第十話
いつも以上に甘くなりました。
それは聞き覚えがある声だった。
その声を受けた向井先生が指をこちらに伸ばすのをやめて、表情をストンと落とすのが目の前で見えた。向井先生を知っている人間なら想像もつかないような冷たい顔。そのままゆっくりとした動作で自分の後ろを見やる。その際に目の前にあった体がどけて、私にもそこにいた人の姿が見えた。
「か、らさわくん・・・?」
さらさらと潮風に流れる黒髪にすらりとした体躯、なによりその瀬河先生とはまた違ったさわやかさが漂う整った顔立ち。
唐沢明人君その人だった。
峰來祭は制服でないといけないという縛りがないので(それもこのイベントの人気に一役買っていたらしい)、いつもの制服姿とは違い白いシャツにジーンズというラフなスタイルながらも、その飾り気のなさが彼の本来の魅力を存分に引き出していて・・・って、私は何を言ってるんだ。まあ、言うまでもなく現実逃避なわけだけれど。
「唐沢、何か用か。」
それまで会話も行動も取り立ててしていなかった(存在感が空気だった、ともいう)瀬河先生が、いつもの表情とは180度違った不機嫌な様子でそう吐き捨てた。
一方唐沢君はといえばにこにことした表情を崩さない。が、目が驚くほど冷たい。それを見て私は小さいころにテレビで見た特撮ヒーローものの番組を思い出していた。ビルぐらいの大きさを持つ怪獣が、目からビームを出す。ビームが当たったところは爆発炎上、見るも無残な姿になっていく。テレビではそのあとヒーローがやってきたが、現実ではヒーローがやってくることはない。というかどちらかといえばヒーローが怪獣のような状態なのだふぁ。噛んだ。
私を完全に無視して険悪な雰囲気は継続されている。頭上のはるか高みからじりじりと肌を焼く太陽と船艇に打ち寄せる波の音だけが、ただこの状況に冷や汗を流すしかない私の救いだった。
「いえ、約束していた時間になっても椋先生がいらっしゃらないので探しに来てみれば、大変困った様子でしたので、少し声をかけただけですよ?ねえ、椋先生?」
「みゃぐ!!?」
いきなりこちらに話を振られたのでまたまた変な声を出してしまった。自分でいうのもなんだがみゃぐってなんだ、みゃぐって。
3人の突き刺さるような視線に貫かれながら(悪い意味で)、何とか返事を返そうとするが、記憶をたどってもそんな約束をした覚えがない。とうとう頭までいかれてしまったのか、と視線を下に下げて必死に記憶をあさっていると、ふと視界の隅によく手入れされた白のスニーカーが入ってきた。
「さあ、行きましょう?」
そして、その靴の主に私は手をつかまれる。次の瞬間には、体を浮遊感が襲い、ひょいという効果音が付きそうなほど軽々と、私はその人の腕の中に納まっていた。
所謂姫抱き、姫抱っこと呼ばれる体勢だ。
「ちょ、」
こちらがとめる間もなく、唐沢君はそのまま自分が来た方向へと歩き出した。何がどうなっているのか。状況を確認するために慌てて顔を上げようとするが、それを察したように唐沢君の腕が頭を押さえるようにして自分の胸へと私の頭を密着させたために動くことができなくなった。というかなんでそんな体制でバランスが取れるんだろう。いや、バランスを崩されたら私が地面に落ちちゃうわけだからよくはないんだけど。
とりあえず下ろしてもらいたいと、手足を子供のようにばたつかせてみる。先生としての威厳なんかない。というかそもそも、生徒にこんなことをさせられている時点で、そんなものは皆無なのだと思う。しかしそんな私の抵抗にも、唐沢君は眉を少し八の字に下げただけで下ろそうとはしない。むしろ腕の力が強まり、自分の首を自分で絞めてしまったことを悟った。何なんだ今日は、厄日か。
それからいったいどれだけの時間がたったのか、私が彼の腕から解放されたのは逃げることもあきらめてとりあえず現実逃避をしだしたころ、つまりはそれなりの時間がたった後のことだった。
そうっとまるで壊れ物を触るかのように廊下へと下ろされる。それに対して感じるものがなかったとは言わないけれど(悪い意味で)、もう何も言わないことにしよう。遅すぎるような気がするが、唐沢君の9歳上の大人という威厳を取り戻すべく、ごほんっとわざとらしく咳ばらいをした。やることが古いという苦情は聞かない。
「唐沢君、これはいったいどういうつもりで」
「すいませんでした!」
がばっと勢いよく唐沢君が頭を下げた。しかも腰の角度がぴったり90度という、あまりに見事すぎる礼だった。
聴きたいことや言いたいことは山ほどあったが、そんなことを年下、しかも生徒にされては何も言えなくなってしまう。
唐沢君は頭を下げたまま、ぽつぽつと話し始めた。
「すいません、いきなりあんなことして・・・ただ、甲板に出てみたら椋先生が二人に迫られているのが見えて・・・困っているように見えたので、何とか連れ出そうと思って・・・。あの、迷惑でしたか?」
まさに恐る恐る、といった感じに唐沢君はこちらを見つめてくる。なんとさっきのは私をあの場から連れ出すためにしたことだったらしい。それを聞いた私の目に、何かこみあげてくるものがあった。
なにこの子、めっちゃいい子。
ぶんぶんとできる限りのスピードで首を横に振り、迷惑ではなかったと全力で伝える。私はこんないい子を怖い奴だと勘違いしていたのか、今すぐ土下座して謝りたい。
気持ちが動揺しすぎてかすかに震えながらも、何とかありがとうと伝えると、唐沢君は花がほころぶようにふわりとほほ笑んだ。
「―――なんて、嘘。」
自室に戻り、服にしわが付くのも構わずにベッドへと体を投げ出すと、スプリングがかすかにきしむ音がした。
仰向けになり、手を目のほうへやる。先ほどのことを思い出して、自然と笑いがこぼれた。
甲板に出てみたら偶然椋先生が困っているのを見つけた、というのは真っ赤な嘘だ。
椋先生の周りには、僕に従順な『駒』を何人か配置している。椋先生の一挙一動はすべて僕のところに入ってくるように準備した。だからあの時も、瀬河と向井が椋先生に絡み始めた時点で僕は行動に移っていた。
今考えると腹立たしい。僕より少しくらい椋先生と年が近いからって、なれなれしく彼女に近づいたりして。
椋も椋だ。彼女は普通の成人女性よりも危機感というものが圧倒的に足りない。ただでさえ、彼女の周りには厄介な奴らが多いというのに。
ふと、自分から甘い香りがかすかに香るのに気が付く。香水をつける趣味はないので首をかしげてみるが、一つ思い当たる節があった。
「―――椋の、香り。」
愛しい彼女がまとう香りが、こんな甘いものだったと思い出す。おそらく彼女を連れだすために抱き上げたときにこちらへと香りが移ったのだろう。『駒』によると彼女は香水の類は嫌っていたはずだから、これは彼女自身から漂うもの、ということになる。
そう考えると途端に顔が熱くなっていくと同時に、どうしようもなく幸福を感じる。
きっと彼女の体は、干菓子のように甘い味がするんだ。
「僕には家の力も財力も特出しているというわけではないけれど―――だからって、椋はだれにも渡さない。椋を救い出すのはいつだって、僕の役目だもの、ね?」
峰來祭はまだ始まったばかりだ。これからのプランを練りながら、体を包む幸福の香りに身をゆだねた。




