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第一話

「サッカー部に入りませんかー!」


 体育館の高い天井に、大きな声が反響を残した。

 その声は明るく、鈍い振動となって体の芯に伝わってくる。


 今日は部活紹介の日だ。


「そこの君!体調が悪そうだがご飯はちゃんと食べているのか?ご飯を食べて、適度な運動をしないと、俺みたいにはなれないぞ?どうだ?ボディービル部に入って己の肉体と向き合ってみないか!?」


 目の前に立つのは大きな体格をした男。服の上からでも筋肉の盛り上がりが分かる。彼は自分の肉体を誇示するように次々とポーズをとり、汗が光るたびに周囲の空気がざわつく。


「遠慮しておきます。」


 僕の声は小さく、周囲の騒音に押しつぶされそうになりながらも、はっきりと拒否の意味を込める。


「そうか!だが、適度な運動はするのだぞ!」


「心遣いありがとうございます。」


 彼は礼儀正しいが、どこか表面的だ。


 短い対応のやり取りはやがて流れていき、人混みの中へと飲み込まれていく。

 僕はその熱気に満ちた場所から距離を取るようにして、壁際の冷たい床に腰を下ろした。

 床の冷たさがジワリと伝わり、周りの騒音とは別の温度が僕の身体を包み込む。


 人が多いところに行くと、どうしても気分が悪くなってしまう。

 胸がざわつき、視界の端に小さな影ができるような居心地の悪さが生まれるのだ。


 それに加えて、僕は人と深く関わることを避けてきた。人が近づくたびに、関係は複雑な分かれを見せる。だから、僕はできる限り一人でいるように努めているのだ。


 だが、世の中には他人のパーソナルスペースを躊躇なく横切る人がいる。先ほどのボディービル部の先輩だってその典型だ。

 彼らは善意の名のもとに接触し、他人の中に入り込もうとする。

 もちろん、それは勧誘をしているだけだから仕方がないと思うかもしれない。


 だが、中学時代に出会った一人の同級生は、僕にとってとても面倒な人だった。


 彼はクラスの人気者で、いつも周囲を明るくするタイプ。皆が彼を好いた。僕以外は。

 中学時代の僕は今と同じく孤独でいることを選び、それが不満だと一度も思ったことは無い。一人だけど、静かな時間が好きだったのだ。


 だが彼は、そんな僕に毎日話しかけてきた。些細な質問を次々と繰り返し、日に日にしつこさを増していった。


「一ノ瀬君はどう思う?」


「一ノ瀬君は何がしたいとかある?」


「一ノ瀬君は…」


 問いそのものは無害かもしれない。しかし、頻度が増えるとそれはとても面倒になるのだ。

 加えて、彼が僕に近づくたびに、陰湿な連中は僕を標的にする理由を探し出し、上履きを隠したり、ノートを捨てたりという行為へと発展した。


 そうした嫌がらせは正直なところ、面倒だが対処可能ではあった。

 けれど、彼のしつこさはそれ以上で、より根深く僕の神経を摩耗させた。


 僕は人と関わると、面倒なことに発展する確率が高いと学んだ。彼の行動はまさに北風と太陽だったのだ。


 中学三年の秋、受験を控えた時期に彼のアプローチは度合いを上げた。

 多分、教師たちへのアピールや評価のために動いていたのだろう。

 それか、僕のような存在をクラスに馴染ませようとする善意か、はたまた単に人気維持の策略か。


 ある日の放課後、帰路で偶然彼と出くわした。いや、もしかしたら偶然ではなかったのかもしれない。

 いつも通り彼は僕に話しかけてきた。これまで無視をし続けてきた僕だったが、その日だけは違った。


 彼が受験生であるということは、僕も受験生なのだ。

 受験のストレスが積み重なり、そして最終的に彼の言葉が僕の中で引き金となった。


 とうとう僕は、彼に初めて言葉をぶつけた。


「話しかけてくること自体は構わない。僕は無視をするだけだから。大抵の人はそれで離れていく。だが、君はしつこすぎる。僕は君に一度でも話しかけてほしいと言ったか?僕は好んで一人でいるんだ。だからもう、僕には話しかけてこないでくれ。」


 言い終えると、僕は踵を返して歩き去った。背後で彼がどんな表情をしていたのかは分からない。振り返ることもなく、その日は家に帰った。

 そして、それから彼が僕に話しかけてくることは無くなった。


 彼の真意が何だったのかは今でもわからない。

 だが、望まれない押しつけは、受ける側にとっては迷惑以外の何物でもないのだ。

 たとえそれが善意であっても、相手の内面を無視した干渉は摩擦を生む。


 これが、僕が人と関わることを嫌う一つの理由だ。


「はあ。学校は本当に疲れる。」


 僕は床に沈むように深いため息をついた。騒音の余韻が少しずつ遠のき、耳に残るのは自分の呼吸だけだ。周囲の声がだんだんとぼやけ、時間がゆっくりに感じられる。


 時計を見ると、針は十一時二十分を指している。


「この時間はいつ終わるのだろうか。」


 HRの時間に、席が一番後ろだったせいか、担任の声は遠く、終わりの時間を聞き逃してしまった。


 周りのほとんどはグループを形成しており、話し声や笑い声が輪を成している。対照的に、僕は独りで体育館の端に座っている。


 当然ながら、僕に時間を教えてくれる人などはいない。

 そもそも、聞く気もないけれど。


「それにしても、なぜこの学校は部活だけは強制参加なんだ…」


 都会の高校を選んだのは、新しい場所で、誰も自分のことを知らない環境が欲しかったからだ。

 地元を離れる決断は、自由を求める一歩だった。

 しかし、部活が強制なのは想定外だった。もう少し事前に調べておけばよかったという後悔が、胸の奥に芽生える。


 とはいえ、仕方がない。幽霊部員として名前だけを残しておけば、負担は最小限で済むだろう。一応部活をいくつか見て回ったが、僕の興味を引くものは一つもなかった。


「終わるまでここで本でも読んでいるか。」


 ブレザーのポケットから取り出した本を手で押さえ、栞の位置を確かめる。

 ページを開くと、柔らかな紙の匂いが喉の奥に沁みる。文字を追う行為は、外界の雑音を薄くしてくれる。時間の余白を埋めるのに本は最適だ。


 人の波が静かに途切れ、僕の周囲には小さな孤島のような静寂が訪れる。ページをめくる指の感触だけが、僕がここに存在する証になった。


 そうして本を読んでいると、僕の体に影が出来た。


 誰かが僕の前に立ったのだろう。だが、僕は顔を上げない。読んでいる行の終わりを確かめる方が、面倒ごとに反応するより安全だと無意識に思ったのだ。


 すると、その影の人物が話しかけてきた。

 柔らかな声が、紙の匂いと混ざって耳に入る。その声はページの余白を震わせ、僕に質問をする。


「ねえ。なに読んでるの?」


 顔を上げると、そこにはクラスメイトの霧崎さんが立っていた。

 日差しが体育館の窓を通して薄く差し込み、そのせいか彼女の輪郭はどこか均整が取れて見えた。


 髪が揺れるその動作には無駄がない。

 教室で遠目に見えた顔が、近くで見ると妙に生々しかった。


 僕が名前を覚えているなんて意外だと思うかもしれないが、一応クラスメイトの名前はある程度覚えている。


 人の名前は目次のようで、僕は必要最低限の情報を保存するようにしている。

 だから彼女の名前も、記憶の棚に薄く張られているのだ。


 だが、なぜ彼女は僕に話しかけてきたのだろうか。


 理由を探すと余計に疲れる。

 動機の有無を詮索すること自体が、僕にとっては小さな労働なのだ。だから最初は、彼女の行為が自分に向けられたものだとは考えないようにしていた。


 僕は視線を本へと戻し、ページをめくった。


 紙の端が指に触れる感覚だけが現実だ。活字の列が胸の奥に静かに入っていき、彼女の声も遠くに沈むはずだった。


 これで彼女も僕に話しかけてくることは無くなるだろう。


 そう思っていたが、一向にその影はなくならない。


 ページをめくる指先が少しぎこちなくなる。影はそこにとどまり、呼吸とともに僕の周囲に温度を残す。


「なに、読んでるの?」


 霧崎さんがもう一度問いかけてきた。

 同じ問いの反復は、質問ではなくたちまち催促になる。無視していれば収まるはずの小さな波が、繰り返されることで岸を侵食しているように感じられる。


 実に、面倒だ。


 心の中でつぶやく短い言葉は、決して外には出さない。怒りや苛立ちをわざわざ言葉にすることは何の利益も生まないからだ。


 だが、このタイプの人間は返事をしないと梃子でも動こうとしないだろう。


 彼女の影の中に執拗さを感じる。問い続けることでしか満たされない人間がいることを僕は知っている。無反応はひとまず有効だが、限界がある。


「本。」


「そう。」


 そうしてお互い沈黙が続く。

 簡潔な応答が場を一度は沈めるが、無言は長引くほどに圧を増す。彼女の息遣いと照明のざわめきだけがそれらを補う。


 これで彼女も僕の前から離れるだろう。

 だが、意に反して彼女は一歩も引かなかった。

 むしろ、進んできた。


「どんな内容?」


 この世には、相手との境界線を軽々と越えてくる人がいる。そういう人は一度でも反応を得ることが出来たなら、なぜかさらに詰めよってくるのだ。


「……」


 しくじった。やはり、無視をするべきだった。


 僕は口を堅く閉じ、ページをさらにめくる。そうすることで、彼女から自分を守る。

 だが、その反応は彼女の好奇心に油を注ぐ。


「どんな、内容?」


 僕に、一体何の用があるのだろうか。


 そこで僕はやっと気づいた。


 霧崎さんも『彼』と同じタイプの人間なのだと。

 中学時代の記憶がここでざわりと顔を出す。だが、彼女は彼以上だ。彼だって時間を置いてからもう一度話しかけてくる程度で、ここまで強引ではなかった。


「……ミステリー。」


「へえ。」


 僕が高校に入学してから、彼女と話すのは今日が初めてだ。

 それだけに、動機の不在が妙に目につく。無根拠な親しみは時に不気味に見える。


「どの部活に入るか決めた?」


 …本当にこの人は何なのだろうか。問いは具体へと移り、僕は応じるかどうかの小さな選択肢を迫られる。


 僕は、あきらめて返事をすることにした。


 無駄な消耗を避けるため、最小限の言葉で折り合いをつける。それが場の流れを止めるための僕の小さな抵抗だった。


「…特に何も。」


「ふうん。」


 彼女は静かに、僕の前に立っている。

 沈黙の中で、彼女の存在は簡潔に、しかし消えずに居続ける。


 このままこの態度を続けても、おそらく彼女は僕の下から離れないだろう。

 頑なさがこの状況を停滞させるだけだと悟り、僕は別の方法で会話を終えることにした。


 僕は、彼女に聞くことにした。

 あえて問い返すことで、会話を終わらせる道が見えるかもしれない。僕は本を閉じ、顔を上げた。


「なぜ、僕に話しかけてくるのですか?」


 僕が彼女にそう質問をすると、彼女はきょとんとした顔で僕の顔を見た。

 真正面から無垢な驚きが返る。問いの刃が、あっさりと丸められたような気分になる。


 なぜそのような顔をするのかが全く理解できない。彼女の方から話しかけてきたのだから、何かしら目的があるはずだ。


「いや、なんでだろう。私もわからないけど、なんか懐かしい感じがして。」


 懐かしい?


 その一言は曖昧で、理由を求める僕には受け取りにくい。記憶を手探りするが、彼女をこの高校以外で見た覚えはない。

 ただの一度もだ。それなのに懐かしいというのは、難癖をつけているようにしか思えない。


「それはおそらく他人の空似というやつだと思います。僕は、あなたのことはクラスメイトであるということ以外何も知らないので。それでは、僕は本に集中したいので。さようなら。」


 そして僕は本に再び視線を落とす。


 言い切ることで場を収めようとしたのだ。ページの余白がいつもよりまぶしく、そこに沈み込むことで自分の領域を取り戻しているような気がした。


 僕が彼女のことを覚えていないだけだと思うかもしれないが、僕は今まで出会った人の名前と顔は大抵覚えている。僕が単に人と関わることが極端に少ないからだ。だが、その中で霧崎という名前の人物は、絶対にいなかった。


「ねえ。一緒に心霊現象部に入らない?」


「…はあ??」


 自分でも驚くほどの大きな声を出してしまった。普段はこんな大きな声を出さないが、それほど彼女の質問は意味が分からなかった。


 声が場の空気を刺す。彼女の提案は非日常の扉を不用意に叩いたように響いた。


 思わず僕は視線を彼女に向ける。

 先ほど彼女を拒絶したばかりだが、そんなことも気にも留めないような笑みを顔に浮かべている。僕から反応を得ることが出来たことがうれしいのだろうか。


「入りたい部活無いんでしょ?でも、さっき先生が言ってたと思うけど、部活は強制参加だから。で、もし入りたい部活が無いなら、心霊現象部はどうかなーって思って。」


 確かに、入りたい部活はない。だが、だからと言ってなぜ彼女と同じ部活に入らないといけないのだ。


 合理性を求める自分には、その提案は唐突だった。

 それに、一体なぜ心霊現象部なのだろうか。


 彼女の雰囲気と「心霊現象部」という言葉との距離に違和感を覚える。


 彼女のことは一切知らないが、心霊現象部に入るような人にはとても思えない。


 人は見た目で測れない。好奇心や趣味はその人の中に潜むものだ。

 だが、彼女の顔はとても整っており、一見、彼女から心霊現象部というイメージはわかない。

 どちらかというと、運動部系のマネージャーでもしてそうな人なのだ。


 だが、それはすべて偏見だ。表面的な情報だけでは、内面まで知ることはできない。


「入るか入らないかは置いておいて、どうして心霊現象部なんですか。」


「え、そ、それは…私が怖いもの好きだから…?」


「なぜそこで疑問形になるんですか…」


 おそらく人には言えない秘密でもあるのだろう。

 小さな躊躇が口元に残るとき、それはしばしば言いにくさや恥ずかしさが表れている。

 彼女は素直に語れない何かを抱えているのかもしれない。


「なぜ、僕なんですか。ほかにも人はいると思いますが。」


「それが…君以外の人全員に断られちゃったんだよね…」


 全員に断られた。それは学年の全員に話を聞いたということか?

 彼女がそこまでこだわる理由が分からない。


 いつの間にか、彼女を遠ざけることよりも、好奇心の方が僕の中で勝っていた。


「すごい行動力ですね。ですが、なぜそこまで他人と入ることにこだわっているのですか?一人で入ればいいだけの話ではないんですか?」


「それが、心霊現象部の人数が足りてなくて、今年二人入らないと廃部になっちゃうって先輩に言われて…」


「つまり、僕が入らないと廃部になってしまうと。」


「うん。」


 廃部になってしまうのは残念だが、それは僕には関係のない話だ。

 校内の制度や習慣が壊れることに同情はするが、自分を侵食してまで助ける理由は見つからない。


「すみませんが、今回は縁がなかったということで。」


「そっかぁ。…まあ、興味が出来たら来てね。」


 そう言うと、ようやく彼女は僕の元を去っていった。

 足音が遠ざかり、軽い空白だけが残った。


 心霊現象部。


 先ほど歩いている時にブースを横目で見たが、本を読んでいる人が一人座っているだけで、特に勧誘活動をしているようには見えなかった。


 そのブースの静けさが、そのまま部の現状を物語っているように感じられた。


「人がいないのはそれが原因なんじゃないか…?」


 そうして部活紹介の終了を告げるチャイムが鳴った。


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