十四話
「一ノ瀬君はそれだけで大丈夫?」
霧崎さんにそう聞かれ、僕は手元に視線を落とす。
右手に握られているのはスマホのみ。
だが、これだけでライトも点けられるし、それに階段の段数を数えるのにも使える。
逆にこれ以外に何が必要なのだろうか。
顔を上げると、霧崎さんは何やらビニール袋を手に持っていた。
「……逆に霧崎さんは何を持ってきたの。」
「ん?私はこれだよ!」
霧崎さんがビニール袋を漁りだした。
指が中を探るたび、ビニールが擦れる。
しゃり、という乾いた音が、夜の部室には大きすぎて、やけに耳についた。
昼間なら気にも留めないはずの音、それが今は、神経の奥をなぞるように響いている。
「じゃじゃーん!」
霧崎さんの掛け声とともに取り出されたのは、色とりどりのスナック菓子とグミだった。
「お菓子…?」
思ったことが、そのまま口をついて出ていた。
遠足に来たわけでもないというのに、この人は……。
「何よその顔!まずは腹ごしらえでしょ!」
そういうと、彼女はポテトチップスの袋を勢い良く開けた。
ぱん、と乾いた音。
「一ノ瀬君も、一袋いる?」
そう言いながら、彼女は再びビニール袋の中に手を突っ込む。
「いえ、大丈夫です……」
そう答えると、霧崎さんの動きが一瞬だけ止まる。
表情にかすかな曇りがさし、だがそれはすぐ消えた。
そして、彼女は何事もなかったかのように袋を閉じる。
「私はこれだ!」
今度は先輩が声を張り、同じように袋を漁りだした。
そうして中から取り出されたのは、折り目のついた紙だった。
紙には細かな文字と、見慣れない印がびっしりと書き込まれている。
紙の端は少し黄ばんでいて、長い時間を経てきたことが分かる。
「これは、うちに代々伝わる魔よけのお札だ。他にも色々持ってきた。万が一の時のためにな。」
どうやら、一応先輩はちゃんとしたものを持ってきたらしい。
冗談めいて聞こえないのが、先輩らしいところだ。
本気なのか、そうでないのか、その境目が分からない。
「それから、一ノ瀬はこれを持っていてくれ。」
そういうと、先輩はビニール袋から何かを取り出し、僕に向かって投げられる。
手のひらに収まったそれは、小さく、ずっしりとしていた。
見ると、それはカウンターだった。
「それで階段の階数を数えてくれ。」
「……わかりました。」
握り直すと、プラスチックの冷たい感触が、妙に現実的だった。
「じゃあ、時間も時間だし。……行くか。」
その一言で、部室の空気が変わった。
冗談めいた軽さが消え、場が一気に引き締まる。
霧崎さんはビニール袋を置き、先輩はビニール袋から複数枚紙を抜き取った。
そうして、僕たちは部室を出た。
廊下に出た瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でる。
深夜の校舎特有の冷えなのか、それとも向かう先への恐怖がそう感じさせるのか。
判断はつかなかった。
列は自然と決まった。
先頭に先輩、その後ろに霧崎さん、最後に僕。
霧崎さんは何もしゃべらないが、先輩が前を歩いてくれることに安堵しているのが分かる。
そうしてゆっくりと、なるべく足音を出さずに廊下を進んでいく。
壁や天井の輪郭が曖昧になり、空間そのものが沈黙しているように感じられる。
やがて、僕たちは校舎中央の階段に辿り着いた。
振り返ると、部室のある方向は闇に沈んでいた。
何もない。ただの闇だ。
それでも、目を離してはいけない気がして、しばらく視線を戻せずにいた。
恐怖が、ゆっくりと胸の内に満ちていく。
一気に襲ってくるのではなく、気づかないうちに水位が上がっていくような感覚だ。
今僕たちがいるのは、屋上を除けば一番上の階ということになる。
先輩が持ってきた本の記載によると、おそらく屋上への階段は入らないだろう。
僕はスマホで時刻を確認する。現在時刻は0時40分。
思ったよりも部室で時間を使ってしまっていた。
もうすぐ――あの幽霊が現れる時間になる。
「よし、段数を数えるぞ。一ノ瀬、カウンターは?」
僕は手に持ったカウンターを先輩に見せる。
先輩は軽くうなずき、階段を一段下った。
「いち。」
その声は低く、静かに階段に落ちる。
僕は親指でカウンターを押す。
カチッ。
乾いた音がして、カウンターの数字が0から1に変わる。
その小さな変化が、妙に重く感じられた。
先輩はその音に応じるように、もう一段、足を進める。
「にい。」
カチッ。
「さん。」
カチッ。
「よん。」
カチッ。
一段一段、丁寧に下っていく。
途中で止まることはない。
それでも、階段は実際よりも長く続いているように思えた。
そうして僕たちはようやく二階にたどり着く。
「一ノ瀬。今のカウントは?」
僕は手元を確認する。
カウンターには、はっきりと「21」という数字が表示されていた。
「……二十一です。」
「よし。」
単純に考えれば、これを二倍して全体は四十二段ということになる。
そう簡単であってほしい、と思った。
「じゃあ、一階に行くぞ。」
霧崎さんがこくりとうなずき、僕も次いでうなずく。
再び、一歩ずつ下っていく。
特に何事も起こらないまま、僕たちは一階に着いた。
目の前には下駄箱が並び、その向こうに外の様子がわずかに見える。
だが、外は真っ暗だった。
街灯一つなく、何もかもが闇に沈んでいる。
「……一ノ瀬、どうだった?」
カウンターには42という数字が映し出されている。
「……四十二でした。」
これで、一階から三階まで、合計で四十二段あるということが分かった。
そして、次は上りだ。
同じ作業の繰り返しのはずなのに、今度は意味が違う。
僕はカウンターをリセットする。
先輩はメモ帳に何かを書きつけていた。
そのペン先の音が、やけに耳につく。
「次は上りですね!」
霧崎さんの目は、どこか不自然なほど輝いている。
好奇心と不安が、同時に宿っているように見えた。
一方で、僕は内心、かなり落ち着きを失っていた。
だがそんなこともつゆ知らず、先輩が一段上る。
「いち。」
その声で、意識が現実に引き戻される。
反射的に親指を動かす。
確かな感触が、手の中に残る。
そうして上っていき、二階と三階の中腹で、先輩は唐突に足を止めた。
「……先輩?」
霧崎さんが不安げな声を上げる。
すると、先輩はゆっくりと、そして深く息を吐いた。
先輩でも、こういう時は緊張するようだ。
カウンターには、「31」と表示されている。
三階に着いたとき、もし数字が四十二でなければ――。
背筋に、冷たいものが走る。
霧崎さんも、秋月先輩も、わずかに肩を震わせていた。
霧崎さんは不安そうに。
先輩は、先程とはうって変わり、どこか楽しそうだ。
……先輩のはおそらく武者震いだろう。
「よし、上るぞ。」
そうして僕たちは上る。
先輩も理解しているのか、再び「いち」から数え始めた。
そして、今までの人生で、最も長い時間が訪れた。
一段上るたびに、体の奥から何かが削られていく。
時間の感覚は伸び、歪み、先輩の声とカウンターの音だけが、現実を形作っていた。
そして――。
――最後の一段。
「……じゅういち。」
先輩がその段を上りきる。
同時に、僕は最後のカウントを押した。
先輩は振り返り、僕を睨むように見る。
「カウントはっ!?」
切羽詰まった表情に、心臓が大きく跳ねる。
僕は恐る恐る、カウンターを差し出した。
「……四十二段です。」
一気に、張りつめていたものがほどけた。
“普通”であることが、これほどありがたいとは思わなかった。
霧崎さんは、その場に座り込み、深く息を吐いている。
顔には、はっきりとした安堵の色が浮かんでいる。
先輩だけが、どこか納得いかなさそうに肩を落とした。
「なにもなくて良かったですね。」
僕は先輩に言う。
「良かったのか、それとも悪かったのか……」
先輩はやはり心霊現象を見たかったのだろう。
「いやぁ。どれだけ覚悟を決めても怖いものは怖いね~。」
霧崎さんは、いつもの明るい調子で言った。
そのとき――
「ぽろん」
小さな音が、空気の底に落ちた。
背筋が、一気に凍りつく。
先輩も、霧崎さんも、動きを止める。
今度は、聞き間違いではない。
確かに、旧校舎に響いた。
ピアノの音が。




