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十六話

 廊下に出ると、闇がそのまま形を持って立ちはだかっているようだった。


 先はまったく見えず、僕たちは無意識のうちに足の裏を擦るようにして進んでいた。


 音を立てないため、というより、闇に踏み込む速度を少しでも遅らせたかったのかもしれない。


 その分、時間だけが妙に長く感じられる。


 階段に差しかかると、ピアノの音が聞こえた。

 先ほどと同じ旋律。

 一音一音が、確かに存在している。


 まるで、鍵盤を覚えたばかりの子どもが、確かめるように弾いているような音だった。

 放課後に聞いたものと、まったく同じだ。


 ——なぜ、あの幽霊はピアノを弾いているのだろう。


 答えのない疑問が、頭の奥に沈んでいく。


「……下りるぞ。」


 先輩が、ほとんど息だけで言った。


 一段ずつ、踏み外さないように足を運ぶ。


 下るにつれて、音は次第に近づいてくる。輪郭を持ち、重さを帯び、耳の奥に直接触れてくる。


 二階にたどり着いたとき、それが幻聴ではないと、はっきり悟った。


 嘘であってほしかった。


 だが同時に——ここまで来た以上、いてほしいとも思ってしまった。


 音のする方を見ると、その部屋だけが月明かりに照らされていた。


 他の教室が闇に沈む中、そこだけが不自然に浮かび上がっている。


 まるで、こちらを招いているかのように。


「……行くぞ。」


 先輩の声に押されるように、僕たちは足を前に出した。


 音楽室の前に立つ。


 扉は、固く閉じられていた。


「……そういえば、あの後、開けたままのはずだったのに。」


 霧崎さんが、ほとんど独り言のようにつぶやく。


 確かに、開けたまま部室へ戻ったはずだ。


 先生が閉めたのか。


 それとも——。


「……しっ。」


 先輩が指を立てる。


「……ピアノの音が止んだ。」


 気づけば、音は完全に消えていた。


 さっきまで確かにあったものが、嘘のように。


 なぜ。どうして。


 疑問だけが浮かび、何ひとつ答えは出ない。


 ——もしかして、消えた?


 先輩は静かに、ゆっくりと扉を開け、その隙間から中を覗いた。


 次の瞬間、驚いたような表情を浮かべる。


「……誰もいない?」


 そのまま先輩は中へ入る。


 霧崎さんも、それに続いた。


 僕だけが、廊下に残された。


 中の様子は、放課後に見た景色と何ひとつ変わらない。


 椅子も、ピアノも、空気さえも。


 ——さっきまで、確かに鳴っていたのに。


 考えかけた、そのとき。


「ばぁ。」


 肩から、声がした。


 一瞬、時間が止まったように感じた。


 部屋の中には先輩と霧崎さんがいる。


 だからあの二人であるということはあり得ない。


 それに、僕は一番後ろにいたはずだ。


 誰かがいるはずなんて、ない。


 ゆっくりと——だが、明らかに不自然な動きで、僕は顔を振り向かせる。


 そこにいたのは、放課後に見た、あの幽霊だった。


「……あっ。」


 声にならない声が、喉から漏れる。


「しーっ。」


 幽霊は、人差し指で僕の口を塞いだ。


「こっちに行こ?」


 そう言って、幽霊は僕の手を取る。


 次の瞬間、世界が流れ出した。


 走っている、はずだった。


 だが、彼女の足は床についていない。


 浮いている。


 何が起きているのか、理解が追いつかない。


 なぜ彼女は浮いていて、なぜ僕の手を掴めるのか。


 幽霊であって、幽霊ではない。


 彼女はいったい、何者なのか。


 ただ一つ確かなのは、彼女がこの世の存在ではない、ということだけだ。


 声を出そうとするが、喉が動かない。


 音楽室からどんどん離れていく。


 彼女は僕の手を引いたまま、ドアを——通り抜けた。


「!?」


 僕はドアに激突した。


 痛みにうずくまる間もなく、内側からドアが開き、再び手を引かれる。


「いてて……」


 鼻の奥に、じんとした痛みが走る。


 なぜか、頭だけが妙に冷静だった。


 部屋の中は、廊下よりも暗い。


 ポケットを探るが、スマホがない。


 途中で落としたのだろう。


 驚きすぎて、気づきもしなかった。


 やがて目が闇に慣れてくる。


 どうやら、ここは教室らしい。


 そして、僕は教卓の前に座っていた。


 立ち上がり、制服の裾を払う。


 自分でも不思議なほど、思考は澄んでいた。


 教室を見渡すと、一箇所だけ、わずかに明るい場所がある。


 ——幽霊だ。


「やあ。」


 彼女は椅子に座っており、机に頬杖をつき、こちらを見ていた。


 放課後とは違い、幽霊は落ち着いた表情をしている。


「……あなたは、幽霊なのか?」


 声は、出た。


「そうだよ。私は幽霊なの。」


 面白そうに、彼女は笑う。


 目的は何だ。


 幽霊といえば、人を驚かすか、呪うか、その程度の存在のはずだ。


 ——実際、僕は驚かされたが。


「……あなたの目的は、なんだ。」


 声は、自分でも驚くほど低く出た。


 威嚇するような響きを帯びていたと思う。そうでもしなければ、彼女の存在に輪郭を与えられない気がした。


 言葉を持たないまま向き合えば、そのまま自分が溶けてしまいそうだった。


 幽霊は、少しだけ首を傾げる。


 考えている、というよりは、言葉を選ぶという行為そのものを楽しんでいるような仕草だった。


「ん~。目的かぁ。」


 間延びした声が、教室の静けさを押し広げる。


 彼女の周囲だけ、空気の密度が違っているように見えた。


「……君と仲良くなりたいなぁ。なんて。」


 そう言って、子どものように笑う。


 悪意も、打算も感じられない。


 だからこそ、その笑顔がひどく信用ならなかった。


「……あなたは——」


 問いかけようとした瞬間だった。


 彼女の姿が、消えた。


「……は?」


 思考が追いつかない。

 目を離してはいなかった。瞬きすらしていない。


 それなのに、泡が弾けるように——。

 幽霊は、そこからいなくなっていた。


「ばぁ。」


 耳元で、囁く声。


 反射的に、体が跳ねた。


「……っ!」


 振り向いた先に、彼女はいた。


 いつの間に移動したのか分からない距離。


 まるで何事もなかったように平然と立っている。


「君だけ質問するの、ずるいよ。」


 彼女は、少し不満そうに唇を尖らせる。


「じゃあ、君は何でここに来たの?」


 ——なぜ、ここに来たのか。


 先輩に連れられたから。

 霧崎さんがいたから。


 そう答えるのは簡単だった。

 だが、そのどれもが、どこか嘘に感じられる。


 ……違う。


 胸の奥で、別の言葉が、ゆっくりと形を取っていく。


「……あなたに会うために。」


 口にした瞬間、自分でも驚いた。


 なぜ、そんな答えを選んだのか分からない。


「……それは、照れるね。」


 幽霊は、少しだけ距離を取った。


 頬に、かすかな赤みが差したようにも見えたが、それが光の錯覚なのかは分からない。


 沈黙。


 時計の音も、風の音もない。


 ただ、二人分の存在だけが、教室に残されている。


「じゃあさ。」


 少し間を置いて、彼女が口を開く。


「私の仕事、手伝ってくれない?」


 意味が、すぐには理解できなかった。


「……仕事?」


「そう。現世にいる幽霊を、成仏させるの。」


 成仏。

 聞き慣れない言葉が、重さを持って胸に落ちてくる。


 幽霊が、幽霊を、成仏させる。


 その構図の歪さに、言葉を失う。


「……今回は、縁がなかったということで――」


 断ろうとした、その瞬間だった。


 ——ガラガラガラッ。


 ドアが、乱暴に開いた。


「あー!一ノ瀬君いた!!」


 霧崎さんの声。


「もう!勝手にいなくなるなんて——」


 途中で、言葉が止まる。


 足も、止まる。


 彼女の視線が、ゆっくりと僕の横へ移動する。


 幽霊の存在に気づいたのだ。


 教室の空気が、一気に冷えた。


 幽霊は、楽しそうに微笑んでいる。


「ゆ、ゆゆゆ……幽霊!!」


 声が、裏返る。


「やあ。」


 その返事と同時だった。


 霧崎さんは僕の手を強く掴み、何も言わずに走り出した。


 抵抗する暇もない。


 教室を出て、廊下を抜け、階段を駆け上がる。


 息が切れ、足がもつれる。


 そして、部室にたどりつく。


「はあ、はあ……」


 肺が悲鳴を上げている。


「一ノ瀬君、大丈夫だった!?」


「だ、大丈夫……。」


 言葉にした途端、膝の力が抜けそうになる。


 霧崎さんは、胸に手を当て、大きく息を吐いた。


「よかった……。」


 ——そのときだった。


 床から、何かが、ゆっくりと生えてくる。


 影が、形を持つ。


 ——それは幽霊だった。

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