第四話「血濡れの人形」
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霧が深くなって行く。
街は不気味な程に静かで、一人として歩く人間を見掛けなかった。今が夜であるという事もあったが、例の殺人事件の影響もあるのだろう。一人で歩くような者は勿論いない。
キアラは十分に資料を集め、あれから三日後の夜に行動に出た。
犯人は連続して女性を襲わず、何日か日を置いて女性を殺害していた。今日から張り込むのが妥当だと考えたのである。
雨上がりの宵闇は、独特な匂いがした。街燈の灯りをぼんやりと見つめていたキアラに、ふとジンが話し掛ける。
「……本当に、また殺人が起きるでしょうか? 前の殺人で、終わったって事もあり得るのでは?」
「それで奴が満足出来ていた、ならな」
「え?」
キアラは街燈の周りを飛び回る蛾を見据えたままに答える。
「読みが正しければ、犯人はまだ満足していない。満足していれば、きっとある場所に帰ろうとするからな。まだ足りないと思っているんだよ」
「足りないって……」
「きっと求めているものに辿り着けなくて必死になっているだろうな。……本当は、求めているもの自体が幻だってのに気付かないままに」
そう呟くように言った彼女の双眸は、どこか悲しげにも見えた。
“求めているもの”というのがなんなのか、それは犯人の正体を考えればすぐに分かる事であった。そして、それが幻想だと言った彼女の言葉の意味も分かったからこそ、ジンは酷く胸を痛めた。
――悲鳴が聞こえたのは、その直後だった。大通りを抜けた、大広場の方からである。
キアラは広場へ向かって駆け出した。ジンは一瞬間戸惑ったが、すぐにその後を追うのだった。
広場へ着いた時、一帯にむっと血の臭いが立ち込めていた。警吏らしき男達の死体が、三、四人地面に転がっているのが視認出来た。その中心で、誰かが立っている。
ジンは大剣に手を掛け、構えた。キアラはゆっくりとその人影に近づいて行く。
人影はキアラ達を見た途端、走り出そうとした。
「人の心臓喰って、望みの“人間”にはなれそうか?」
キアラの言葉に、人影は動きを止める。
街燈の照らしている場所に、人影は己から進んで入った。――街燈に照らされたのは、血塗れの家政婦姿の女だった。その手は真っ赤に染まり、口元も鮮血に濡れている。その女の髪には、桃色の花飾りがあった。
キアラはそこで初めて、殺された警吏の中に女性の死体が混ざっている事に気付いた。警吏が来た時、既に被害者は襲われた後だったのだろう。そして、警吏もまた皆殺しにされたのだ。増援が来ないのは、恐らく呼びに行く警吏すらも殺されたからであろう。
家政婦姿の女性からは、何の感情らしきものも感じられない。
「お前が、ルーナか?」
キアラもまた表情を変えないまま、その女性に問うた。
『町の人……では、ないようですね。あなた方は、私を追ってきたのですか? あの方々のように』
あの方々、というのは辺りに転がっている警吏達の事であろう。
キアラは警吏達の死体を一瞥してから、ルーナを再び見据えた。その表情に怒りなどはなく、ただ真っ直ぐに彼女を見るばかりである。
何も思っていないようなその表情を見て、ルーナはキアラに対して疑問を投げ掛けた。
『あなたは、死体が転がっているのに平然としているのですね』
「残念ながら、俺は普通の人間と同じじゃないようでね……見た目も、考えも。おかげで異端視されて忌み嫌われているものさ」
キアラは笑って見せた。それを見て、ルーナは俯く。
『例え異端だと言われても、“感情”があるというのは幸せな事なのですよ。本当に、人間の方々は……贅沢です』
いち早く異変に気付いたのは、ジンだった。ルーナの中で、何かが黒いモノが渦巻いているようなそんな感覚を、視覚として捉えられずとも感じ取れた。
この違和感は何だ、と彼は身震いする。人形については書物を多く読んだし、実際に何度も目にしている。だが、“こんな人形”を見たのは初めてだった。これが、彼女が――キアラが言っていた“壊すべき人形”なのだろう。
「贅沢、ねえ。――……はははっ」
キアラはルーナの言葉を反復してから、からからと笑った。それは挑発とも取れる笑いだった。ルーナは眉一つ動かさないままにキアラを見ていた。
ジンはキアラが笑った意図が読めずにいた。挑発するようなその態度は、寧ろ逆効果であるように思えたからである。
キアラが一歩踏み出した。踏み入った水たまりからぴしゃりと水が跳ねる。
「面白い事言うんだな、お前。お前こそ、まるで感情があるみたいだ」
『ふざけないで下さい。無いから、こうして得ようとしているのです』
「人間の心臓を喰えば得られると?」
『ええ。そう教えてくれた方がいました』
すぐにキアラは察した。ルーナの言った「教えてくれた方」というのは、とある宗教団体の人間だろうという事を。
彼らは、人形こそが神の器であり、人間の心臓を人形達に捧げる事によって神の解放となるという教えを説いている。それは、人間になりたいと思い始めている人形達にとっては、救いとなる教えであった。人間の心臓を喰えば、人間と同等以上のものになれるという夢のような話なのだから。
それを信じる人形は少なくない。だからこそ、こうした事件が起きている。
「信仰心があるのは結構だ。だが、それは信じるに値するものなのか? 現に、お前は五人の心臓を喰っているというのに、変わったと感じられていないんだろう?」
『……きっと、まだ足りないのです。私が人間になる為には、まだ……』
「もうやめましょう、ルーナさん!」
そう言ったのはジンだった。遂に我慢出来なくなったのだろう。横でキアラが苛ただしげに舌打ちをした。
「ノエルお嬢さんが悲しんでいます! 今ならまだ戻れる筈です! だから、一緒に――」
言いかけたジンの足元に、何かが突き刺さったのが見えた。それは、テーブルナイフであった。事件の被害者の胸に刺さっていたものと、同じものである。地面に突き刺さったそれを見て、ジンは言葉を止めてしまった。
動揺する彼に対し、キアラは口を開く。
「もう手遅れだ。分かるだろう? 人を殺して心臓を喰った時点で、人形は終わりなんだ」
「……なんで、キアラ殿には分かるんですか、そんな事……」
「――視えるからだよ」
キアラはジンを押しのけ、腰に下げた鞄から短剣を取り出し、ルーナに対峙した。
「足りないって言うなら、俺の心臓でも喰ってみるか? 普通の人間よりも異端者の心臓を喰えば、人間になれるかもしれないぞ」
『……お望みなら、取って差し上げましょう』
ルーナは太ももに括り付けていたナイフを取り出した。踏み込み、駆ける。次の瞬間、いくつものナイフが投擲された。キアラは全てのナイフを、己の短剣で薙ぎ払った。
しかし、それは罠だった。キアラが殺気を感じ取った時、ルーナは既に彼女の眼前にまで間合いを詰めていたのである。残ったナイフの一つが、キアラに向かって振り上げられた。