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誰かのために… Ⅳ

 


 佳音が帰るためにコートを着始めると、古庄も上着を着て、佳音を送っていく準備をする。真琴も佳音を送るために、二人の後について玄関口に向かった。



「それじゃ、森園さん。また、遊びに来てね…って、週末じゃないと古庄先生はいないけど」


「…え?」



 真琴の不可解な言葉に、佳音が思わず首をかしげる。



「ここは真琴のアパートで、俺が暮らすのは週末だけなんだ。いつも一緒にいると、人目についてしまうからね」



 佳音の疑問に、古庄の方が答える。

 どうりで、二人で暮らすには手狭な感じがしたと、今更ながらに佳音は納得する。



「…学校では、私が妊娠してしまって結婚したことになってるだけで、相手が古庄先生だってことは、まだ内緒にしてるから…」


「だから、この秘密を知ってるのは、森園だけだ」


「私が休みに入る前に、先生や生徒達にもきちんと事実を告白するつもりだけど…、それまではこのことは誰にも言わないでおいてね」


「…信頼してるからな」



 佳音は、真琴と古庄から口々に事実を告げられて、最後には古庄から肩に手を置いて念を押された。



「……分りました」



 と、佳音は頷いたが、もう既にクラスのみんなの前で、この秘密どころかキスをしていたことまでも暴露してしまっているとは、とても言い出せなかった。


 それどころか、佳音はその神妙な表情の下で、思わず笑えてきてしまう。

 その〝秘密〟なるものが、バレていないと思っているのはこの二人だけで、少なくとも古庄のクラスの生徒達で知らない者はいないことに、二人は全く気づいていない。


 この二人から醸し出されるおっとりした雰囲気と、人を疑わない純粋さに、佳音は微笑ましささえ感じた。



「それじゃ、森園を送ってくるよ」



 古庄が真琴へ、そう言葉をかける。

 いつも、古庄が佳音に関わる時には、真琴は言いようのない不安な表情を見せていたが、今日は穏やかな表情で頷いた。


 こうやって佳音と話が出来たことで、真琴の中の彼女に対するわだかまりも消え去っていったみたいだ。


 そんな真琴に古庄がそっと近づき、耳打ちして何か話している。


 佳音の方も、古庄が真琴にそんな行動をとっても、もう心が乱れることはなかった。ただ…まだ洗い流せない古庄への想いに、ほんの少し胸が切なく痛むだけで…。



「……いいかい?」



 最後に古庄はそう言って、真琴の目を見て確認を取った。耳元で囁かれた古庄の言葉に、真琴は顔をほんのり赤らめて、微かにぎこちなく、もう一度頷いた。



「…行ってらっしゃい。気を付けて…」


「すぐに戻るよ」



 日常的な夫婦の会話を聞きながら、佳音もぺこりと頭を下げる。そんな佳音の両手を取って、真琴がギュッと握った。



「森園さん、大丈夫だからね。今日、一つ壁を乗り越えたから、これからは今よりも旨くいくようになるからね?」



 佳音は驚いたように、握られた両手に目を落とす。

 真琴の手は、古庄の手と同じくらい温かかった。目を上げると、優しく見つめてくれている真琴の瞳があった。



「それじゃ、森園。行こうか」



 古庄に声をかけられて、真琴のアパートを後にする。


 夜の空気はまだ身を切るように冷たかったが、佳音の手には真琴の手の温かさが残り、次第に全身に伝わってその芯まで染み透っていく。


 真琴のように優しい心で、誰かのために生きていければ、古庄が真琴を想うように、愛してくれる人が自分にも現れるだろうか…。


 漠然とした未来を思う時、いつも真っ暗なそこに不安を感じていた佳音だが、今は……柔らかく暖かな光に満ちているように感じられる。


 早くそこに足を踏み入れたくて……、明日が待ち遠しいと、佳音は生まれて初めて思えた。




 古庄と佳音を送り出した真琴は、部屋の中で一人になっても、もう寂しさと不安で泣くことはなかった。

 温かい幸せな空気に包み込まれているのは、真琴も同じだった。



『自分と関わる人間を幸せにしたいと思う心がなければ、自分だって幸せにはなれない』



 先ほど聞いた古庄の言葉が、まだ胸に響いている。


 佳音の苦しみから目を逸らして、他人事のように思っていたら、到底今のような安らぎは得られなかった。

 そして、生きていくことに対して、そんな言葉で表現できる古庄を、真琴は愛しいと思うだけではなく、心の底から尊敬した。



 ――…今夜も、君を抱きたい……。



 先ほど、古庄が耳元で囁いた言葉。


 古庄から愛されているという甘い感覚に、真琴は侵される。

 昨夜、想いを交わして、激しく求め合ったことを思い出して、真琴の心も体も疼き始める。今夜も、早く古庄に抱きしめられたくて、心が逸った。





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