神剣・エルヴァリエ
神の御剣と成りて、我が生を捨てん。されど人の心は捨てず、ただ我が道を往くのみ。
これは遥か昔、それも神々が地上を闊歩していた時代の石碑に刻まれた言葉。
その言葉を刻んだのは、神に召され神剣と成った一人の少女。
皆も知っているだろう、名をエル・ヴァリエという。
少女はどこにでも落ちている棒切れを振り回すのが好きなだけの何の変哲も無い村娘であったそうだ。
朝は水汲み、昼は家畜の世話と料理、夜は編み物で一日を繰り返し、季節によってほんの少し仕事が増るのを嫌々言いながらもこなして、酒場で二日に一度のビールを煽りながらとりとめない愚痴を言い合ったりして友人たちと笑いあったりする、そんな少女であったと伝えられている。
曰く、彼女自身には特別と呼ばれるような要素を一つどころか欠片さえ持っていなかったそうだ。
だが、それでも彼女を特別たらしめるとすれば、とある少年との出会いだ。
その少年は天使を思わす美しさを纏うという。だが惑わされる事勿れ、かの剣は神剣の冴えをも凌駕する。雨の降りが如し剣技は痛みと血を感じさせる前に洗い流す……そうだ。
彼女は彼を師と仰ぎ、剣を習う。結果彼女は神剣と呼ばれるまでに昇華した。私は彼女の歩んだ歴史を知ることは出来たが、彼の歩みは知ることが出来なかった。
真実を知るのは、神剣の御魂だけだろう。
今語った内容は百年前にシュベリデルの学術員が神剣についてまとめたレポートの序文の抜粋だ。比較的近代の文書だが、私が読んできた物の中で一番詳しくまとめられた物でな。先着にはなるが本文の模写が欲しい者は後で来い、二冊程はストックしてあった筈だから一冊やろう。まあこんなのはどうでもいい、続けるぞ…………と、行きたいところだが時間切れだ。これにて閉講だ、ではまた来週。
教壇に立ち神代史を滔々と講義していた深紅の目と髪をした女講師は、白衣の胸元から時計を取り出し時間を確認すると名残惜しそうに講義を締め、裾を翻す。
彼女に習い講義生達も続々と第一講堂を出る。
しかしたった一人頬杖を突いて空を模した天井を眺める、悠久の峰を匂わす少女の姿があった。
講義の中身は、彼女の思い出を揺さぶる言葉ばかりで、黄昏ていたのだ。
「会いたいよ——ノア」
遠い果てへ想いを馳せた声音は、燻んだ空に吸い込まれ、天へは届かない。例え、神の剣と成っても。
最愛とも呼ぶべき感情を向けた相手が消えてから、一体どれ程の時間が経ったか分からない。
彼は師であり友であった、また良き理解者でもあり、一時は家族でもあった。
優に三百年を越えた、四百年は超えてるのは確かだ、もしかしたら五百年近いかもしれない。
神にこの身を剣と捧げる前から探しているのだ、日も、年も、世紀すらもどうでもよくなってしまうのは道理だろう。
必要なのは想い続ける時間ではない、寄り添う時間がどれだけあったかだ。
馴れ初めの時間は短ろうと長かろうと関係ない、そこから先の時間こそが何よりも大切なのだから。
もしも、その時間を一方的に奪われたのなら……取り返すまでだ——誰が相手あろうと。
今日の彼女には何か不思議な予感があった。
いつもなら零さない筈の弱音を吐いてしまう程胸を騒つかせる気配、きっと何かが起きる。それが何なのかは分からないけれど嫌な空気じゃない、だから早く——来てよ。
「エルヴァリエさん、今正門から侵入者が館内に潜り込んだって聞いたの。確保を手伝ってもらえないかしら?」
息せきって講堂の中に入ってきた少女は彼女のクラスメイト。
「ふふ、やっぱり」
ふわりと目を細め、すぐに凛々しく表情を引き締め少女の元へ駆け寄れば開口一番。
「構わないわ。で、侵入者の情報は?」
「今判明してる侵入者の数は一人、もしかしたら二人かも。どちらにせよ少数なので戦力の問題ないかと。ですが腕が立つ様で、警備を十名程のされました。目的は不明、目的地も進行方向も不明、てか現在見失ってる状態です……なのでクラス・バルドウのメンバーに声掛けて捜索中です。あと……勇者さまにも!」
緊迫した口調で一連の情報を捲し立てていたが、最後の方はほんのり桜色に頰を染めた恋する少女になっていた。
勇者というキーワードは人大きく塗り変える、その名前にはそれだけの力がある色だ。
強すぎる色は他の色を汚く上塗りしてしまう、だが本当に怖いのは大抵の色は強い色があれば綺麗に見えてしまう、ということだ。確かに近くで見れば汚さや粗さを浮き立たせるだろう。だが、決して近くで見ることない物ならおおよその人は騙せる。それが人の心だとしたら尚更だ。
とはいえ、汚さを知る人間も、気がつける人間も、なんとなく解ってしまう人間もいる。しかし、強い色が普通よりも強く、単体だけで綺麗な色とされている物であったのなら、色を知るが故に染まってしまいもするだろう。そうなってしまえば薄い濃いと千差万別あった色も一緒くたに染まるだろう。ここまでくれば、もっと強い色が出るまで続いてしまうのだ。
彼女から見て勇者は歴代の勇者の中でもトップクラスの色を持つ人間。何者も一緒くたに自分で染め上げられる、嫌な色。
そういう強い色の怖さを知る彼女は、目の前の少女に『かわいそうに』と思ってしまう。が、同時に自分が崇拝の感情に近く想う相手の色に染まっていたいと思う彼女は、人のことを言えないと共感してしまうのも事実であったりする。
「そうか、じゃあ私もそれぽい所を探しておく。そうそう、私や勇者辺りが出るのであればこれ以上人は増やさんでも平気だろう、増えすぎても面倒だ。あと私以外の人が侵入者を見つけたら、リドヴィシア辺り使って教えて欲しい。では」
彼女の言葉に、というよりも神剣の言葉というところに安心したのか、ぺこりと頭を下げ、急ぎどこかに走り去ってしまう。きっと走って行った方向に勇者いるのだろうな、と分かり易すぎる少女の反応に笑いを抑えられない彼女ではあるが。
「ふっ、くくく。顔がにゃーごにゃーごしてたなあの子」
最後は声に出して笑ってしまった。幸いな事にこの講堂はあと小一時間ばかり空なので誰にも聞かれることは無いのだが、見られていたら彼女の聖人君子というイメージは崩れたことだろう。
ひとしきり笑い満足したようで、彼女は緊急時であると感じさせないゆったり吹く風の動作で歩き出し、とあるところへ向かった。
もしも先の予感が当たっていたとしたら、多分ここだという感覚がある場所がある。そこへ向かうのだ。
こういう予感というのは案外当たる。正確なことは言えないが、直接的に嗅覚で感じない微かな匂いがあり、それをなんとなくで判別する感じだ。
剣を交える時になんとなくこう、という感覚で動いたりするそれの延長戦の様なものだと彼女は理論付けてはいるが、人によって様々な理論付けがあることも知っている。
同時に、範囲や人の見方によって変わるのだろうと知っているので、あまり人にも語りづらい。
そんな妙な感覚を頼りに彼女は一直線にそこへ向かった。