修学旅行 Ⅰ
生徒たちにとっては待ちに待った、そして古庄にとっては心配の種の修学旅行の当日を、とうとう迎えてしまった。
この日の古庄は、タクシーで佳音の家まで迎えに行き、彼女を連れて集合場所である駅へと向かった。
こうでもしないと、佳音が本当に姿を現すのかと、ヤキモキして待っていなければならないと考えたからだ。
タクシーの後部座席で隣に座る佳音が、いつの間にかぴったりとくっつき、古庄のスーツの袖をそっと握った。
それに気づいた古庄はピクリと体を硬くしたが、佳音の手を振り払うことなどせず、タクシーの窓の外から視線を移さなかった。
あれから古庄は、佳音を説得するために何度か佳音の家に赴き、やっとのことで佳音と会う機会を持てた。
「先生と、二人っきりで話がしたい…」
この親子の様子を一目見て、信頼関係は既に崩壊していると古庄は思った。
佳音のそんな要求もあって、佳音の母親は厄介事から逃れられるとばかりに姿を消し、洋服や書類で散らかったリビングのソファで二人は対面した。
あの出来事からひと月近く経とうかというのに、佳音の表情は憔悴しきっていた。
学校にも来なかった佳音は、ずっと家の中にいて、誰とも会うこともなかったのだろう。本来の美少女の面影を探しても見つけられないほど、すさんだ心を映して身なりも荒れていた。
こんな佳音を見て、古庄も心が痛む。佳音にとって自分は、彼女の心を守る最後の砦だったのだろうと想像する。
もちろんこれからだって、教師としてずっと、古庄は彼女を守ってあげるつもりなのだが…。
けれども佳音は、そこに〝恋愛〟という厄介なものを持ち込んでしまった。
本来ならば、もっと足繁く家庭訪問をして、もっと早くにこうして佳音と話をしなければならなかったと思うが、佳音が抱く〝恋愛感情〟が古庄の足を鈍らせていた。
一度でも恋愛対象として意識をして、その存在を欲すると、相手が自分の想いに応えてくれない限り、恋する心は満たされない。
それでなくとも、両親からの愛情にも飢えていた佳音は、古庄から〝たった一人〟として愛されることを渇望した。
今の佳音を、この奈落の底から救い出せるのは、古庄の存在以外には不可能だった。
「……私、あの時、先生からああ言われたけど、先生のことあきらめられない…。あきらめようと思えば思うほど、私の中の先生の存在が大きくなって……」
佳音は小さくなってソファに座り、か細い声で言葉を絞り出す。
「……やっぱり先生が好きなの……」
そう言う佳音を見て、古庄は可哀想だと思うと同時に、頭を抱えていた。
何と言って答えるべきか……。
もともと佳音は普通の感覚の女子ではなく、一人で物思いに耽るような奥深さや繊細さを持ち合わせている。佳音の想いは、他の女子生徒が古庄に抱くものよりも、はるかに複雑で強いもののようだ。
やはり告白されたあの時に情けなどかけず、真琴の名前は出さないとしても、愛する女性がいることを、はっきりと佳音に告げるべきだったのかもしれない。
でも、今のような状態の佳音がその事実を知ってしまうと、不登校どころか突発的に自殺さえしかねないと、古庄は危惧した。
そして、このまま放っておけば、修学旅行はおろか進級さえも危うくなり、その挙句、学校を中退してしまう恐れもある。
今は早急に、どうにかして佳音を、この暗く狭い穴の中から救い出してあげなければならなかった。
古庄は心の中の苦悩は押し隠して、薄く笑みを浮かべた。
「…森園が俺のことをどう思おうが、それは森園の自由だ。好きでいたいんなら、好きでいてもいい…」
佳音の想いに応えたわけではなかったが、こんなことを言えば、佳音に期待を持たせることになると分かっている。
却って、佳音を生殺しにするような残酷な言葉だったかもしれない…。
これが正しいやり方なのかどうか、古庄には判断できなかったが、佳音に生きる意欲を持たせ、人間らしい生活をさせるためには、何かしらの希望が必要だった。
真琴との結婚を公表する三月の終わりまでには、佳音の精神状態も落ち着いて、きっとその事実を受け入れられるようになっている…と、事態が好転することを信じて楽観視した。
佳音は暗闇の中で一筋の光を見つけたように、ホッとした表情で顔を上げる。
涙が残る佳音の眼差しには、自分を恋い慕うものが漂っていたけれども、古庄はそこから目を逸らさなかった。
「俺は…、お前と一緒に修学旅行に行きたいと思っている。お前にとって一生に一回しかない経験だから…。一緒に楽しい思い出を作ろう」
もちろん、古庄は担任としての誠意からそう言ったのだが、佳音の恋する心は違う意味でその言葉を受け止め、そこに希望を見出し始める。
「……うん。先生と一緒なら、修学旅行に行きたい……」
佳音がそう言って頷いてくれると、古庄も肩の荷が下り、ホッとして息を抜いた。
それから考査を挟み、修学旅行までは、佳音は何とか順調に登校してきた。相変わらずクラスには馴染めなかったが、それは佳音の気にするところではなかった。
佳音には、以前以上に、もう古庄しか見えていなかった。




