命よりも大切な人
古庄が出かけて、真琴は一人きりになった居間まで戻り、その真ん中に座り込んだ。
古庄には、先に寝ているように言われたけれど、こんな気分でベッドに入っても、どうせ寝付くことはできない。
脱ぎ捨てられていた古庄のパジャマを手に取り、丁寧にたたむ。
古庄には見せまいと我慢していた不安と涙が込み上げてきて、真琴は手にある古庄のパジャマに顔を埋めた。
「…和彦さん…!」
名前を呼ぶと、涙がもっと溢れてくる。
平日の夜は、古庄のことが恋しくて切なくて、一人で眠るのは寂しいけれども、こんな風に泣いてしまうことなんてない。
古庄が側にいないだけでこんなに不安になるなんて、どうかしている。自分はちゃんと自立した、もっと強い人間だったはずだ。
でも、あの修学旅行の雪の日に古庄が戻って来れなくなったのも、佳音が原因だった――。
真琴の中に、あの日、『古庄を失うかもしれない――』と思った恐怖が蘇ってくる。
今日は雪も降っていないし、古庄は雪山に出かけたわけでもない。必ずここに帰ってくる。
それは分かっていることなのに、一人でいることが、こんなに不安で怖くてたまらない。
きっとこの不安の根底には、佳音が古庄を恋い慕っている事実も影響している。相手が他の普通の生徒だったならば、こんな風に不安に思ったりしない。
夜に閉ざされ、二人きりの佳音の家で……。
きっと佳音は、その心の内の寂しさを吐露して、古庄に抱きしめてもらいたいと思っているだろう。
あの可憐で危うい美しさに訴えて、「死んでしまいたい」と自分の命さえも武器にして、古庄の心を自分のものにしたいと思っているだろう。
そして、古庄はそんな佳音の心の叫びに応えてしまうかもしれない。彼女を救いたいと思うあまり、抱きしめてしまうかもしれない――。
もちろん、古庄のことは信じている。
たとえ佳音を抱きしめたとしても、それは彼女を愛しているからではない。
――でも…!私の命よりも大切な人を、もうこれ以上振り回さないで……!!
佳音を憎らしく思ったり、恨みに思う気持ちはない。
けれども、これ以上、愛しい古庄が佳音に煩わされるのを見ているのは、とても辛すぎて…もう耐えられそうになかった。
そんなことを考えていると、真琴の目にはいっそう涙が溢れ出てくる。
もう真琴自身も自分を制御できず、どうすればこの涙が止まってくれるのか分からなかった。
「……和彦さん……。早く帰ってきて……」
そうつぶやきながら、真琴は止まることのない涙を拭った。
この涙を止められるのは、古庄だけだった。ただ、古庄が傍にいてくれさえすれば、真琴は他に何もいらなかった。
その時、玄関のドアを解錠する音が響き……、ドアを開けて古庄が入ってきた。
思いがけないことに、真琴は涙を拭うことも忘れて、居間の方へやって来た古庄を見上げた。
「…森園さんは、どうしたんですか?」
佳音の家まで行って戻って来るには、時間が短すぎる。
「…森園の家には、やっぱり行かなかった。石井さんに連絡を取って、代わりに行ってもらったから………」
説明しながら、古庄は真琴の顔を確かめて言葉を潰えさせ、更にじっと見つめ直した。
「……真琴……。泣いてたのか……?」
指摘されて、真琴の涙は止まるどころか、もっと一気に流れ落ちてくる。古庄の顔を見て、安心しているはずなのに、体が震えて、嗚咽が込み上げてくる。
「…あなたが、森園さんを探しに行って、戻って来れなくなった時のことを思い出して……」
しゃくり上げながら、真琴がそう言葉を絞り出すと、真琴を見つめる古庄の目も切なくなった。
あの時のことを思い出すと、古庄の胸も痛くなってくる。
ただ待つことしかできなかったあの時と同じ思いを抱えて、今も真琴は泣いていたのだ。
「ああ、真琴…」
古庄は真琴の腕を引いて、大切な宝物を護るように、自分の腕の中へと包み込んだ。
「俺はここにいる。君の傍にいるから…」
古庄が懐にいる真琴に優しく語りかけると、真琴は古庄の胸に顔を押し付けて、嗚咽を押し殺した。
「森園が何かしでかさないように見張るのは、俺じゃなくてもできる。だけど、君の伴侶は俺だけだから。俺は君の側にいるべきだと思って、引き返してきたんだ…」
こんな風に一人で泣いていた真琴を見て、古庄は自分の選択は正しかったと確信した。
真琴の胸に、そんな古庄の言葉が沁みわたって、不安で凍り付いていた心を少しずつ癒していく。
古庄は真琴を抱きしめながら、その背中を穏やかに撫でさすった。すると、真琴も、発作のような嗚咽は落ち着き、古庄の胸に頬を付けて息を抜く。
「君は、誰よりも…俺の命よりも大切な人だから…。寝ても覚めても、四六時中一緒にいたいって、ずっと言ってるのは俺の方だ。絶対に君の傍を離れたりしないよ…!」
古庄は真琴の頬を両手ですくって上を向かせ、自分の笑顔を降り注いだ。
「たとえ君が俺をうっとうしがっても、ずっと傍にいる。お互い年を取って、どっちかが死んでしまうまで、ず―――っと、だ!」
そんな古庄の物言いに、真琴は目に涙を溜めたまま、クスッと笑った。
「泣いてる君もすごく可愛いけど、やっぱり笑ってるときが一番可愛いよ」
古庄は本心を言ったつもりだが、真琴は薄く浮かべた笑みを仏頂面に変えた。
「…からかうのはやめてください」
「からかってないよ。ホントのことだ」
「…もう…!」
少しふくれたように、それでいて恥ずかしそうに、真琴は古庄の腕からすり抜けていく。
いつもの調子の真琴に戻ったことに、古庄は安心して息を吐いた。古庄にとって一番大事なことは、愛しい真琴が安らかでいてくれることだ。
しかし、今日のこの選択は佳音の心には大きな影を落とし、信頼関係にも亀裂を生じさせただろう。
今後、佳音がどんな行動に出てくるのか、古庄には計り知れなかったが、佳音のためにできる限りのことをしようと思った。
佳音の問題が解決できれば、真琴の心を煩わせることも少なくなる――。
真琴自身も、佳音の心が健全に成長していくことを、誰よりも望んでいるに違いなかった。




