プロローグ 妻視点
「ああ、まただわ」
香沙音は暑さで火照らせた頬に手を寄せ、首を傾げた。上質な絹のような黒髪がさらりと肩にかかる。この家に引っ越してきて数年経ったが、決まった場所に決まった朝顔がいつの日からか咲くようになった。
家の裏に生えてくる朝顔は紅が濃く珍しいもので綺麗だが、日当たりのそんなによくないところに咲くこの朝顔を香沙音はなんとなく好まず見つけるたびに除草するのが夏の日課である。
亭主関白な夫が望むままに越してきたこの家を、そして田舎を、香沙音は好きでは無かった。田舎暮らしはもう飽き飽きだ。資産家の令嬢として生まれた都会育ちの香沙音には退屈極まりない。
朝顔の名産地らしく、どの家でも朝顔が育てられその様子は壮観ではあるが、珍しかったのは最初の二年のみ。それに、香沙音は朝顔が好きではない。もっと華やかな薔薇や胡蝶蘭のようなものなら良かったのにと不満に思っていた。
仲の良い友人だっていない。
華やかな美貌で派手な印象の香沙音は、田舎ではどこか遠巻きに見られている。子供がいればママ友も作ることができるかもしれないが、香沙音には子供がいない。
「……はぁ」
結婚して八年になるのに未だ子宝に恵まれないのが香沙音の悩みだった。香沙音が夫・夏彦と結婚したのは香沙音が二十四歳のとき。ずっと欲しかった子供だがもう諦めかけている。離婚も考えたことがある。
夏彦は良き夫とは言えない。義実家に不妊を責められたときも庇ってくれなかった上に、どこかで浮気していた気配がある。そんな亭主関白で俺様な夫だが、容姿端麗でエリートな彼をそれなりに愛している―――はずだ。長年一緒だったために情もある。なにより、もう香沙音は三十路だ。離婚して再婚するのにはどうしても躊躇ってしまう年齢だ。
(私のなにがいけないのかしら)
唇を噛みながらブチブチと朝顔をむしる。悔しい。同い年の女たちは、かつての友人たちはもう子供がいるのに、自分だけがいない。女の会話は環境によって傾向が変わるのか、みんな子供と夫の愚痴、近所の美味しい料理やお菓子のお店やファッションなど華のある話題で盛り上がっている。だが、香沙音は子供がいない。近所に誇れるものがない。あえていえば朝顔と朝顔をモチーフにした土産物が多いくらいで、華やかな話題を提供する環境になかった。刺激にあふれる都会に住む友人たちに多彩な話題と、田舎の朝顔くらいしか話題がない香沙音では自然と疎遠となっていった。
今まで友人たちのなかで一番綺麗で賢くファッションリーダーとして人気者だった香沙音だが、まさかこんなことになるなんてと、本人は忸怩たる思いで耐えていた。
傲慢なお姫様。誰もが道を譲り優先する美しい女性。女王さま。それがかつての香沙音だったのに。
そしてその傲慢さを、周囲の人たちのみが理解していた。香沙音は、気づいてさえいなかった。
「もぅし、すみません」
香沙音は弾かれたように顔をあげ、むしっていた朝顔を放り捨てる。紅い朝顔はまるで血のように散らばり、ゾッとした。顔が引きつる。洗練とした眉をしかめて、振り向く。老いた男性の声が玄関のほうで聞こえた。客だろうか。
「すみません」
「ええ、なんでしょうか」
庭から玄関へと行けば、それなりに高そうなスーツをまとった老紳士が立っていた。温和そうな老紳士は、にっこりと微笑んで香沙音に話しかけてくる。
「私は以前この家を所有していたものです。…奥様でいらっしゃいますかな?」
「え、ええ。そうですわ。あの、前の持ち主さんがどういったご用件でいらっしゃったのでしょうか?」
「ああ、すみません」
老紳士は帽子を取り、胸の前に置く。所作は洗練としていて、教養があるように見えた。若い頃はさぞ男前だったのだろうと往年をしのばせる容姿だが、シワは深い。それでも整った印象で、香沙音の警戒と緊張をほぐすに足る御老人だった。
「私はこの土地で朝顔の品種改良をしていました。この家を手放す前に、家の裏手に私が作った朝顔を植えていたのですが」
「まぁ」
それではさきほどむしっていた朝顔はこの老紳士が作った新種だったのだ。悪いことをしてしまったと、香沙音は顔を青ざめる。
「もちろん引っ越しの際に朝顔は新居に持っていったのですが、今年の朝顔をすべてダメにしてしまいまして」
「お気の毒ですわ」
「ははは、年には勝てませんね。うっかりしていたのです。なのでこちらに植えていた朝顔をいくらかわけて貰おうかとお伺いした次第です」
「そうだったのですか、では私がお持ちしますわ。せっかくいらしたのです」
香沙音は焦った。なぜなら先ほどまで雑草のごとくむしっていたのだ。そのことはひと目でわかるだろう。バツの悪い思いをした香沙音は、粗雑に扱っていたのを知られたくなかった。
「いいえ、美しい女性に土いじりはさせられませんよ。暑いでしょう?熱中症にでもなったら大変です」
「あら、お上手ですわね。有難う御座います」
だが老紳士は香沙音を思いやり断った。香沙音は感心した。夫も、田舎の男性も、炎天下で女性が土いじりしていてもなにも言わない。容姿を褒められて悪い気もしなかった。ここ数年間、美しいと言われたことが夫にさえ無かったのだ。久々に女性として扱われ、身体に水が行き渡るような感覚をおぼえる。ああ、やっぱり女にとって女扱いされ大事にされるのが一番の化粧水だと香沙音は思った。
「あ、あの…」
「ん?どうなさいましたか?」
優しげな声に、今まで空虚な日々を過ごしていた香沙音は癒やされる。だからこそ、この気のいい老紳士が作ったという朝顔を粗末にしてきたことに後悔する。
「実は、あの…」
「―――どうやら無理を言ってしまったようですね」