第六話
私は幼いころ、とても静かだった。
まるで、午後の校舎の裏にできる影のようで、誰の目にも触れず
ただそこにいるだけの存在だった。
教室ではいろんな子の笑い声が弾んでいるというのに、私の席の周りだけ空気が薄くなっているみたいで、声を出そうとすると喉の奥がひゅっと縮んだ。
誰とも会話を交わさない――そう言うと少し誇張しているように聞こえるかもしれない。けれど当時の私は、本当に、必要最低限の言葉すら飲み込んでしまうような子供だった。名前を呼ばれ、返事をするだけでも心臓がバクバクと音を立てた。
知らない人と話すのが、何よりも怖かった。
言葉というものが、自分の手を離れた瞬間にどこかへ落ちて行ってしまい、拾い上げようとしても手からこぼれていく。
だから私は、言葉を発するのをやめた。
けれど――そんな私の殻をやすやすと破ってしまう人に、ある日突然であった。
それは学校の放課後、西日が校舎の窓に反射して、公園の砂場まで金色の光を帯びている時間だった。
その日のことは鮮明に覚えている。
私はいつものように、公園の隅のブランコに腰を掛けていた。ブランコの鎖がきい、と風に揺れて音を立てるたび、胸の奥までその音が刺さるような気がした。
目線の先では、何やら追いかけっこをしている同級生。
みんなの輪の中に入りたいのに、一歩を踏み出すことができない。
私に声をかける勇気など微塵もなかった。
寂しさを噛みしめ、私はうつむく。
すると、小さな影が、砂を踏む音とともに私の前で止まった。
「何してるの?」
突然の声に、心臓が跳ねた。
顔を上げると、同じくらいの背丈の男の子が私の方をのぞき込んでいた。
「え…?」
声が裏返ったのは驚いたからか、それとも久しぶりに話しかけられたからか、どちらか分からない。
「べ、別に何も…」
弱々しい声でそう答えると、彼は迷うことなくさらに一歩近づいてきた。
「じゃあなんでブランコに座っているの?」
間髪入れずに投げかけられる言葉。
そのテンポは、私の世界とはまるで違っていた。
「な、なんとなく…」
それが私にとっての精一杯の返事だった。
「ふーん…暇なら僕と遊ばない?」
風が止まったかのように感じられた。
驚きに呼吸が追い付かず、「え…?」という声だけが漏れた。
「僕もちょうど暇でさ、することなかったんだよね。で、遊んでくれるの?」
彼の言葉は軽やかで、何でもないことのように聞こえるかもしれない。けれど、当時の私にとっては、とてつもない衝撃だった。
「う、うん。いいよ…。」
そう返事をした瞬間、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
それからというもの、放課後になると私は自然と公園へ足が向くようになった。
陽が少し傾き、校庭の隅に長い影が伸び始めるころ、彼はいつもどこからともなく現れた。砂場の向こうから走ってくる日もあれば、雲を見上げながらゆっくりと歩いてくる日もあった。私は彼を見つけるたびに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
遊んだ内容なんて関係ない。
鬼ごっこだったり、木の枝で地面に絵をかいたり、ただ並んで座って話をしたり。どんな時間も私にとっては新鮮だった。
私は相変わらず自分から会話を切り出すことはできなかったが、彼はそんな私の沈黙を「気まずいもの」として扱うことは一度もなかった。
まるで、無言でいることさえも遊びのひとつみたいに、彼は受け止めてくれていた。
彼の言葉の一つひとつが、固く閉じていた私の心にゆっくりと日々を入れていった。
不思議なことに、私は彼の名前も、どこの学校なのかも知らなかった。
気づけば、彼のことを何も知らないまま、ただ一緒に過ごす時間だけが積み重なっていた。
それなのに、彼の隣にいる時間は、誰よりも安心する場所だった。
私が少しずつ、自分から話せるようになっていったのは――間違いなく彼のおかげだ。
だが、ある日を境に彼は公園へ来なくなった。
その日の公園は、いつもより風が強かった。
砂場の砂がさらさらと流され、ブランコの鎖が軋む音だけが響いていた。
私はベンチに座り、足の先で小石を転がしながら彼が姿を見せるのをただ待っていた。
けれど、彼が結局来ることはなかった。
翌日も、その次の日も、放課後になると私は公園へすぐに向かった。
夕焼けが空を赤く染めるころまで、ずっと同じベンチに座っていた。
風の音だけが大きくなり、影は長く伸び、陽はゆっくりと沈んでいく。
数週間、そんな日が続いた。
気づけば、私は、また元の私に戻っていた。
人の視線を怖がり、声をかけられると息が詰まるあの頃の私に。
彼は、私にとって世界でいちばん大事な存在だった。
名前も知らなかったけれど、笑い方も、喋り方も、全部心に沁みついていて、忘れるなんてことは到底できなかった。
なのに、彼は何も言わず、風が止むようにいなくなってしまった。
ただ静かに――でも確実に。
胸の奥を強く握られたような痛みがずっと残っていた。
裏切られた、という言葉すら追い付かないほど、ぽっかりと大きな穴が開いた。
もう、私に信じられる人などいなくなっていた。
学校へ足が向かず、気づけば家に閉じこもるようになった。
昼間のリビングは広くて、時計の秒針だけが響いていた。
両親は仕事で帰りが遅い。
私のそばにいてくれたのは、
本当に――彼だけだった。
その”たった一人”がいなくなった瞬間、私の世界から色は全部消えていた。
生きたいとか、頑張りたいとか、そんな気持ちさえ、思い出せなくなっていた。




