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秋原短編集

声のない世界

作者: 秋原かざや

 しゅーしゅーとヤカンの沸く音が聞こえる。

 彼女はじっと、そのヤカンを見つめていた。

 と、やっと気づいたのか、火を止める。

 静かになった部屋。

 1LDの1人部屋。

 そこで彼女は、生活していた。たった一人で。

 ふと、時計を見上げる。

 まだ昼にはなっていない。

 まだ、10時だ。

 日も高いし、窓から入ってくる陽だまりはとても暖かだった。

 彼女はそっと、ヤカンを手にとり、その湯でお茶を淹れる。

 部屋の中に心地よいハーブの香りが広がってゆく。

 彼女はそのハーブティを片手に、部屋の中心にある小さなクッションに腰を下ろした。

 テレビをつけようとして、リモコンに手を触れようとしたが、止めた。

 替わりに視線は、近くの棚に注がれる。

 そこには写真立てがあった。

 彼女と、もう1人の男性が、楽しげに笑っているスナップ写真。

 他愛のない、写真だった。

 彼女はお茶に口をつけずにカップをテーブルに乗せると、写真立ての側へと歩き出す。

 そっと写真立ての男の方を指でなぞる。

 優しげに愛しげに。

 けれど。

 それは神様の悪戯かそれとも?

 その手が滑って、写真立ての隣にあるオルゴールにぶつけてしまった。

 りんと音を立てて、僅かなフレーズだけ音を鳴らした。

 ほんの少しだけなのに。

 零れたのは音だけでなく。

 彼女の瞳から零れる。


 ――――涙。


 静かな部屋に時計の針の音だけが響く。

 彼女は顔を上げて、手元にあった携帯電話を手に取る。

 急いでボタンを押すが、途中でその手を止めた。

 もう一度、時計を見る。

 まだ、10時半。

 頭を振って、彼女は駆け出した。

 靴を履いて、鍵をする時間も惜しむかのように。


 走った走った走った。

 彼女の息が上がる。

 けれども、走る足を止めることはなかった。

 いつもの道を駆け巡り、いつもの改札をいつもの定期でやり過ごす。


 ――――ホームへと伸びる階段が、こんなにも遠く感じる。


 それでも彼女は走った。

 走って走って、階段を上りきった。


 あがる息。

 波打つ鼓動。

 落ち着く間もなく、彼女は顔を上げる。

 ベルがなった。

 電車がホームに滑り込んでいく。

 その電車に乗ろうとする人混みの中で、あの人を、あの写真の男を見つけた。


 彼女の声が響いた。

 けれど、彼にはまだ届かなくて。

 駆け出す。

 彼が電車に乗ってしまう前に。

 走る走る走る。

 そして、彼の左手の服の裾を掴んだ。


 ゆっくりと、彼は振り返る。

 そこにいる彼女の姿に驚いて。

 そんな彼の胸に彼女は飛び込んだ。

 そして、全てをぶちまけた。

 思っていたこと、全て。


 ――――彼に、伝えた。


 夕暮れの街。

 ゆっくりと歩く二人がいた。

 影は嬉しそうにその手を握って、長く伸びていた。

 遠くでチャルメラが聞こえる。

 子供たちの帰る声が聞こえてくる。

 二人は顔を見合わせ、微笑んだ。

 彼女のいた、部屋の扉が、開く。


 ――――夜ご飯、何にしようか?


 

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして 素敵な話ですね。彼女の走っていくシーンが印象的です。彼女が走るのは夜ではなく、朝の十時。 それが、爽やかな雰囲気を醸しだしていて良いと思いました。
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