体調不良… Ⅱ
その時だけは、綺麗な佳音の相貌から、きらりと光るような笑みがこぼれる。
でも、それは心の底から笑う屈託のないものではなく、今にもガラスのように砕けてしまいそうで…。
その危うさを思い出して、真琴の心の一部が暗く陰った。
「教えてくれてありがとう。また、気になることがあったら教えてね」
そう言って、真琴は教壇を降り、教室の出入口へと向かう。
そして教室を出て行こうとした時、突然天地の感覚がなくなり、床を踏んで歩いている感覚もなくなった。
「きゃあああぁ!賀川先生――?!」
廊下に出たところで倒れてしまった真琴に驚いて、女の子たちが悲鳴を上げた。
それを聞きつけ、周りにいた生徒たちが集まってくる。その中には、有紀の彼氏の溝口もいた。
「どうしたんだ?!」
「分からない。でも先生が突然倒れて…!」
真っ先に駆け寄っていた有紀が、溝口を見上げて答える。
溝口はすぐに隣の教室へ取って返し、いつものように女子生徒たちに足止めされていた古庄に、この事実を伝えた。
「何だって…!?」
教卓に置いていた授業道具もそのままに、古庄は血相を変えて教室を飛び出してきた。
「ちょっと、どきなさい」
と、すでに出来上がっている生徒たちの人垣を押し退けて、そこに倒れている真琴の姿に目を剥いて、その側にひざまずいた。
「まこっ……賀川先生!賀川先生!」
肩を掴んで、大声で名前を呼んで、意識の確認をする。すると、真琴はうっすらとまぶたを開いた。
「…大丈夫です。ちょっと立ちくらみがしただけです」
そう言いながら、真琴はおぼつかない意識のまま、床に手をついて無理に起き上ろうとする。けれども、こんな風に倒れてしまうなんて、よほど重症の〝立ちくらみ〟だ。
古庄は真琴の行動を制するように、肩を抱き、膝の裏に腕を差し入れて、軽々と真琴を抱き上げた。
真琴が目を丸くして驚いたのと同時に、周りにいた生徒たちも、その光景を見て息を呑んだ。
「…だ、大丈夫です。お、降ろしてください」
「何言ってるんだ。今降ろしたら、また倒れるだろう?」
唖然としている生徒たちをかき分けて、古庄は踵を返して歩き出す。行先はどうやら、保健室みたいだ。
普段から古庄は、そこにいるだけで誰もが思わず振り返ってしまうような存在だ。その古庄が、真琴を抱えて急ぎ足で歩いている。
授業が終わって廊下に出てきている生徒達の視線を一身に受けて、真琴は焦り始めた。
声を潜めて、古庄の胸元から囁く。
「ダメです…!こんなことをしたら、本当にみんなに知られてしまいます」
そう言うと、古庄の腕から逃れようと、必死で暴れはじめた。
この真琴の抵抗には古庄も抗いようもなく、たじろぐように真琴を下に降ろすしかない。
すると古庄の言うとおり、足が廊下に着けられた途端、真琴は強烈なめまいに襲われる。一人では立っていることもままならず、再び古庄の腕に抱え上げられた。
「ほら見ろ、俺の言った通りだろう?」
真琴は観念して、大人しくなる。
けれども、周囲の生徒達や職員たちの視線には耐えられず、目を閉じ、気を失っているふりをした。
保健室のカーテンに仕切られたベッドに横たえられると、真琴はやっと目を開けて息を吐いた。
「…貧血かしら…?」
養護教諭がそう言いながら、下まぶたの裏を確認して診てくれている。それから脈をとり、血圧も計られた。
「……君は、少し働きすぎなんだよ」
ベッドの傍らに立ち、養護教諭の処置を見守っている古庄から、声をかけられる。
しかし、真琴は、側に養護教諭がいることもあって、何もそれには答えなかった。
働きすぎと言われても、仕事の分量は古庄とはそう違わないはずだ。それどころか古庄は真琴と同じ仕事をこなしながら、部活の指導もしているし、生徒会の顧問の仕事もある。
周りの教師たちよりも大変なわけでもなく、普段と変わらない仕事をしているのにこんな風になってしまったのは、自己管理が出来ていないからだ。
貧血になってしまったのならば、食生活にも問題があったのかもしれない。
自覚のなかったそんな自分が本当に情けなくて、真琴は泣き出してしまいそうだった。
「少し症状が落ち着くまで、横になっていた方がいいわね。…この後、授業は?」
養護教諭がそう問いかけると、真琴の代わりに古庄が口を開いた。
「この後の7時間目は、多分空いてたはずだから。終礼も…高原先生に頼んでおくから、賀川先生はここで休んでいればいいよ」
とにかく今は、素直に古庄の言葉に従うしかなかった。意地を張って、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。




