第八話
夏休みが終わりました。ちくしょう。
初めての他人視点です。
『ソレ』は、僕にとって『恐怖』そのものだった。
物心ついた頃、最初の『ソレ』が現れた。両親が忙しく寂しい思いをしていた僕を慰めてくれた、シッターさんだった。
『ソレ』は頬を上気させながら、当時二歳だった僕に支離滅裂な愛の言葉を吐いた。もちろん僕にはその内容は分からなかったけれど、なんとなく「ああ、この人はおかしいんだな」と滞りなく理解した。
その日から、『ソレ』は次々と僕の前に現れた。
ある時は幼稚園の近所でも人気な保父さんとして。
ある時は小学校の担任教師として。
またある時は見知らぬ女子大生として。それぞれがそれぞれに一様に、僕への愛に狂っていた。
どんなに人通りの多い道へと行くようにしてもどんなに逃がれようと抗っても、『ソレ』は姿を変えてやってきた。
『ソレ』が全員で20人ぐらいにはなった頃だろうか。僕はふいにあることに気付いた。
『アレ』は僕が他の人と関わるから、周りに好意を持って近づいていき、同じように好意を求めるからいつまでもやってきて、僕を周りから切り離したがるという至極当たり前のことに。
なら、僕は周りに何も求めない。そうすれば、きっと『アレ』はいなくなってくれるはず。
そう願わずにはいられないほどに、僕の精神は疲弊していたのだ。
それから、僕は変わっていった。
周りの人を助けるために、両親に迷惑をかけないために、―――自分自身がこれ以上壊れないために。
人との間に一線を張って生活するようになった。
そのせいで何かが消えていく気がしたけれど、きっと気のせいだと振り払った。それを続けている間は『アレ』が居なくなって、もうあんな狂った目にさらされることがないのだと思うとこれは正しい事なのだと確信できた。
それが崩れたのは、椋と出会った小学三年生のあの頃からだ。
「私、倉橋椋っていうの。よろしくね、鴨志田君。」
ふわりと笑う彼女を見て、僕は「この子は僕と同じだ」と思った。誰かのために、自分を偽って生きている嘘つきの目。でも彼女の場合は僕と違って、自分のことなんて全く含まれていなかったのだけれど。
そんな親近感からだったのかもしれない。
彼女のことを知りたい、彼女と―――椋と、仲良くなりたい。
いつしかそんなことを思うようになった。椋と会話したり遊んだりすることで、失っていた何かが埋まっていく、そんな気がした。
『アレ』に中身を壊されてしまった僕のような奴でも、椋と一緒にいたいなんていう分不相応な願いをもってしまったのだ。
しかしその思いが招いたのは、『アレ』の再来という最悪だった。よりによって、椋がいるときに『ソレ』はやって来てしまったのだ。
がくがくと足が震え、唇が微かにわななく。それは『アレ』への恐怖のせいだけではない。『アレ』に罵詈雑言を吐かれている優しい彼女が、椋が怖がって僕から離れてしまうかもしれないということが抱えきれないほどの恐怖となって僕へと圧し掛かってきたのだ。
その翌日、僕は学校を始めて休んだ。
合わせる顔がない、とはこういうことを言うのか。椋をあれだけ怖がらせてしまったのだ、以前のように接してくれというのは無茶な話だろう。
あの笑顔の絶えない顔が、僕に恐怖のにじむ顔で僕を見る。それを考えるだけで、膝に顔を埋めてしまう。自分でも知らないうちに、ずいぶん弱くなってしまっていた。
やっぱり、自分が人にかかわると自他両方に不幸になってしまうのか、と自分の生に意味を見いだせなくなってしまっていた、その時。
「―――梢」
椋は、いつもと変わらない口調で話しかけてきた。
椋にとっては僕を友人の一人として心配して、許してくれただけかもしれない。でも、僕はうれしかった。
友情でも同情でもなんでもいい。僕に椋が感情を向けてくれるのなら、それを利用して付け入って、絡みとってしまえ。
椋の笑顔を見ながらそんなことを思う僕の目は、きっと『アレ』と同じくらいに狂っていたのだろう。
「・・・ん・・・?」
寝苦しさから目を覚ますと、そこには見知らぬ天井が広がっていた。
眠けのさめない体を無理やり起こす。すると、寝苦しさの原因であろう椋の両腕が、ずるりと僕の体から滑り落ちた。
「・・・ああ。そういえば、椋のドレスを買いに行って・・・。」
眠けが覚めてくると、だんだんと昨日のことを思い出した。
椋が学校の行事でドレスが何着か必要だというので、手近な店へとドレスを買いに行ったのだ。
その後「お礼をさせてくれ」という椋の申し出を断りきれず、適当な店に入りお酒で酔えば強気に出れるかと飲んでしまったのが間違いだったのか。
僕は二日酔いはしない方なので頭痛はないが、その代わりなのか僕はお酒を飲むとすぐに意識を飛ばしてしまう。初めてお酒を飲んでからは自粛していたのに、すっかり忘れていた。
まあそうして酔いつぶれた僕を椋が家まで運んだ、と言ったところだろう。
それはありがたいのだが。
「成人した女の人がこれはないでしょう・・・。」
思わず頭を抱えてしまう。同じ年の男を同じベットに寝かせるとはまさか、もしかして椋は僕を同性と勘違いしているのか?
ちらりと時計を見るとそこに示されていたのは午前2時30分。二度寝しようとも思ったが、すっかり眠けが覚めてしまっている。
・・・しょうがない、鍵を借りて自分の部屋に帰って寝なおそう。6時か7時くらいに起こして鍵を返せば問題ないだろうし。
ベットから降りようと体をよじると、手に軽く何かがふれた。
「・・・おとうさ・・・。」
眉を寄せ、僕の手をつかむ手に少し力を入れる。その姿は、とても可愛いのだけれど。
「―――ムカつく。」
思わずこの手をつかんで引き寄せて噛みついてしまいたくなる。
僕のことだけを考えてほしい。劣情も恨みも悲しみも喜びも好意も何もかもを、僕に向けてほしい。そんなことをするのは無理だと頭では分かってはいるけれど、こうも僕の神経を逆なでするようなことをされると枷を壊してしまいそうだ。
何とか理性を振り絞って、艶やかな黒髪をなでる事だけに留まる。何度かそれを繰り返すと、だんだんと椋の表情が和らいでいった。
それを見ていると自然と頬が上がるのが分かる。我ながら表情が変わらないなとは思うが、椋が関わるとそんなものは関係なくなるようだ。
「・・・あーあ、なんでよりによって峰來学園なんてところに行っちゃったのかな・・・。暁に久那城に・・・まだ澤凪とは関わっていないようだけれど、どうせ今日からの峰來祭とやらで絡まれるんだろうし・・・。あいつらの他にもめんどくさいのがいるんだっけ・・・。峰來学園に行くのはだめって先に言っておけばよかったかもね・・・。まあ、渡さないけど。」
椋は知らなくていい。僕がもう椋が思っているような奴じゃないことも、自分がどれほど危険な目に遭っているのかも。何も知らずに日々を過ごして、何もわからないうちに堕落して。
僕がいないと生きていけないくらいに、依存してね。