夫婦げんか Ⅱ
「いえ、大丈夫です。大した仕事じゃないので、減らさなくても出来ると思います」
焦った真琴は即座に、自分についての話題をすぐに終わらせようとした。
しかし、古庄の心配事はそのくらいで解消されるようなものではない。
「いや、大丈夫じゃないだろう?1時間以上も立ちっぱなしで入浴の監督を毎日するなんて。妊娠してるんだったら、大事にしとかなきゃ」
「大丈夫です。妊娠は病気じゃないんですから、ご心配には及びません」
「病気じゃないって言っても、実際、しんどそうにしてるじゃないか」
古庄が目の前で見たつわりに苦しむ真琴は、普通の風邪などを患うよりももっと辛そうだった。
しかし、学校では努めて体が辛いことは見せまいと頑張っていた真琴にとって、心配のあまりに飛び出してきた古庄のこの一言は、カチンと癪に障ってしまう。
「…もう、つわりも落ち着いてきたので、今はそんなにしんどくありません。それに、もう安定期に入ってますから、普通の生活に支障はないとお医者さんからも言われています」
「普通の生活って…修学旅行は普通の生活じゃないよ。健康な人間だって疲れるんだから」
「…でも、大丈夫です。長い間じゃないし、修学旅行の間くらい何とかなります」
「何とかならなくなったらどうするんだ?旅先で不測の事態になったら?」
まさに、売り言葉に買い言葉。徐々に熱くなっていく二人の応酬を、他の教員たちは黙って聞いていたが、内心は驚いていた。
この二人が、こんな風に感情的になって言葉を放つところなんて、これまで誰も見たことがなかったから。
そんな周囲の空気に気が付いて、真琴は言い返そうとする言葉をグッと呑み込んだ。
けれども、真琴を本気で心配しているからこその古庄の言動は、止まることを知らなかった。
「いっそのこと3組の引率は副担任の高原先生に任せて、賀川先生には居残り組を任せたらどうですか?」
突然発せられた古庄の言葉に、真琴の顔色が変わる。それと同時に、他の教員にもどよめきが走った。
「…ちょ、ちょっと。賀川先生のことは、確かに心配だけど。それじゃ、女の引率教員が私一人になるじゃない」
あわてて、そう言い始めたのは石井だ。
「女の先生が一人になるのは、困るな」
と、学年主任も石井を援護する。
「だったら、担任じゃない2年部の女の先生を、補助要員として一緒に行ってもらったらいいじゃないですか」
前もって代替案が頭の中に用意されていたのだろう。古庄の受け答えは、とてもスムーズだった。
「他に、女の先生誰がいる?」
「…家庭科の平沢先生とか…?」
話の内容が思わぬ方向へ傾きつつあることに、焦ったのは当事者である真琴だ。
「待ってください!私は修学旅行に行きます!係分担もこのままでいいですから、計画通り話を進めてください」
「何言ってるんだ!行ってから大変なことになって、後悔しても遅いんだぞ」
古庄は、真琴が意固地になって強がりを言っていると思い込んで、つい感情的に大きな声を出してしまった。
負けじと真琴も、ついつい声を荒げて応戦し始める。
「大丈夫です!自分の体くらい、自分でちゃんと管理します!」
「ちゃんと管理するって…、君は学校で2度も倒れてるじゃないか!」
「あれは、ずいぶん前のことで、今は倒れたりなんかしません!」
「倒れたりしないって確証はないのに、どうしてそう言い切れるんだ?」
「それは………」
普段の古庄とは違う激しい口調に、真琴の心の方が先にひるんだ。
今の古庄に何を言っても、彼は自分の意志を曲げてはくれないだろう。
真琴は何も言い返せなくなって、言葉の代わりにポロリと涙が零れ落ちた。
他の教員がたくさんいるこんな会議の場で泣きたくなんかなかったが、どうにも堪えきれず、涙が止まらなくなった。
真琴の涙を見て、古庄は我に返ったかのように口を閉ざし、とっさに後悔の色を浮かべた。
辺りはシーンと静まり返り、気まずい雰囲気が漂う。
その場に居合わせた誰もが、違和感を感じていた。
いつも協力し合い、仲の良かった二人が、こんなふうに言い合いをするなんて。
ましてや古庄の言動は、〝マタハラ〟と受け取られたり、真琴のプライバシーまでも侵害しているように思われるほど、激しいものだった。
でも、ここまで感情を吐露できるのも、プライバシーを共有する夫婦で、他人ではないからだ。
真琴と古庄は期せずして、学年部の教員達の目の前で、初めての〝夫婦げんか〟を大々的に繰り広げてしまった。
「さて、どうするかな?」
しばらくして、学年主任がそう問いかけてみたけれども、皆は一同に口を閉ざして、誰も発言しなかった。




