十五話
僕はほとんど反射的にポケットへ手を伸ばし、スマホを取り出した。
画面を点灯させた瞬間、暗闇の中に白い光が浮かび上がり、その明るさに目を細める。
ほんの一秒ほど視線を逸らしただけなのに、指先がわずかに震えているのがわかった。
時刻は――一時七分になっていた。
数字を理解した瞬間、胸の奥で何かが静かに落ちていく感覚があった。
言葉にする前から、結論だけが先に決まってしまう。
現れたのだ。
あの、ピアノの幽霊が。
僕たちの存在などまるで知らないかのように、ピアノは弾かれ続けている。
鍵盤を叩く音は規則正しく、それでいて、どこか人の呼吸と噛み合わない。
一定の旋律の中に、ほんのわずかなズレが混じり、そのたびに背中を冷たいものがなぞっていった。
「……とりあえず、いったん部室に戻るぞ。」
先輩の声は抑えられていたが、迷いは感じられなかった。
僕も、霧崎さんも、言葉を返さない。声が出なかった、というより、言葉にする必要がなかった。
沈黙の中には、確かな肯定があった。
先輩は部室に向かって歩き出す。
僕たちは無言のまま、その後を追う。
背後では、まだピアノの音が鳴っている。
距離が開けば小さくなるはずなのに、なぜか音は一定の存在感を保ったまま、耳の奥に貼りついて離れない。
静かに歩こう、という意識は途中で消えていた。
部室の前に辿り着く頃には、足音は明らかに荒くなり、廊下の静寂を乱していた。
何が起きても構わないから。ただ、そこに入ることで安心をしたいのだ。
そうして、ほとんど同時に、僕たちは部室へと押し込まれた。
扉が閉まる音が響いた瞬間、張り詰めていた何かが切れた。
額に汗が滲み、気づけば僕は肩で息をしている。
本当に恐怖を感じると、人はこうなるのだろうか。
頭の中は不思議と冷えているのに、身体だけが言うことをきかない。
先輩も、霧崎さんも床に座り込み、それぞれ静かに呼吸を整えている。
誰も言葉を発さない。
沈黙の中で、耳だけが働いていた。
僕と同じように、二人もまだ、あのピアノの余韻を振り切れずにいるのだろう。
「……部室に戻っちゃいましたけど、どうするんですか?」
沈黙が重くなりすぎて、僕は思わず口を開いた。
声が少し上擦っていたのが、自分でもはっきりとわかる。
先輩はゆっくり顔を上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「……本当に、本当に幽霊はいたんだ!!」
その声には恐怖よりも、強い高揚が混じっていた。
先輩は立ち上がると、机の上に置かれた本を掴み、勢いよく開く。
ページを乱雑にめくる音が、部室に不釣り合いなほど大きく響く。
その姿を見て、僕は別の意味で背筋が寒くなった。
「せ、せんぱい……」
霧崎さんの声は、今にも途切れそうだった。
その声に気づいたのか、先輩ははっとした表情でこちらを見る。
「すまない。少し興奮しすぎたな。」
先輩は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
そして、いつもの椅子に腰を下ろした。
「おそらく、霧崎と一ノ瀬が見たという幽霊だろう。」
ようやく、知っている先輩の口調に戻る。
この人は、幽霊の話になると、どこか歯止めが利かなくなる。
「たぶん……」
霧崎さんも立ち上がり、椅子に座る。
僕も立ち上がり、椅子に座った。
「……で、どうするんですか?」
霧崎さんが恐る恐る口を開く。
「それはもちろん、見に行くに決まっているだろう!」
静かな校舎に先輩の声が響く。
まさか本当に心霊現象が起きるとは思わなかった。
「先ほどと同じように、私が先頭を行く。」
先輩は立ち上がると、ドアの前に行く。
「あと、ライトをつけないように。」
ライトなし。
あの暗闇を、もう一度。
喉の奥がひりつき、唾を飲み込む。
「一ノ瀬君、大丈夫…?」
霧崎さんが僕の顔を覗き込む。
心配そうな顔をしている。
「……ああ。大丈夫だ。」
そう答えながら、胸の内では別の声が響いていた。
だが、それを見せるわけにはいかない。
僕は立ち上がり、先輩の背後に立つ。
霧崎さんも、僕の返事に少し安心したのか、続いて立ち上がった。
「……霧崎さん真ん中入って。」
僕は壁際へと身を寄せる。
「……いいの?」
「うん。」
恐怖を悟られないために、ほとんど反射的に口にする。
その返答に安心したのか、霧崎さんは先輩の後ろに立った。
「それじゃあ、行くぞ。静かに、音を立てずに。」
そうして僕たちは、再び暗闇へと向かった。




