誰かのために… Ⅲ
古庄は佳音から真琴へと視線を移して、その眼差しを優しく和ませた。
「その愛情だって、自分からそれを吐き出せない人間は、享けることだってできないよ。人間は一人じゃ生きていけないから、幸せも一人きりではなれない。自分と関わる人間を幸せにしたいと思う心がなければ、自分だって幸せにはなれない」
古庄の信念とも言える言葉に、真琴はもう何も言えなかった。
真琴自身も、本当にその通りだと思う。
古庄といて幸せに包まれる時、自分も同じものを古庄に返したいと思う…。古庄がこう言うのは、真琴と同じ感覚を共有してくれているからに他ならなかった。
「…っていう俺も、真琴に出逢うまではそんなことを思いもしなかった。でも、この人を心の底から愛して、この人からも外見だけじゃない俺の全てを愛してもらって……」
古庄は佳音に語りかけながら、真琴と穏やかな視線を交わす。
「この人と子どもを成して、この人とその子どもの幸せのために、取り巻く全てを良くしていきたいと思うようになったよ。上手く言えないけど、強くなるって…そんな風に生きていくことじゃないかな?」
古庄の誠意の込められた真心からの言葉が、胸に沁みわたって、佳音は頷くように目を閉じた。また一筋、佳音の頬を涙が伝う。
「森園さん、強くいようと思ってても、泣きたくなる時もあるし、弱さをさらけ出していい時だってあるのよ?そんな時にはいつでも助けになるし、受け止めてあげるから。…だけどやっぱり最後は、自分の力で笑顔になってね」
涙を拭いてくれながら、真琴がそう言って、佳音を励ます言葉をくれる。そんな間近にいる真琴を、佳音は初めて直視した。
恋してやまなかった古庄が妻にした人は、清らかな心が透けて見えるような、本当に綺麗な人だと思った。
「……賀川先生みたいな人が……、お母さんだったら良かったのに……。」
そう言ってくれた佳音に対して、真琴は戸惑ったような嬉しそうな笑顔を見せた。
「森園さんのお母さんは、こんなに心が真っ直ぐな娘を育てた人なんだから、きっと素敵な人なんだと思う。今は、古庄先生が言うように悲しみで心が曇ってるだけで…。一番近くにいる森園さんが、その曇りを拭ってあげなきゃね。押し付けないで、急がないで、優しく何度も何度も…ね」
佳音が古庄に恋焦がれて、その全てを自分のものにしたいと思っていたことは、この真琴ならば気付かなかったはずがない。
それなのに、こんな風に受け入れてくれて、優しい言葉をかけてくれる…。
「……どうして、こんな私に賀川先生は優しくしてくれるの?…古庄先生とのこと、知ってるでしょう…?」
そんな佳音の問いかけに、真琴は視線を佳音から外して、少し困惑しながら古庄と顔を見合わせた。
佳音の対する真琴の感情の全てが、決して慈愛に満ち溢れているだけではないことを、古庄は知っている…。
「…それは、お前が大切な生徒だからだ…。俺にとってだけじゃない、真琴にとっても大切な生徒なんだよ」
古庄がそう言って、真琴の思考を代弁する。
真琴はいつだって、どんなに辛く複雑な思いを抱えている時でも、佳音のもとに向かう古庄に『行かないで』とは言わなかった。それは、何よりも佳音のことを大切だと思っていたからに他ならない。
「…それに、森園さんこそ、私の想いを鍛えてくれて確かなものにしてくれた。そして、この人に大事なことを伝えられる勇気をくれた……。だから、感謝してるのよ?」
古庄と視線を交わした後、真琴は再び佳音へと穏やかで柔らかい眼差しを向ける。
そんな風に優しく見つめられて、佳音の目には今まで経験したことのない涙が溢れてくる。
求めるばかりで…望むものを与えてもらえない自分を憐れんで、哀しみに染まっていた佳音の涙。けれども今、佳音の頬を伝うのは、古庄と真琴の大きな愛情に包まれて心が安らぎ、苦しみから解き放たれた涙…。
その涙はとても心地が良く、いつまでも涙を流す佳音を、古庄と真琴はずっと見守り続けた。




