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第八話

「一ノ瀬君。一緒に帰ろ!」


 その声は、教室に漂う消えかけのチョークの粉に混じって届いた。

 後ろから肩を軽く叩かれたような気がして、僕は手を止めた。机の上には帰り支度として並べた教科書の山。ページの端が、放課後の弱い風に揺れた。


 振り向くと、霧崎さんが立っていた。窓の方から指す夕陽がちょうど彼女の髪の先を照らして、細い金のように見えた。


「まあ、いいですよ。」


 声がほんの少し遅れて胸に響いた。

 正直なところを言えば、今日はいつも通り一人で帰るつもりだった。

 いや、そもそも誰かと帰るという発想自体が僕にはなかった。

 だが、これも自分のことを理解するきっかけになるかもしれない。


「本当!?じゃあすぐに準備するね!」


 その明るさは、午後の教室に残った陰りを一瞬押しのけたように感じた。


 彼女は浮足立つような足取りで席に戻り、鞄を開けた。中に手を入れて、ノートや筆箱を慣れた手つきで放り込んでいく。そのたびに、ファスナーの金属がかすかな音を立てる。


 僕はというと、手にしたままの教科書を鞄にしまいながら考えていた。

 ――どうして、彼女は僕なんかを誘うんだろう。


 彼女ほどの社交性があれば、放課後に一緒に帰る友人など、選びきれないほどいるだろうに。


 人と帰るなんていつ以来だろう。いや、もしかしたら人生で初めてなのかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだ時、胸の奥にわずかにざらついた不安が生まれた。


「それじゃあ行こうか!」


 霧崎さんはいつの間にか教室の入口に立っていた。

 廊下から吹き込む風にスカートがふわりと揺れた。


 僕は小さく息を吐き、彼女の後ろに続いた。


 夕方の廊下は、昼の熱をすっかり手放していて、少しひんやりとしていた。窓から吹き込む風が、カーテンの端を静かに揺らす。


 校舎を出ると、夕陽が目に刺さり、僕は思わず目を細める。

 ふと横を見ると、彼女も同じように目を細めていた。


 校門を通り、駅までの道を歩いていく。


「ところでさ、一ノ瀬君って自転車通学じゃないよね?」


 歩きながら、霧崎さんが何気ない口調で言った。

 僕は顔を横に向けずに答える。


「違います。」


 霧崎さんは「そっか」と小さくつぶやいた。


 僕は生まれてから一度も自転車に乗ったことがない、という事実は、言うほどのことでもないだろう。


 しばらく歩くと、通学路の並木の葉が夕陽に染まっており、まるで小さな火が点々と燃えているように見えた。

 道路の端を自転車が通り過る。


 ……会話が続かない。


 霧崎さん視線を前に向けたまま歩いている。気まずさというほどではないが、沈黙がじわじわと広がっていく。


 靴音だけが、アスファルトの上で一定のリズムを刻んでいた。


(なにか話した方がいいか…)


 頭の中でいくつか言葉を組み立ててみるが、どれも取ってつけたようで、口に出す前から色あせている。僕は呼吸をひとつ整え、意を決して口を開こうとした。その瞬間だった。


「ねえ、一ノ瀬君。」


 霧崎さんの声が、夕方の空気に静かに落ちた。


「一ノ瀬君はさ。なんで心霊現象部に入ってくれたの?」


 その問いは、本当に自然な調子で発せられた。


 でも、僕の胸の奥を突くような深さがあった。


 心霊現象部—―あの教室の静けさ、古い本棚、埃っぽい匂いが、本の数秒の間に鮮明に思い出された。


 だが、自分でもよくわからないのだ。

 何故、僕はあの部活を選んだのか。

 僕もそれを知りたいのだ。


 僕は少しだけ歩く速度を落とし、答えを探すように言葉を探した。


「…この部活が、一番、人が少なかったので。」


 そう答えた後、自分の声がやけに乾いて聞こえた。


 理由としては確かに間違っていない。

 確かに、そういう理由で選んだ気がする。

 だが、それではない気がする。

 その「何か」が、まだ僕自身の外側に霧のように漂っていて、言葉にする前に指の間から零れ落ちてしまう。


 霧崎さんは、僕の答えを否定するでも肯定するでもなく、前を向いたまま「ふうん」とつぶやいた。


 その声には、単なる興味とも違う、少しだけ柔らかい温度があった。


 通学路の途中、蛍光灯の明かりが漏れる小さな自動販売機があった。

 午後の光が薄れていくにつれ、その白い光が歩道の一角だけを不自然に明るくしている。

 そこを通ると、僕たち二人の影が伸びて、重なったり離れたりを繰り返した。


 しばらくして、彼女が足をほんの少しだけゆるめた。

 その気配に気づいたころ、問いは突然切り出された。


「一ノ瀬君って、なんでそんなに人と関わりたがらないの?」


 その問いは、僕の胸の奥を突きさし、言い逃れできないところを確実に押してきた


 夕焼けの色が薄まり始め、街灯の点灯がゆっくりと始まる。

 その間を流れる空気は、昼でも夜でもない、どこにも属していない時間の匂いがした。


 人と関わりたがらない理由。

 それは、僕自身が最も触れたくない部分だ。

 だからこそ、彼女がそこに手を伸ばしたことが不思議で、少しだけ怖くもあった。


「それは、…人と関わりたがらないというよりも、複数人でいるよりも一人でいるほうが好きだからです。」


 言いながら、自分の声が自分の意思を追い越していくような妙な感覚があった。


 歩道の脇で風に揺れる電線が、細く震える音を立てた。

 その震えに合わせるように、胸の奥もざわつく。


 気づけば指先が鞄の持ち手を強く握っていた。

 その沈黙を破ったのは、霧崎さんの小さな息の音。


「そっか……」


 その声は、意外なほどやさしかった。

 責めるでもなく、驚くでもなく、ただその言葉を淡々と受け取る。


 駅の方向に目を向けると、遠くで電車の進む低い轟音がした。

 その響きが、僕の言葉の終わりをそっと区切るようにも思えた。


 霧崎さんは少し立ち止まり、靴先でアスファルトの小石を軽く蹴った。

 その動きは、何かを言おうとしている人特有の、ためらう前触れのようだった。


 そして、彼女はゆっくりと顔を挙げた。

 目に宿したものは、先ほどまでとは少し違う温度だった。


「ねえ、一ノ瀬君。……実はね、私さ――」


 その先の言葉を聞く前に、僕の胸の奥で何かが静かに揺れ始めた。


「私、昔は独りぼっちだったの。」


 その言葉は、少し震えていて、どこか壊れやすい硝子のようだった。

 僕は思わず瞬きをした。霧崎さんは、遠いどこかを見つめている。

 視線の先には何もないのに、まるでそこに何かがいるように、ただただ静かに見つめている。


「…そうなんですか?」


 問い返す声は、自分でも驚くほど小さかった。


「うん。小学生の頃、私は誰とも会話をすることができなかった。怖かったの。人と関わることが。そして当然、何も話さない私に話しかける人なんていなかった。」


 語られる言葉は淡々としているのに、胸の奥の方に、湿った冷たさだけがゆっくりしみ込んでくる。


 今の霧崎さんからは想像できない。彼女といえば、いつも明るくて、何事もとりあえず挑んでみるような人だ。僕がどれだけ彼女のことを拒んでも、毎日のように話しかけてくる根気と明るさを持っている。


 普通なら、一度拒絶された時点で興味をなくすはずだ。

 僕ならきっと、そうする。


「もちろん、そう学校ではいつも一人だった。先生がペアを作りましょうっていうときは、いつも先生とだった。」


 霧崎さんは、まるで古いアルバムを静かにめくるように昔のことを語る。


「でもね、そんなとき、一人の男の子が私の前に現れたの。彼は私にとってヒーローだった。何も言葉を発さない私にも普通に接してくれて、普通に遊んでくれた。彼が、私に人と話せるようになるきっかけを作ってくれたの。」


 その瞬間、霧崎さんの表情が緩んだ。

 そのほのかな微笑みは、冬の曇天の隙間から差し込む柔らかい光のようで、その男の子が彼女にとってどれほど大きな存在だったのか。

 言葉よりも表情が分かりやすく語っていた。


 僕にはただ、その横顔を見つめていた。


「でも、彼は、私の前から姿を消した。何も言わずに、私の元を離れていった。その時の絶望は今でも忘れられない。そうして、誰も信じることができなくなった私は、家に引きこもるようになったの。」


 空気が重くなったような気がした。

 霧崎さんの瞳の奥にあるものは、笑顔の光とは別の色をしている。

 語られない部分が、言葉の端々に重く残っている。


 彼が消えた――それは、ただの別れではない。

 朝にはあったものが夜にはもうないことを知ることは、信頼という板で組まれた橋が、一夜にして崩れるようなものだ。


「…」


 僕は言葉を出せなかった。

 もし、自分の大切な誰かが、なんの断りもなく姿を消したらと想像すると、僕でも胸が痛む。言葉は生まれず、ただ寒さだけが広がるのだ。


「そして彼がいなくなって一か月経ったころ、ふと私は夜の公園に行ったの。そしたら…そこで難を見たと思う?」


 その夜、という語り串にはかすかな震えが混じっている。


「もしかして……その()ですか?」


 その問いに、霧崎さんは首を横に振った。


「そうだったら、良かったんだけどね。…私が見たのは、幽霊だった。」


 幽霊、という言葉が口をついて出ると、周囲の時間が一瞬ずれるような気がした。

 僕は無意識に遠い記憶の断片を探る――そうだ、秋月先輩が、彼女が一度幽霊を見たって言っていたような。けれど実際に「幽霊」と聞くと少し現実味が薄く感じる。


「あ!嘘だーって顔してる!!本当だよ!!」


「そんなことないですよ。」


 いつもの霧崎さんの声色に、僕は少し安心する。

 やはりこの人は元気でいる方が似合っている。


「本当かなぁ…まあいいや!」


 霧崎さんはいたずらっぽく笑い、話をつづけた。


「でね、その幽霊は人の姿をしていたの。」


「人の姿…」


 幽霊といってもその種類は無数に存在する。

 人の姿であったり、そうでなかったり。

 日本では一般的に人の姿のものが古くからみられる。



「でね、その幽霊の最初の印象は、とても暗くて、ちゃんと幽霊という感じだった。でもね、その人が喋りだすと、途端に明るくなったの。」


 暗そうな人が喋ったとたんに明るくなる。まるで何を言っているのかが分からない。幽霊と言えば、一般的に人を驚かす存在。だが、その幽霊が明るいというのは一体どういうことなのだろうか。


 だが、霧崎さんの声には落ち着きがあり、事実をただ淡々と述べている。


「で、その幽霊は何も喋らない私に対してでも喋り続けた。」


 普通なら怯えて逃げる場面を、彼女はただ聞いていた。もしかしたら、彼女は幽霊だと信じていなかったのかもしれない。


「そもそも、それが幽霊だってどうやってわかったんですか?」


 彼女は少し笑った。笑いは嘲笑でもなく、むしろ可笑しさと驚きの混ざった、子供じみた無邪気さに近い。


「それはね~。話の途中で教えてくれたの。僕は幽霊だって!」


 教えられた――という表現は、驚きよりも静かな受け入れを示す。

 出会って幽霊だと打ち明けられるその奇妙さ。

 まるで、怖がらせるために名乗ったのではなく、ただ事実を伝えたかっただけかのように感じる。


「まるで、()が私のもとに戻ってきてくれたような、そんな感覚だった。だから、私はその幽霊にすぐに心を開いた。そして、短い時間だったけれどいろいろなことを話したの。幽霊の生前についてや、私の悩みについてとかね。」


 先ほど、()について話していた時のように、楽しそうに霧崎さんは話している。


「でも、とうとう別れの時間が来てしまったの。そして、幽霊は私に、とても大切なものをくれた。」


「…一体何をもらったんですか?」


 返答に、少し好奇心があふれる。


 霧崎さんはこちらを見て、目尻に小さなしわを寄せて笑った。



「それはね、勇気!!」


『勇気』と言われた瞬間、僕の内側でその言葉が何度も繰り返された。勇気とは触れもしない、測れもしない抽象的なものだ。


「信じられないだろうけど、幽霊さんは私に勇気そのものをくれたの。幽霊さんによると、人には魂というものがあって、それには人間の感情が存在しているんだって。幽霊さんは、幽霊さん自身の魂から勇気を取り出して、私の魂にそれを入れた。」


 その説明は確かに現実離れしている。魂から何かを取り出し、誰かの魂に入れる――言葉にすれば寓話か迷信の一節だ。だが、彼女の語り口には迷いがない。目の奥にある確信がそれを物語っている。


「私も何が何だかわからないんだからね?」


 どんなに奇妙な体験でも、人はそれを誰かに伝えることで確かめているように見えた。


「そこからは何も覚えていないの。その勇気をもらった時に気絶しちゃったみたいで、気づいたら私は交番にいた。幽霊さんもいなくなっていて、私はすべてが夢だったと思った。でもね、あれは夢なんかじゃなかった。」


「どうしてそう思ったんですか?」


「それはね、私は人に話しかけることができるようになっていたの。」


 この一言に、彼女の過去と今の間にあるものがはっきりと分かった。言葉が自然とこぼれ、声が通り、誰かと目を合わせて笑うことができるようになった――それは、世界が元の色を取り戻したということだ。


「言葉がつまらずに出て、大きな声で話すこともできて、次第に友達もできていった。私は、()と幽霊さんのおかげで変わることが出来たの。だからね、次が誰かを助けたいの。」


 彼女の目に宿った光は、先ほどの陰りとは違う、柔らかく、温度のある光だった。彼女の物語は非現実的ではあるが、彼女が変わったというのは事実だ。


「それは、とても良い目標ですね。」


 彼女の口から溢れた「人を助けたい」という言葉。過去の痛みを抱えていた人が、他者に向けて豊かさを分け与えようとするその姿は、とても尊いものだ。


「うん!」


 その軽やかな肯定には、子供のような純粋さが混じっていて、聞いているだけで胸の中が温かくなったような気がする。先ほどまでの陰は、もはや気配を見せていない。


 しばらくして、彼女はふと別のことを思い出したように言った。


「ところでさ、一ノ瀬君っていつも敬語だよね。」


 その指摘は、僕にとっては当たり前のことだ。相手との距離を測り、必要なだけの距離を保つために装う。幼少からの習慣と言って良いだろう。敬語を使うことで、心をあまり見せずに済む。僕にとって、それは安定であり、逃げ道でもあった。


「まあ、そうですけど。それが何か?」


「じゃあ私の前ではタメ口で話してよ!」


 タメ口。言葉自体は短いが、その奥にある真意というのはとても深い。彼女が僕に求めているのは、距離の短縮だった。敬語という壁がある限り、本当の意味での近さは訪れることは無い。彼女はそれを望んでいるのだ。


 僕は心のどこかで驚いた。自分の内側にいつの間にか育っていた慎重さが、突然人と近づくことを許したのだ。タメ口は、相手に対する信頼を表現する一種の形である。


 そして、心のどこかでそれを肯定している。僕にとって、それは慣れない運動のようで、ぎこちなく、緊張を作った。


「…わかりました。それじゃあこれから霧崎さんに対してだけはタメ口で喋るように心がけます。」


 言葉にしてみれば、思ったほど難しいことではない。ただし、それは約束であり、取引でもあり、そして自分への挑戦の始まりでもあった。


 彼女の顔に、驚きと喜びが一度に顔に表れた。


「…本当に?」


「本当ですよ。なぜそんなに不思議がるんですか。」


 彼女は、その反応本気で喜んでいるのだとすぐに分かった。僕のことが、彼女にとっては奇跡のように映ったのだろうか。


「いやだって…まさか一ノ瀬君が快諾するとは思わなくて。」


 彼女の顔に浮かぶ驚きは、僕にとってどこか既視感があった。


「人は…変わるということですよ。」


 その言葉を口にしたとき、自分でもそれが誇張であることに気づいた。変わる、というのは瞬間的なことでもなく、劇的なものでもない。だが、今日のほんの些細な一歩が、やがて線になり、画になり、人を変えていくのだ。


「まあいいや!改めて、これからもよろしくね!一ノ瀬君!」


 いつの間にか、僕たちは駅についていた。

 二人で歩き始めたときは、世界が二人だけのように感じられたのに、駅には人波が押し寄せ、色と音の小さな洪水が生まれていた。


「よろしくお願いします。」


 春の風が、改札の上を横切って冷たく吹いた。冷たさにの中に含まれる澄んだ空気が、頬をさらりと撫でる。


「ところでさ、一ノ瀬君って最寄駅どこなの?」


「浦和駅です。」


「え!一緒じゃん!」


 霧崎さんの声が明るく跳ねる。まさか彼女と同じ最寄り駅だとは思っていなかった。思えば、ホームや改札で彼女を見かける機会が多かったのは、これが理由だったのかもしれない。


「じゃあ、一緒に行きますか。」


「うん!」


 僕たちは足取りを揃え、改札前の人混みを抜けていく。自動改札のピッという音、カードを手に取った時の感触、改札脇の看板の反射—―すべてが鮮明に聞こえてくる。


 ホームで電車を待っていると、誰かの笑い声、母親の小さな叱責、広告の派手な文字。電車が近づくと、遠くから低い大きな音がやってきて、空気が振動する。その振動が心地よくもあった。


 電車に乗ると、車内はいつも通り雑然としていた。見知らぬ人々の会話が小さな粒となって舞い、耳に自然と入ってくる。僕たちは同じ車両の片隅に並び、時折窓の外に視線を落とす。

 景色の向こうに見える住宅の屋根、信号の赤と青、川面に反射する町の光—―そうした小さなものが、無意識のうちに心を落ち着かせる。


 最寄り駅につけば、流れは分岐する。改札を抜けると、日常の匂いが帰ってくる。そして、人々はそれぞれの方向へ吸い込まれるように歩いていく。


「それじゃあ、私こっちだから。また明日!」


 彼女は、いつもの明るさで別れを告げた。


「……」


 言葉が出ない。喉に何かがまとわりついていて、すぐにはほどけない。いざその瞬間になると、慣れない自分の声がどこか遠慮深く、ぎこちない。


「どうしたの?一ノ瀬君。」


 心配そうにのぞき込む彼女の目は優しい。


「本当に大丈夫?」


 さらに一歩踏み込むように、彼女の声が重なる。


「……またっ、明日っ!」


 ぎこちないながらも、どうにか僕は笑顔を作って返した。タメ口の約束を守ろうとする意志と、慣れない自分の間で声が震えた。顔は熱くなり、視線はすぐに地面へ落ちる。


「また明日!!」


 彼女はそう言うと、ふうっと軽く手を振り、足早に角を曲がっていった。

 後姿は、どこか子供の用で、でもどこか強さを持っている。僕はその背中が見えなくなるまで、ゆっくりとした呼吸を繰り返した。

 しばらくすると、周囲の雑踏が耳に入ってきた。だが、僕の中では静かな余韻が鳴っていた。

 そして、その余韻は一つの言葉に収束した。


「勇気か……」


 ふと口から洩れたその言葉は軽かった。勇気という言葉が、きょう一日のあらゆる些細なやり取りをつなぎ合わせるように感じられた。

 僕は人と関わることを避けてきたのではなく、関わるための勇気が足りなかったのかもしれない。

 それを隠すために、人と関わるのを避け、敬語という殻を被ってきたのかもしれない。

 殻は便利だ。外の世界から身を守ることが出来る。だが同時に、殻のせいで手を差し伸べることも、差し伸べられることも難しくなる。


 今日の僕は、ほんのわずかだが、その殻に亀裂を入れた。小さな約束、ぎこちないタメ口、彼女の過去の話—―どれも取るに足らないようで、確実に亀裂を入れていた。


 夜風が顔に触れる。駅前の明かりが柔らかく揺れ、家路へと人々を運ぶ。僕はその流れに身をゆだねながら、胸の奥に生まれた小さな光を握りしめるように歩き出した。

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