古庄家 Ⅲ
佳音が緊張して体を硬くしている間にも古庄の車は駐車場へと入っていき、促されるまま車を降ると、古庄の後についてアパートの階段を上がった。
古庄は自ら鍵を取り出してドアを開けることなく、インターホンを押す。すると、ものの数秒のうちに玄関のドアが開いた。
「おかえりなさい」
出てきたのは、満面の笑みの真琴――。
その瞬間、佳音は息を呑んで直立した。
真琴の方も、古庄の背後で固まる佳音に気が付いて、その笑みを消沈させた。あまりの思いがけなさに、真琴は目を見開いて黙ったまま、その目で古庄に確認する。
「ただいま。…今日は森園を連れて来たよ。一緒に飯でも食べようかと思って…」
古庄はそう説明しただけだったが、真琴はその一瞬で古庄の意図を汲み取った。
そして、古庄に向けるのとは趣きの違う優しい表情で、佳音に微笑みかける。
「森園さん、いらっしゃい。狭苦しいところだけど、どうぞ」
真琴が佳音に声をかけると、古庄も振り向いて、真琴と共に佳音を部屋の中へと迎え入れた。
「森園は、我が古庄家に来てくれた最初のお客さんだよ」
何気ないその言葉が甘く清らかな滴となって、渇いてささくれだっていた佳音の心に沁みて潤していく。
「……お邪魔します……」
佳音はそうつぶやくと、小さくお辞儀をして靴を脱いだ。
「今日は『赤魚の煮つけ』なんだけど、ちょうどよかった。和彦さん……古庄先生が、一切れじゃ足りないかなって思って、三切れ作ってたんです」
「おお!以心伝心かな?さすが俺の奥さんだ」
古庄が居間でスーツのジャケットを脱いで、それを自分でハンガーに掛けながら合いの手を打つ。
「…でも、今日は和食だから、高校生にはどうでしょう?前もって言ってくれてたら、もう少し森園さんのお口に合うものを作ったんだけど……」
「言っておこうと思ったんだけど、君はすぐに帰ってしまったし、連絡しようにも携帯電話は見当たらないし…」
「……携帯電話、そこのカーペットの上に転がってましたよ。…って、お客さんの前で着替えなんてしないでください!」
クローゼットから古庄の着替えを取り出して、それを渡しながら、真琴は古庄の背中を押して脱衣所の方へと連れて行く。
居間にあるソファに腰を下ろした佳音は、そんな様子の二人を黙って眺めた。そのあまりの自然さに、この二人は本当に夫婦なんだと、今更ながらに実感する。
「そうだ、森園。お母さんに一応連絡しておけ、今日は飯を食べて帰るって…」
真琴に押されながら振り返り、古庄が佳音に声をかける。
そして脱衣所に入り、佳音の目が届かなくなった所で、古庄はいきなり真琴を抱き寄せ、その唇に口づけた。
佳音の電話する声を部屋の向こうに聞きながら、真琴は古庄の胸に手を置いて、古庄の行為に素直に応じた。
短いけれど、想いのこもったキスの後、古庄が真琴の頬を撫でながら囁く。
「……森園のこと。何も言わず受け入れてくれて、……ありがとう」
真琴は古庄の目を見つめて、ニッコリと笑いかけただけで、何も答えなかった。
頬にある古庄の手を優しく外すと、台所へと向かい、再び夕食の準備に取り掛かった。
「森園さん、来たばかりで申し訳ないんだけど、手伝ってくれる?」
真琴が居間の方へと声をかけると、コートを脱いだ佳音が、制服を腕まくりしながらやってきた。
それから女子二人は並んで台所に立ち、ほどなくして今晩の献立がテーブルに並んだ。
赤魚の煮つけに野菜の天ぷら、酢の物にお味噌汁…。
佳音にとっては久しぶりに見る、本当に食事らしい食事だった。手作りでなければ味わえない優しい味覚に、佳音の心がホッとほどけていく。
「この天ぷらは、森園さんが揚げてくれました。食べてみてください」
「うん、さっき食べた。上手に美味しくできてたよ」
そう言って笑いかけてくれる、古庄の笑顔。
端正で完璧な相貌に加え、幸せで満たされた古庄の笑顔に、佳音は言葉もなく見入ってしまう。
本当にこの上ないこの笑顔は、古庄が教師の顔になる学校では見ることのできないものだった。
古庄をこんな笑顔にさせる力のあるのは、真琴だけだ。
古庄に言い寄る女子生徒をはじめ、他の女性たちとは違う次元で古庄を愛しているからこそ、真琴には古庄をこんな風に幸せで包み込める力がある。
そして、そんな真琴が古庄のために心を込めて作ったこの食事は、古庄だけでなく、佳音のお腹も心も満たしてくれた。




