている方と反対の手を胸に当てる。
「おやすみ、ラナ。愛してるよ」
反吐が出る。
心の中でそう吐き捨てた言葉は、あいつに、ベルナルドに届いただろうか。
意識が沈む寸前、目が合ったイルッカさんは、みんなと同じ表情をしていた。
みんなが、自分の死を覚悟したときの、愕然とした、絶望に満ち溢れた表情を。
◇ ◆ ◇ ◆
『大丈夫?』
「大丈夫に見えるの?」
『見えない』
イルッカさんの家の玄関に座り込んで、私は兄と会話する。
私が目を覚ました時には、客間は普通の神経では、とてもいられるような場所ではなかった。
地獄絵図と形容してもまだ足りないくらい、凄惨な光景が広がっていたのだ。
あれを、私が、自分の手で作り出したなんて、信じたくない。
『こういう時、身体があればいいのにって思う』
「なんで」
『昔、お前がびーびー泣いてるときに、いっつも抱っこして慰めてやったの誰だと思ってるんだ』
「…覚えてるけど、今はダメだよ。私、人に触られたくないもん。たとえ、お兄ちゃんでも」
『そう、だったな』
触れられる度に、恐怖が走り、鳥肌が立つ。
あの魔術師は呪いだけでなく、精神的な傷まで私に残していったのだ。
昔は、嫌いじゃなかった。
兄が頭を撫でてくれるのも大好きだったし、両親に抱きしめられるのも大好きだった。
「ほんと、最低」
あいつが出て来る度に、誰かに危害を加えて回る。
けれども、兄がこんな姿になったのも、両親が殺されたのも、本当は全て私のせいだ。
私が変な好奇心を起こさなければ、気まぐれに、あいつに手を差し伸べなければ、こんなことにはならなかったのに。
あの忌まわしい魔術師と、一心同体になることもなかったのに。
子供の頃の盲目的な正義心が、すべての不幸の引き金になったのだ。
「行こう…」
『もう、大丈夫なのか?』
「早くしないと、警察に見つかっちゃう」
私は兄の質問には答えずに、立ち上がる。
「ごめんね、イルッカさん」
こんな謝罪で済むはずがない。
けれども、両手を血で染めすぎてしまった私の感覚はだんだんと鈍ってきている。
最初は、自分の行いに対して、嘔吐し、悪夢まで見ていたのに、今では心が痛む程度になってしまった。
そのうち、あいつの狂気と同化してしまうのではないかと思うと、背筋が凍るような思いをする。
『無理するなよ』
「うん。ありがと、お兄ちゃん」
私は兄を胸に抱きかかえると、玄関の扉を押し開ける。
薄暗い室内に、一瞬にして入り込んで来た日の光が、まるで、責めるように私の目を突き刺した。
chimiさまがイラストをリメイクしてくださいました!
こうして、出会ってから何年経ってもコラボしていただけて感涙です…!
本当にありがとうございます…!