第十二話
大変遅くなりました。
全く、もうやってやれない。
腕に持ついやに重たい資料を睨みつけながら、思わず舌打ちをする。峰來祭の期間中に、しかも豪華客船の中にいるというのにわざわざ図書館に来るような奇特な奴はいないようなので、いつもの生徒会長の仮面をかぶる必要がない、というのは唯一の救いだ。
いつから俺はこんなに仕事に追われる生活になってしまったのだろうか。
・・・いや、こうなった原因はわかっている。他のメンバーが仕事を半ば放棄しているせいで、それまで6人で分担してやっていた仕事が一気に俺のとこへ流れ込んだのだ。いったいあいつらに何があったのか。それまでだって決してまじめな奴らだったとはいえはしないが、こんな事態になるまで仕事をしなかったということはなかった。
生徒会に課される仕事の量は到底俺一人でできるものじゃない。おかげでここしばらくまともに睡眠をとれていないし、授業もまともに受けることができないでいる。生徒会役員としてある程度の授業免除は許されてはいるものの、このままでは勉強に追いつけなくなるのも時間の問題だろう。もしくは俺の体が壊れるのが早いか。
そんなことを考えている今も視界はぼやけて足はおぼつかない。ここに人がいなくてよかった、人通りの多い道だったら確実に事故が起こる。
ようやく目的の棚にたどり着いた、と気を緩めたのがいけなかったのだろうか。
「しまっ、」
脚立に足を取られ大きく体が傾く。ああ、まだやるべきことがたくさん残っているのに。
俺が頭を床にうちつけ意識をなくす前に見たのは、宙を舞う資料と―――髪の長い女の影だった。
これはどういう状況なんだろうか。
この豪華客船の図書館の隅で、苦しそうに眉をしかめて気絶しているのはどこからどう見ても峰來学園の完璧生徒会長澤凪君だ。彼が一体全体なんでこんなところにいるのかはわからないが、とりあえずは。
「すいません誰か担架持ってきてください!!!」
なんか前にもこんなことがあったような。
たまたま近くにいた司書の人のスマホから救護室へと連絡を入れてもらい、何とか澤凪君を救護室へと運ぶことに成功した。ちょっとした騒ぎになってしまったけれども、まあ澤凪君にはあとで謝っておくことにして。
現在私は救護室の澤凪君のベッドの隣に椅子を出して座っている。澤凪君にとっては自分がどうしてここにいるのかさっぱり訳が分からないと思うので、まあ一応説明だけは軽くしてあげようという親切心からだ。・・・年甲斐もなくきれいな顔の男子を眺めていたいとか、そういうたぐいじゃないから。全然そんな気はないからぁ!!
改めて自分の精神年齢を確認して若干へこんでいると、うめき声とともに澤凪君がうっすらと目を開けた。
「おはよう、澤凪君。」
「・・・あ・・・?」
澤凪君はゆっくりと体を起こし、自分のいるベッドと私に視線を向けた後そのまま固まってしまった。やっぱり私の危惧したとおり今の状況がさっぱりわからないようだ。
「ストレスと睡眠不足、それから栄養不足が原因で倒れたんだって。幸い軽いものだったらしいから、しっかり寝てしっかり休めば明日には元気になるよ。」
良かったねと笑いかけてみるが、澤凪君は固まったまま微動だにしない。何だ、私の顔が見苦しかったのか?自分で言ってて悲しい。
「じゃ、じゃあ私はこれで・・・。」
なんだか無性に悲しくなったので、少し強引に澤凪君へ背を向ける。もう部屋に帰ってベッドの上でじっとしていよう、なんてことを考えていると、不意に服の裾を誰かにつかまれた。誰かなんて言っても、彼しかいないわけだけど。
「ま、まって・・・ください。」
澤凪君はひとしきりあーとかうーとかうなった後、意を決したように俯かせていた顔を上げた。やめて美形の顔の直視は私にはきつい。
「あの、俺とメアドを交換してください!!」
・・・澤凪君、君と私との間に冷たい風と沈黙が流れたのはきっと気のせいではないと思うんだ。
うれしい、うれしい。
彼女がいなくなったこの部屋は、もとの白さも相まって本当に色がなくなったように思えたけれど、今の俺には気にならなかった。
しわにならないように気を付けて、一枚のメモ用紙をいとおしげに胸に抱きしめる。
そこには彼女の字で、メールアドレスがしっかりと記されていた。
彼女は見た目通り規則を守るしっかりとした人だから、最初はかたくなに教えるのを拒んでいた。俺が頼めば大体の女は教師であろうと何でもしてくれたのに、彼女だけは違った。それがまた愛しくて、抑えなくてはいけないのについつい彼女の手を取ってしまいそうになった。
そうしたら、あとはもう止められない。
首をもたげたどす黒い欲望を必死で笑顔の奥に押し込める。彼女におびえられるのは何よりも嫌だから、慎重に、繊細に扱わなくては駄目。
何度も何度も頼み込んで、ついに彼女が折れた。あきらめたような目の彼女はそれはそれはきれいだったけれど、俺はちょっと不安になった。
彼女はこのまま流されて、俺以外の誰かのものになってしまうんじゃないかって。
それだけは駄目だ、彼女は俺のもので、俺は彼女のもの。誰かの介入なんて存在してはいけないのに。
「―――もしもし、俺だ・・・ああ、そうだ・・・例の件を、至急進めてほしい。具体的には・・・そうだな、本土に帰るまでにはしておけ。できねぇとはいわねえよなぁ?」
本当に俺のお姫様は守り抜くのが大変で、王子である俺は頭を悩ませるばかりだ。
やってしまった、まず思ったのはそれだった。
教師である私が、生徒で攻略キャラでもある澤凪君にメアドを渡してしまったのだ。これはかなりまずいだろう。私の体裁的に。
峰來学園という歴史ある学園の一教師が、生徒と不順異性交遊。なんとまあメディアの飛びつきそうな話題だこと。ゲームなら軽く流されるこの話題は、この世界で生きる私にとってはかなり危険な爆弾だ。
権力を使ってメディアには流されないかもしれないが、問題を起こした私は即刻首だろう。そんな事実がまるでなかったとしても、煙がたった時点で教師としては致命的なこと。そして路頭に迷い、お母さんも恥知らずな娘の母親として祭り上げられ・・・ああ、悪いことばかりが頭の中を駆け巡っていく。
澤凪君がうかつなことをしないことを願うばかりだ。
気を取り直して、目の前に置かれたカルボナーラをつつく。
時刻はお昼時、船に負けないほどに豪華なレストランは学園の中にいる有名なシェフや高級ホテルの総料理長の子供たちのつてをフル活用し、日本でもこんなに豪華な店はないだろうというぐらいに豪奢で、天井に釣り下がるシャンデリアにウェイターの蚊阿多の制服まで私にはまぶしい。今もこんな服で来るんじゃなかったと後悔中だ。しかも料金はタダだというのだから恐ろしい。普段の私なら厨房で働くシェフの一人の料理でさえ手を伸ばそうとはしないだろうが、この機会に盛大に楽しませてもらうことにする。
くるくるとパスタをフォークに巻き付けて口に運ぶ。ふわりと芳香が香り、私の高級なものに対しての経験が少なすぎる舌はうまいということしか発さなくなった。なにこれめちゃくちゃおいしい。
パスタを口に入れて目を見開いた私はなかなかに滑稽に映るだろうが、そこは問題ない。会場の隅のほうのテーブルに席を確保し、さらに壁に向かうように食べているのでよほど真横から見ない限り顔は見えないはず。かなり寂しい奴に見えるだろうけど気にしない。大人の余裕というやつだ。
口の中に広がるおいしさの余韻に浸りながら、二口めを口に運ぼうとした時、テーブルを誰かの影が覆った。
誰だろう、というかまだ空いている席はあるだろうに、といぶかしげに顔を上げると、そこにはこの世界で一番出会いたくなかった、私に対して最も凶悪な攻略キャラがいた。
「・・・何でしょうか、皆影先生。」
「相席してもいいですか?倉橋先生。」
科学教師、皆影統吾。将来私の顔と体に硫酸をかけてじわじわといたぶってくることになる、最も花咲ちゃんにはくっついてほしくない相手である。




