秘密 Ⅵ
そして、もう一つ。あの瞬間に、キスをやめなかった理由がある……。
佳音があの場にいたことを知ったならば、キスをやめても真琴は不服に思わなかっただろう。逆に、やめようとしたはずだ。
しかし、佳音に見られていても「構わない」と思ったのは、佳音に真琴の存在を知らしめるためだった。
そして…、佳音に自分への想いを断ち切らせるため。ああでもしないと、佳音自身がはまっている苦しい輪廻から抜け出せないと思ったからだ。
昨日の出来事は、間違いなく佳音を深く傷つけただろう。高校生の未熟な心には、その衝撃は強すぎたかもしれない。
それこそ、不安と寂しさで病み、腫れ上がっている佳音の心は、本当に壊れてしまうかもしれない…。
古庄が真琴の想いで満たされて、愛を重ねていた夜の間…、佳音は何を思って過ごしていたのだろう…。
もしかして、再び不登校に…ではなく、もう二度と、学校へは来なくなってしまう恐れもある…。
古庄は自転車を走らせながら、早春の朝の冷たい空気さえも感じないほど、深い思考を巡らせた。
けれども、いくら考えても明確な正解が出てくるものではない。
いずれにせよ、今どれだけ悶々と思い悩んでも、佳音の出方次第でその対応は変わってくる。
――とにかく今日、森園の顔を見て…それからだ…!
大事なのは、佳音のことを一人の女性として愛せなくても、一人の人間として大切に思い、佳音が生きていくための手助けは惜しまないということを、佳音に解ってもらうことだ。
そう考えながら、古庄は校門に入り、まだ冬枯れのしだれ桜の下を滑るように走り抜けた。
教室に置いたままだった自分の荷物を取りに戻って…、そこで佳音が見てしまったもの…。
恋い慕っている古庄が、真琴を抱きしめ、キスをする光景を目の当たりにした佳音の衝撃は、計り知れないものだった。
自分の中の全ての感覚がなくなり、目の前で起こっていることが現実のものだと、佳音はすぐに理解が出来なかった。
あれは、紛れもなく愛し合っている者同士が交わす、真剣で激しく深い想いが込められているキス――。
古庄とは確かに目が合ったのに、まるで自分の存在など初めからなかったかのように、古庄は真琴を抱擁し、求め合うようなキスは続けられた。
佳音はもう、そこにはいられなくなり、自分の荷物もそのままにそっと教室から立ち去った。
「抱いてほしい」「キスしてほしい」と懇願する佳音に、古庄は、心の底から愛しいと思える人でないとそれはできないと言った。
自分を含めて誰もが憧れる古庄…。
その古庄が、心から愛する人――。
それは、取り立てて美人でもなく極めて平凡な、隣のクラスの担任の真琴だった。
その不可解さは、真琴への嫉妬と相まって、佳音の心をむしばんだ。
自分がこんなに望んでも得られない古庄の想いの全てを、古庄からの抱擁やキス…自分が望んでやまなかった行為の全てを、真琴が独り占めしていることが憎らしかった。
…だけど、真琴は結婚していて、そのお腹には新しい命も宿している…。その事実は、いくら学校を休みがちな佳音でも、知っていることだった。
佳音は弾かれたように、家に帰る住宅街の夜道で立ち止まった。その気づいてしまった真実であろうことに、愕然として宙を見つめる。
――…賀川先生の結婚相手…、お腹の赤ちゃんの父親は…、古庄先生だ……。
佳音の頬に、誰に見せるためでもない、悲しみと諦めの涙が零れ落ちる。
どんなに恋焦がれて、どんなに追い求めても、初めから古庄は絶対に手が届く相手ではなかったのだと、ようやく佳音は悟った。
だからと言って、素直に古庄と真琴を祝福する気持ちにはなれない。
結婚している事実を隠し、普通の同僚を装って、学校のみんなを騙している二人が許せなかった。
自分はこんなに寂しくて辛くて、不幸でいるのに、二人だけで幸せになろうとしている気がして、めちゃくちゃにしてやりたくなった。
佳音の古庄への激しい恋心は、そのまま古庄と真琴へ向く憎しみとなった。
そうでも思っていなければ、佳音の悲しみと絶望は大きすぎて…、今にも自分を傷つけて、この世から消し去ってしまいそうだった。




