夫婦げんか Ⅲ
真琴はようやく気持ちを落ち着けると、涙を拭い顔を上げた。
「……古庄先生が言っていることは、もっともだと思います。でも、私は私のクラスの生徒達と修学旅行に行きたいんです。春に担任になった時から、私にはクラスの生徒達に対して責任があります。妊娠したからって、その責任を投げ出して、他の人に任せることなんてできません…。皆さんのご迷惑になってしまいますが、私を修学旅行に同行させて下さい……」
真琴のこの心からの懇願に、妊娠させてしまった張本人である古庄は、もう何も言えなくなった。
真琴をいじめて、泣かしてしまうことは本意ではない。
そして、考え込んでいた学年主任が提案する。
「担任以外で同行する教員を一人、誰か女性に変更したらいいんじゃないか?」
すると、他の教員達からもそれに賛同する意見が相次ぐ。
「…そうですね。そうするのが一番いいと思います。賀川先生の負担も減るし」
「そうだよ。どうして初めからそうしてなかったんだ?」
そんな風に言われて、案を作った戸部は肩をすくめて小さくなった。
しかし、小さい子を抱える母親や高齢な教員を除外していくと、同行できそうな女性の教員は、平沢くらいしかいない。
平沢は依然として、古庄から適当にあしらわれているにもかかわらず、その魅力を最大限に駆使し、手を替え品を替え猛然と古庄にアタックし続けていた。
古庄と一緒に修学旅行に行けることになって、小躍りして喜ぶ平沢が目に見えるようだ。
真琴は複雑な心境になるのは否めなかったが、自分を助けてくれるために平沢は同行するのだから、いたしかたなかった。
平沢が同行する案に、古庄はもう何も口を出さず、しぶしぶ了承したようだったが、真琴のことに関しては腹の中に一物が残り釈然としなかった。
古庄にとっては、生徒が真琴を必要としていることや、それを受けて真琴が感じている責任などよりも、真琴が安静にして無理をしないでいてくれることの方が大事なことだった。
一方の真琴の方も、とりあえず修学旅行には同行できることになり、ホッと胸をなで下ろしたけれども、古庄に対してモヤモヤとした説明のつかない感情を抱いてしまっていた。
旅行の打ち合わせに起因した〝夫婦げんか〟は後を引き、二人の間にいつまでも言いようのない気まずさを漂わせた。
こんな時は、隣同士の席が裏目に出て、息の詰まりそうな時間が恐ろしくゆっくりと過ぎていく。
真琴は仕事に没頭するふりをして、古庄と口をきくことはおろか、目さえ合わせようとはしなかった。
古庄もそんな真琴の機嫌を察知し、新聞を読んでいるふりをして、敢えて声をかけたりはしなかった。
真琴が帰り支度を始めるころ、古庄がおもむろに席を立ち、学年主任の席の隣にある電話へと向かう。
メモも見ずに番号をダイヤルし、待っている古庄の様子を、真琴は視線を向けないままで窺った。
「……あ、森園さんのお宅でしょうか?桜野丘高校の古庄です」
「森園」という名前を聞いただけで、真琴の全神経は古庄の会話に集中してしまう。
そんなさもしい自分の心を嫌だと感じてしまうけれども、真琴は聞かずにはいられなかった。
「修学旅行のことなんですが、…ええ。そうなんです。申し込みの期限はとっくに過ぎてまして…」
その話しぶりから、話しをしている相手は、佳音ではなく母親のようだ。
「佳音さんにもいろいろ事情があると思いますが、今はとりあえず申し込みだけはしておいてくれませんか?…旅行までに、佳音さんの気持ちが旅行へ前向きになるように、必ず説得しますから」
要するに、佳音は修学旅行に行くことを渋っているらしい。それを、古庄は何としても佳音を旅行に連れて行こうとしている…。
「…それじゃ、これからお伺いしてもよろしいですか?参加届けの用紙をお持ちしますから、それに書いてもらって…。はい、よろしくお願いします」
古庄は受話器を置くとすぐに、自分の机に取って返して帰り支度を始める。何も書き込まれていない修学旅行の参加届けをクリアファイルに挟み、それを手に席を立った。
古庄が名残を惜しむように、視線を向けてくれたことに気が付いていたけれども、真琴は顔を背けとうとう視線を合わせることはなかった。
他にも修学旅行に参加しない生徒はいるのに、どうしてそこまで古庄が佳音の参加にこだわるのか、真琴には理解できなかった。
佳音と「一緒に旅行に行きたい理由」が何かあるのかもしれないが、古庄はそれを真琴に話してくれる気配さえない。
それに引き替え自分に対しては、「旅行に行かない方がいい」と古庄は発言した。
そのことが真琴の心に引っかかって、怒りにも似た感情が真琴の中に立ち込めてくる。




