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祭に出掛けられないとなると、なんだか途端に気力が萎えた。
もうはしかの症状は見られないし、ほぼ完治している状態ではあったので、家の中で過ごす分にはベッドから出ても問題はなかったが、リーゼロッテは寝転がったまま窓越しに薄雲が流れる晴れた空をぼんやりと眺めた。
祭の直前になってはしかに罹ったことが判明したときは、人生が終わったような絶望感に襲われたものだ。おとなしく寝ていれば祭までに治るだろう、と父親に諭されたので、素直に伏せっていたのだが、結局は間に合わなかった。
しばらくふて寝をしているうちに、まどろんでいたらしい。
寝てるみたいだよ、という囁き声が頭上で聞こえてくるまで、部屋に人が入ってきていることに気づかなかった。
もそもそと毛布から顔を出し、声の主を確認する。
「ごめん、起こした?」
案の定、枕元にはマルヴィンが立っていた。
「顔色はだいぶ良くなったみたいだけど、今夜は出掛けられないんだって?」
緑青色の瞳を曇らせたマルヴィンが顔を覗き込んでくる。栗色の前髪が落ちてきて目元に陰を作ると、端正な容貌が憂いを帯びたように見える。
「外出禁止令が出たの。残念だけど、わたしはお祭りには行けないわ」
視線をマルヴィンからそらすと、また毛布に潜り込んだ。はしかは直ったとはいえ、寝起きの顔がむくんでいる自覚はあった。
はしかはマルヴィンの工房で働く職人から貰ってしまったらしく、リーゼロッテが寝込んで以来、毎日マルヴィンは見舞いに訪れる。はしかに罹った職人が休んでいるため仕事が忙しいだろうに、自分ははしかを済ませているから、とサシャが学校に行っている間は様子を見に来てくれる。リーゼロッテとサシャは、看護婦である母親に看病してもらった記憶がほとんどなく、幼い頃から体調を崩すとマルヴィンの母親に預けられていたものだ。
「そうか。仕方ないな」
軽く肩をすくめると、マルヴィンは頷いた。
「マルヴィンはどうぞわたしのことは気にせずお祭りを楽しんできてくださいな」
「いや、ロッテが行かないなら俺も行かない」
「……はぁ?」
自分の耳が信じられず、リーゼロッテは起き上がった。
「一生に一度の聖トルステン祭に行かないって、どういうことよ!?」
険しい表情を浮かべ、マルヴィンのシャツの襟首を掴んで詰問する。
「そもそも君が祭に行けなくなったのは、うちの職人が君にはしかを感染したことが原因なんだから、俺だけ行くのはおかしいだろ?」
「おかしくないわよ。別にマルヴィンが悪いわけじゃないんだから、責任を感じる必要なんかないのよ。反対に行かない方がおかしいわよ!」
自分のせいでマルヴィンが祭に行かなかったと知れれば、明日には彼に憧れる女子の集団から自分が責められるのは目に見えていた。リーゼロッテにはそちらの方が困る。
「どうせ行ったって、知り合いなんてほとんどいないし」
「いっぱいいるじゃないの。ニコラスとかクレメンスとかカールとか」
「ダンスに誘ってくれる女性はいないし」
「いっぱいいるから! 心配しなくても、マルヴィンと踊りたい女の子はいっぱい来ているから大丈夫!」
出不精で人見知りな性格のマルヴィンは、困惑した様子で眉尻を下げた。
「知らない子と踊るのは気が進まないな」
仕事となると初対面の相手でも流暢な話しぶりで服や生地の説明ができるが、商売抜きとなると途端に愛想がなくなる。
「あれ? マルヴィンもお祭りに行くのやめるつもりなんだ」
籠に大量のリンゴを盛って入ってきたサシャは、耳ざとく聞きつけた。
「僕は行った方が良いと思うけど」
「そうよね。サシャもそう思うわよね」
味方の登場でリーゼロッテは勢い込んだ。
「サシャ、あとでクレメンスに出掛ける前にマルヴィンを誘いにくるよう頼んでおいてくれないかしら」
「了解。じゃあ忘れないうちに頼んでくるよ」
おどけて敬礼をすると、サシャはリンゴをテーブルの上に置いた。
「マルヴィン、そのリンゴの皮を剥いておいてくれないかな。エイセルさんからのお見舞いなんだ。食べてくれても構わないけど、パイを作るから半分は残しておいてよ」
「え? いや……」
自分の仕事をマルヴィンに押しつけると、サシャは素早く身を翻して部屋を出て行く。
マルヴィンが止める暇などなかった。
「お願いだから、わたしに遠慮せず行ってきて。マルヴィンが気を遣う必要なんてどこにもないのよ。エイセルさんからはお詫びってことで毎日お見舞いをいただいているし」
テーブルの上のリンゴとナイフを手にとって皮を剥き始めたマルヴィンは、視線を手元に向けると集中しているふりをしてリーゼロッテを無視した。
こうなるとマルヴィンは強情っ張りだ。
黙ってリンゴを剥くと、食べやすいよう八つ切りにして皿の上に並べ、無言のままリーゼロッテに差し出す。
しかたなく皿ごと受け取ると、フォークがないのでそのままリンゴを指で摘まんで食べた。蜜がたくさん詰まったリンゴは、採れたてということもあって甘くさっぱりしており、胃にも優しい。
手先が器用なマルヴィンは、籠に盛られたリンゴを次々と剥いては皿に並べ、剥いては並べていく。リーゼロッテが一切れ食べる間に籠の中の半分は剥かれていた。
ぜんぶ剥き終わる頃を見計らってサシャがクレメンスを連れて戻ってくることだろう。祭は日没前から始まるが、馬車の準備をしたり身支度を調えるたりするなら、そろそろマルヴィンも家に戻らなければならない。
体調はほぼ戻っていたので、リーゼロッテの食欲も回復していた。
リンゴは予想以上に美味しかったこともあり、マルヴィンに対抗するようにして二切れ、三切れと食べていく。一個丸ごと食べきったところで、さすがに胃も満腹になった。サシャはいつになったら戻ってくるんだろう、と手持ち無沙汰なリーゼロッテが更に二個目のリンゴの一切れに手を伸ばしたときだった。
「マルヴィンさん、お祭りに行かれないって本当ですか!?」
いきなり騒々しく扉を開け放って飛び込んできたのは、クレメンスの妹パミーナだった。
「御機嫌よう、パミーナ」
ここはマルヴィンの部屋ではなくわたしの部屋なのだが、と友人の態度に不満を持ちつつ、リーゼロッテはパミーナに挨拶をした。
「あら、ロッテ。もうはしかは治ったの?」
マルヴィンの前に駆け寄ったパミーナは、声を掛けられて仕方なく友人を振り返る。
「おかげさまでほぼ回復したわ。ところであなた、はしかはもう済ませたの?」
「まだよ。だから、すぐにおいとまするわ」
簡潔に答えてリーゼロッテから顔を背けると、パミーナはマルヴィンに向かって捲くし立てた。
「マルヴィンさん、お願いですから兄と一緒にお祭りに来て下さいな。今夜あなたにダンスを申し込みたいって子がたくさん広場で待っているんです」
両手を顔の前で組むと、祈るような仕草でパミーナは懇願する。
「もちろんあたしもそのひとりです。真っ先にマルヴィンさんにダンスを申し込みに行きますから、絶対に来て下さいね」
クレメンスを引き連れて戻ってきたサシャが「パミーナ駄目だよ。はしかが伝染るよ」と忠告すると、呆気に取られているマルヴィンを尻目にパミーナはスカートの裾を翻して廊下に飛び出す。彼女はクレメンスとすれ違いざま、ぽんと兄の肩を軽く叩いた。
「兄さん、必ずマルヴィンさんをお祭りに連れてきてね。絶対よ」
あぁ、とクレメンスが唸り声に近い返事をすると、それに満足したのかパミーナは今度こそ姿を消した。
「わぁ、こんなにリンゴを剥いてくれたんだ。ありがとう、マルヴィン。助かったよ」
皿に盛られたリンゴに目を遣り、サシャはねぎらいの言葉を掛ける。
「じゃあ、ここはもういいから、クレメンスと一緒に家に帰ってそろそろ祭に行く準備をしたらどうかな」
「いや、俺は行かない」
部屋から押しだそうとするサシャに対してマルヴィンは抵抗を見せた。
「どうせ祭にはたいして興味はないし……」
「興味がなくても行くんだ」
妹の友人とはいえ女性の部屋ということで入るのを遠慮していたクレメンスが、マルヴィンの腕を掴むと廊下に引きずり出す。
「お前を連れて行かないと、俺がパミーナたちに責められるんだ」
切羽詰まった顔でクレメンスはぼやいた。
「どうせあいつのことだから、マルヴィンさんは兄さんが必ず連れてきてくれるわって女友達に吹聴しているに決まっている。もし俺がひとりで行こうものなら、俺は誰からもダンスに誘って貰えないという制裁を加えられるんだ」
「いいじゃないか、別に」
「よくない! 聖トルステン祭で誰とも踊れなかったら、俺の人生最大の汚点となる」
「なにを大袈裟な」
眉を顰めたマルヴィンは腕を振ってクレメンスを振り切ろうとしたが、相手はそれを許さなかった。
「じゃあ、ロッテ、お大事に」
クレメンスは空いている方の手を軽く振ると、嫌がるマルヴィンを強制連行する。
「行ってらっしゃい。わたしの分まで楽しんできてね」
リンゴを囓りながら、リーゼロッテは二人を見送った。