帰ってきて…! Ⅵ
そんな様子の佳音を見守って、真琴は彼女の心が手に取るようだった。
自分を必要としてくれる人を佳音は心から欲している…。
たとえ見せかけの優しさでも、それを示してくれる人ならば誰でもいいと思えるほど、佳音は寂しかったのだ。
でも、本当に心の底から欲しているのは古庄で、彼に自分の存在を確かめさせるために、少し姿を消して困らせようとしたのだろう…。
どうにもならない寂しさと古庄への想い。その両方に佳音は苦しんでいる。
佳音の心の様子を推し量ると同時に、真琴は佳音という生徒を抱える古庄の苦悩にも気が付いた。
優しくして近づきすぎると、誤解する…。かと言って、何もしないとこうやって問題を起こして困らせられる…。
佳音も古庄も、どちらも助けてあげたいと思うけれども、真琴にはどうしてあげたらいいのか分からなかった。
「…古庄先生が、このことを知ったらどう思うかな…?前にも知らない男の人の車に乗ろうとして、すごく叱られたこと、思い出して…」
それまでずっと黙っていた真琴が、ようやく口を開いた。
佳音が同じことを繰り返していると知って、古庄はどんなに自分を責めて心を痛めるだろうか。その気持ちを推し量ると、真琴はとても悲しくなった。
そして、真琴のこの言葉は、先ほど平沢から大声で怒鳴られたことよりも、佳音に効いた。大きな目からポロポロと涙を流して、泣きはじめる。
この涙は、それだけ真剣に古庄のことを想っている証拠だった。
しばらくそんな佳音を見守った後で、不意に平沢が心配事を見つける。
「古庄先生といえば…。先ほど、古庄先生は戻って来てました?」
石井と真琴は顔を見合わせて、石井の方が平沢に答える。
「古庄先生は、まだ戻って来てない……。森園さんを探しに行ったまま、この雪で立ち往生してるんだと思う」
佳音はその事実を聞いて、泣き顔をいっそう強張らせた。自分のしてしまったことのあまりの深刻さに、後悔して涙をあふれさせる。
真琴も、再び流れ出しそうになる涙を必死で抑え込んだ。今はただ、戻ってこない古庄のことが心配で心配で…、何も言葉を発することもできなかった。
冬枯れの木々の間を渡る風の音を聞き、雪が舞い落ちる暗がりを見つめながら、古庄はただじっと時が過ぎゆくのを待っていた。
辛すぎる現実を少しでも意識しないため、古庄の思考は真琴との幸せな思い出を反芻する。
放課後の教室で初めて想いを告げ、キスをした日のこと。
暗い職員室で抱きしめ合い、想いが通じ合った日のこと。
婚姻届を書いてもらい、役所に出しに行った日のこと。
しだれ桜のモザイク画の前で、きちんとプロポーズした日のこと。
…そして、初めて真琴と結ばれた日のこと…。
それら一つ一つを思い出す度、気持ちはまるでその時に戻ってしまったかのように、切なく疼いたり、甘く痺れたりする。
けれども、それら思い出の一つ一つは古庄を苦しめるものではなく、暖かい布団のように幸せで古庄を包み込んでくれる。
思えば、あの麗らかな春の日、しだれ桜の下にたたずむ真琴と出逢った瞬間から、いつも古庄の心のまん中には真琴がいて、その人生も変わり始めた。
そして、これからも――。
真琴の中に息づく、小さな命の存在を知らされた日のことを思い出す。
とてつもない喜びを感じると同時に感じた、大きな〝責任〟。だからこそ、自分は何としても、真琴とお腹の子どものもとへ帰らなければならなかった。
真琴の中から産まれ出てくる赤ん坊は、どんなにか可愛いだろう。
女の子だったら、真琴のように可憐な少女に成長してほしいし、男の子でも……やはり真琴のように思慮深く賢い子になってほしい。
そして、真琴の要素で埋め尽くされた中に、自分の片鱗が見えさえすれば、その命は紛れもなく自分たちが愛し合い、二人の命が溶け合ったものだと確かめられる。
我が子をこの腕に抱いた時の大きな喜びを想像して、しばし古庄は幸せな空想の中を漂う。
そのまま暖かい幸せの中に溶け込むように、意識が遠のいていこうとした時……、
――…和彦さん!!
真琴が呼んでいる声が聞こえた気がして、古庄はパッと目を見開いて覚醒した。
こんなことは今まで経験がないのでよく判らないが、このまま気を失ってしまっては、そのまま本当に死んでしまうのだろうと古庄は思った。
我が子に会わずして死んでしまうなんて絶対に嫌だし、身重の真琴を独り残して逝くわけにもいかない。
古庄は痛みを感じるほど唇を噛んで、自分を奮い立たせた。
「……真琴……」
噛みしめた口元が緩むと、衝いて出てくるのはやはり真琴の名前だった。
「真琴…、真琴…。君に会いたいよ……」
もう、古庄は佳音のことはおろか、産まれてくる我が子のことも考えられなくなった。
ただ、意識の中にあるのは真琴の存在だけで、古庄は何度も何度も真琴の名を、暗闇に向かってつぶやいた。




