古庄家 Ⅱ
「森園…。石井先生との勉強が終わったら、来なさい。今日は送って行くから」
古庄が佳音に耳打ちする。佳音は少し気色ばんだだけだったが、古庄はほのかに微笑んで、それを同意の意味に受け取った。
石井と連れ立って職員室を出て行く佳音に、終礼から戻ってきた真琴がすれ違って、気に留める。真琴の視線が、ずっと佳音をたどるのに気が付いて、古庄が声をかけた。
「今日は…、石井さんに個別指導を頼んだんだよ」
真琴は古庄と目を合わせて、少しホッとしたような表情を見せる。佳音のことは気がかりだが、古庄が彼女と二人きりになるのは、もっと気がかりらしい。
「これからは石井さんだけじゃなく、数学や国語の先生にも指導してもらうよ。昨日あんなことがあったけど、『絶対に見放さない』ってことだけは、森園に示しておきたいんだ」
「……そうですね」
真琴は古庄の言葉を聞いて、昨日の出来事と佳音の心情を推し量りながら、古庄の考えを肯定するように口角を上げた。
教師という仕事をしていると、時には生徒と摩擦が起きることもある。けれども、絶対に生徒を見放したりはできない。たとえどんなことがあったとしても、それをしてしまったら、教師失格だ。
個人的なマイナスの感情は胸の内で上手く散らして、それを乗り越えて、どの生徒も同じようにその成長を期して指導を続けなければならない。それは、学力だけではなく、心も成長できるように…。
真琴がそんなことを考えながら、机上のものを整理し、帰り支度を始めると、
「…もう、帰るのかい?」
と、古庄が読み始めた新聞から目を上げて、真琴に確認した。
まだ、勤務時間は終わっていない。古庄の疑問は当然だった。
「今日はこれから産科の病院へ、検診に行って、そのまま帰ります」
「そっか…。赤ちゃん、順調だといいな」
古庄がそう言って幸せそうに微笑むと、真琴はその笑顔の絶妙さに思わず見とれ、顔を赤くし、ほのかに頷いた。
そんなやり取りに、向かいに座る戸部がずっと耳を澄ましていたが、堪えきれずに視線を二人へと向けた。
「……?」
「…どうしました?戸部先生?」
と、戸部は二人から同時に見つめ返されて、逆にうろたえてしまう。
職場の同僚として、普通の会話をしているつもりなのだろうが、仲睦まじい二人に当てられて、戸部は顔を赤らめる。
この二人の秘密を知っていながら、知らないふりをするのはとても難しかった。
戸部が気の利いた言葉さえ出せず、首を横に振ると、真琴はそんな戸部にも挨拶代わりに微笑みかけて、職員室を後にした。
佳音が個別指導を終えて、職員室の古庄のもとへと再び姿を見せたのは、2時間近く経ち、日もとっぷりと暮れた頃だった。
「石井先生から、ずいぶん念入りに指導してもらったね」
傍らにたたずむ佳音に、古庄がそう声をかけると、佳音は少し目線を泳がせてそれに反応する。
「…でも、念を入れすぎると続かないから、少しずつでいいんだぞ」
そんな風に優しい言葉をかけられると、佳音は鼻の奥がツンとして、ここが職員室なのにかかわらず泣き出してしまいそうだった。
憎しみのような感情よりも、やはりまだ消し去れない古庄への慕情が切なすぎて…。
「それじゃ、帰ろうか。校門のところに車を回すから、そこで待ってなさい」
古庄は、そう佳音に伝えると、職員室の席を立った。
佳音を送って行くと言っても…、さすがに自転車に二人乗りするわけにはいかず、古庄は佳音を待つ間、一旦自分のアパートに帰り自転車から自動車に乗り換えて、再び職員室へと戻って来ていた。
佳音の心の中では様々な感情が暴れまわっていたが、それを必死に押し止めながら、古庄に言われるがまま車に乗り込む。
昨日は、あんなに言葉と行動で自分を突き放しておきながら、こんな風に送ってくれる古庄の真意が分からない…。
そんな佳音の戸惑いはよそに、古庄は余計な話もせず、ただ車を運転している。
あまりの気まずさに佳音が窓の外へと目をやると…、そこには見慣れない街並みがあった。
「……どこに、行ってるの……?」
思いがけないことに触発されて、佳音は無意識のうちに、その日初めて古庄に口を利いた。
「俺の家だ。…前に来たいって言ってただろう?今日は一緒に夕飯でも食べよう」
「………!?」
佳音は目を剥いて固まった。
確かに、クリスマスイブの日、佳音は古庄の家に行きたいと言った。でもそれは、生徒と教師の関係以上になりたかったからに他ならない。
佳音は何度も古庄から拒絶され、古庄が真琴を愛していることも知っている…。
それなのに、どうして今になって、古庄はそんなことを言い出すだろう…?
本当に古庄の真意がますます分からず、佳音は困惑して言葉も出なかった。
先が見通せない不安と、真っ黒に塗りつぶそうとしていた古庄への想いが、佳音の胸に交錯する。




