古庄家 Ⅰ
古庄が1時間目の授業に赴いた時、佳音は自分の席に静かに座っていた。古庄の方へ顔も向けてくれないので、その表情さえ読み取れず、古庄は佳音の気持ちを察することはできなかったが、淡々と何事もなく授業は終わった。
何か騒ぎが起きるんじゃないかと、爆弾を抱えたように、古庄のヒヤヒヤは一日中絶えることはなかった。
しかし、佳音は職員室に顔を見せることもなく、その日一日が平穏のままに過ぎて行こうとしていた。
終礼の時、昨日までしていた個別指導のことが気にかかる。
昨日までと同じように、今日も指導ができるだろうか…?
すると、そんな古庄の心配をよそに、佳音は荷物を抱え教室を出て行ってしまった。
「…おいっ!森園!!」
思わず古庄は、佳音を追いかけて廊下で声をかけた。
せっかく軌道に乗り始めた個別指導を、このままなおざりにしてしまってはいけない。そう思った。
「帰るのか?個別指導はどうするんだ?」
佳音は立ち止まったが、そのまま振り向きもせず立ち去ろうとする。
「たった何日かで終わりか?……俺とじゃなくても、他の先生に頼んでやるから、少し勉強を見てもらえ」
そう言って説得を図ったが、それでも佳音は背を向けて歩き始めた。その態度に、古庄は眉根を寄せて意を決すると、佳音に走り寄りその手を取った。
突然、手を握られて、佳音の心臓が止まる。
何も言葉を返せず、古庄を見上げたが、古庄は佳音を見つめ返すことはなく、ただ手を握ったまま前を向いて歩き始めた。
自分の手を包んでくれている古庄の手のひらの温かさに、佳音は心が震えた。その震えは次第に全身を包み込んで、朝の非常階段で、必死で押し込めた色んな思いが、今にも弾け出してきそうだった。
放課直後の校舎の中、まだ大勢いる生徒たちの中を縫って、古庄は佳音の手を引いて歩く。その光景は、否が応でも皆の目に留まった。
佳音の胸はドキドキと大きく鼓動を打ち始めたが、切ないときめきとは裏腹に、古庄の目的は人目のないところで話をするのではなかった。
生徒たちが大勢つめかける職員室に入ると手を離し、佳音の背中を押して、自分の席ではないところに連れて行った。
「石井先生。ちょっと頼みたいことが…」
今終礼から戻ってきたばかりの石井は、背中に声をかけられて反射的に振り向く。
そこにいる古庄と佳音を見て〝何か〟を気取ったが、それは口には出さなかった。
「忙しいところを申し訳ないんだけど、1時間…30分でいいから森園の勉強を見てやってくれないかな…?」
そう依頼されて、石井はもう一度佳音の表情を確かめる。佳音自身、石井に個別指導を受けることは想定外だったらしく、戸惑ったような顔で立ち尽くしている。
「うん、分かった…。森園さんのこと、私も気になってたのよ。少しだけお勉強して帰りましょ。…ちょっと待っててね」
とりあえず石井はそう答えたが、突然のことだったので当然何も準備はしていない。教科書や問題集を取り出して、準備を始める。
「それじゃ、森園…。しっかり勉強して、早く休んだ分を取り戻すんだぞ」
古庄が佳音の背中をたたいてそう言うと、佳音はとっさに古庄を見上げたが、すぐに視線を逸らして足元を見つめた。
その一瞬の佳音の目を見て、古庄は彼女の中にある悲しみを気取ってしまう。
佳音はお荷物になった自分を、石井に押し付けられたと思っている…。自分は見捨てられたと思っている…。
彼女のガラス細工のような心を、どう扱っていいか古庄自身も分からなかったが、やはりこのままにはしておけない…。昨日こそ、あんな風に佳音を傷つけておいて、その上また突き放すようなことはしたくない。




