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コンロに火をかけ、手のひらを胸の前ですり合わせる。
冷気が足元から徐々に迫ってくるが、葵は鼻歌を口ずさむほど上機嫌であった。
たった数分間、この肌寒さに耐えることなど今の葵には大した問題ではない。
葵にそう思わせるのは、千春が持ってきたお土産の効力に他ならない。
お湯が沸くのを待っていると、葵の頭にふと千春の言葉がよぎった。
――ちょっとお願いしたいことがあってさ!――
"お願いしたいこと"とは一体何だろう。多忙な千春がわざわざこんなに朝早くにお願いに来るのだから、些末なものではないのだろうと葵は推測する。
仕事の話だろうか?
あれこれ考えを巡らせていると、やかんのふたがカタカタと揺れ始める。
葵は食器棚からトレイ、ティーカップとソーサーを三組、同じ棚の引き出しからアールグレイのティーパックを取り出した。
葵はテーブルにトレイを置いて、ティーカップを並べてお湯が沸くのを待った。
コンロの方に向き直ると、やかんは注ぎ口から激しく蒸気を噴き出していた。
「そんなんだから30になっても結婚できないんだよ!」
葵がやかんを取りにコンロに歩み寄ろうとしたとき、オフィスの方から洋のものと思われる大声が響いてきた。
「うっさいわね!ってかそれセクハラ発言!
しかもまだ30なってないから!!」
今度は千春の声だ。
葵は、ああやっぱり始まったなと、ある種の安心感のようなものを感じながら、カップにお湯を注ぐ。
千春が事務所にやってくると、"何か"をきっかけにして毎回こういった怒声の応酬が始まる。"何か"は大抵とりとめのないことで、前回千春がやってきたときは「からあげにレモン汁をかけるかかけないか」だった。
今回は一体何がきっかけだったのだろう。葵はそんなことを考えながら、残ったお湯を冷蔵庫の上に置いてある電気ポットに注いだ。
葵はティーパックを三角コーナーに捨て、用意した紅茶を持って未だ大声の行き交うオフィスへ続くドアを開いた。
「大体あんたももう30でしょうよ!
さっきの言葉そっくりそのまま返させていただきますー!」
「男は30越えてから深みが出て来るんだよ!
そんなことも分からないから生き遅れ」
「ああ!ああ!その先言ったら訴える!セクハラで訴える!」
葵がオフィスに戻ってきたことに気付くことなく、二人は舌戦を繰り広げている。
「お待たせしました。
それで、今回は何があったんですか?」
葵はカップを並べ、千春の隣に腰を下ろしながら二人の会話に割って入った。
「聞いて!葵ちゃん!」
そう言って千春は隣に座る葵の方を向く。
「こいつに葵ちゃんを雑に扱うなって言ったの!そしたらね」
「人を指をさすんじゃねぇよ!」
「そういうあんたこそ今まさに人を指さしてるじゃないの!」
葵はまさか争いの原因が自分に関わることだと思ってもいなかったので、なんとも言い難いもやもやとした気分で胸がいっぱいになった。
そんな葵の気持ちを察したのか、慌てて千春が葵のほうに向き直って声をかける。
「あ!葵ちゃんが悪いわけじゃないから!悪いのはこいつ!」
「なぁんで俺が悪いことになってんだよ!」
再びヒートアップする二人。誰かが止めなければ、戦いはこのままずっと続くであろう。誰かと言ってもその場には葵しかいないのだが。
葵は、何か2人を止めることの出来る話題が無いか必死に思考を巡らせた。
その結果、葵は思考の中に一つの光を見つける。
「あ、そういえば千春さん!お願いしたいことって何ですか?」
「あ!そうそう!
今日はそのために来たんだった!」
千春は葵の言葉を聞くと、大げさに両手を叩いて言った。
「あ、紅茶ありがと。これ食べて食べて」
「あ、ありがとうございます……!」
千春は、箱からプリンを二個取り出し、手際よく自分と葵の前に並べた。
葵は自分の前にプリンが置かれると、にっこりと嬉しそうに顔をほころばせた。
「俺の分はねぇのかよ!」
「ほら、ちゃんと三つあるでしょ!あんたは自分で取って勝手に食べてなさい」
洋は葵との扱いの差に露骨に不満そうな表情を浮かべるが、一応自分の分も用意してくれていた千春に難癖を付けることができずに大人しく箱ごとプリンを自分のところまで引き寄せた。
「えっとね、お願いって言うのは……」
千春は紅茶を一口飲むと、右手にカップを持ったまま話し始めた。