十二話
「よし!二人ともちゃんと来たな!」
先輩の声は静けさの中でやけに大きく響き、住宅街の暗闇を軽く揺らした。
僕たちは、夜の学校の前に立っている。
周囲の家々は深く眠り込み、どの窓からも光は見えない。人の気配がこの町からスルリと抜け落ち、世界の輪郭が薄くなったようだ。頼りになる光は、道端の街灯の心もとない灯りと、僕のスマートフォン、そして先輩の手のひらで瞬く懐中電灯だけだ。
三つの光が地面に細長い影を落とし、僕の影をいつもより細く、長く伸ばしていた。
「はい!」
霧崎さんの声は夜を弾くように明るく、どこか昼の反射を纏っている。
スマホで時間を確認すると、零時ちょうど。周りに人の気配はなく、風さえも遠慮がちに通り抜けていく。
世界に、僕たち三人だけが取り残されているようだ。
そんな錯覚は初めて深夜に外へ出たせいだろう。少しの後ろめたさと、少しの高揚感に胸の奥がざわつく。
いつもなら十時半には就寝しているため、体がやけに重い。睡眠への名残がまだ離れず、瞼の裏側で暖かい布団の記憶が僕のことを手招きしている。
明日、ちゃんと起きられるのだろうか――。
そのささやかな現実が、冷たい空気の中でちらりと顔を出す。
「それにしても一ノ瀬はなぜそんなに元気がないんだ?」
秋月先輩が不思議そうに僕を見る。
「…いつもだったら寝ている時間ですよ、逆に二人こそ、よくそのテンションを維持できますね。」
言い終えた途端、自然と口からあくびがこぼれた。空気が肺に流れ込み、眠気が少し冷めたような気がする。
僕はバッグからペットボトルを取り出す。
つい先ほど駅前のコンビニで買ってきたカフェラテだ。
一口飲むと喉の奥を苦みが刺す。それだけでも眠気は少しだけ薄くなった。
「夜中に出かけると、なんかワクワクしない!?」
霧崎さんは目をキラキラ輝かせながら喋る。
声の端に、子供のようなはしゃぎが残っている。
「…別にしないけど。」
初めて夜に外出するのに加えて、初めての夜更かしだ。
少しの高揚感はあるものの、霧崎さんと同類にされるのは嫌だ。
「念願の幽霊に会えるんだぞ!興奮で眠気なんか吹き飛ぶさ!」
先輩も興奮した様子で喋る。
「別に、幽霊が出る確証はないですけどね。」
ところで、なぜこの人はこうも幽霊に執着しているのだろう。
家が神社だというから、もしかしたら幼いころからそれに近い存在と関わってきたのかもしれない。
少なくとも、僕とは全く違う世界で先輩は育ったのだろう。
「さて、さっそく学校に忍び込んでいくぞ!」
「おー!」
「……おー。」
僕の声だけ半分寝息みたいな調子だった。
そもそも、この二人がおかしいのだ。
こんな深夜に大きな声を出すなんて。警察に通報にされでもしたらどうするんだ。
とりあえず正門を開けようとするが、南京錠でがっちりと閉ざされている。当然ながら開く気配はない。校門は僕の身長の1.5倍ほどの高さで、頑張れば登れないことは無いが、霧崎さんと先輩には難しいだろう。
いや、僕にも難しいかもしれない。
あたりを見渡しても、入れそうな場所はどこにもない。
むしろ簡単に入れたら、それはそれで別の意味で怖い。
秋月先輩はというと、懐中電灯で周囲を照らしているだけで、特に行動する気配はない。
…まさか、侵入する方法を考えていなかったのか?
「せんぱーい。どうやって入るんですかー?」
霧崎さんが首をかしげながら尋ねる。
先輩はなぜか遠くを見るような眼をしていたが、すぐ我に返り、こちらを向いた。
「すまない。昔の記憶を辿っていたんだ。」
そう言うと、先輩は校門に沿って歩き始めた。
その迷いのない足取りを見る限り、入れる場所を知っているようだ。
いったい、過去に何をしたんだ…
「私についてこい。」
そう促され、僕と霧崎さんは足を進める。
しばらく歩き、感覚的に正門の真反対の位置まで来ただろうか。
この学校は都内にしては敷地が広く、ここまで来るのに2分ほどかかった。
そして、先輩が急に足を動かすのをやめた。
「ここだ。」
先輩が懐中電灯で校舎側を照らす。
だが目の前にあるのは、乱雑に伸びた枝葉と、風で揺れてざわめく緑の影。
「ここ…ですか?」
霧崎さんも戸惑っている様子だ。
「実はな、この茂みの奥にフェンスが壊れているところがあるんだ。そこから中に入ることが出来る。」
そう言うと、先輩は迷うことなく茂みへ突っ込んでいった。
少しした後、茂みの奥から先輩の声が聞こえた。
「よし、まだ壊れたままだ。早く来い。誰かに見られるかもしれん。」
……一つ言い忘れたが、僕は幽霊以外に一つ苦手なものがある。
それは虫だ。
動物なら、なんとなく意志のようなものを感じ取れるが、虫は違う。
まるで理解できない規則で動き、形も異様だ。存在そのものが未知で、恐怖の中心を突いてくる。
当然、この茂みの中には虫が無数に潜んでいるだろう。
それらを想像するだけで背筋がぶるりと震えた。
「じゃあ、私先行くね。」
霧崎さんはためらいなく茂みに入った。
虫が平気なのだろうか。
しばらくして、霧崎さんの声が茂みの奥から響く。
「一ノ瀬君も来ていいよー!」
「……ふー。」
ここまで来て一人だけ逃げ帰るわけにもいかない。
僕はスマホのライトを消した。
たとえ進むべきが分からなくてもいい。
光があると余計に虫の気配が見えてしまう気がするからだ。
この世には“知らぬが仏”という言葉がある。
見えなければ存在しないのと同じだ、と自分に言い聞かせる。
僕は覚悟を決め、茂みに足を踏み入れた。
途端に、枝葉が全身に触れる。
何か細長いものが腕に絡みつく感覚。
湿った葉が頬をかすめる。
「……うっ。」
背筋に何かが触れた瞬間、思わず声が漏れたが、必死に飲み込み前へと進む。
茂みの奥から明るい光が見え、その光を頼りに進み、ようやく茂みを抜けることが出来た。
「おかえりー!」
「……ただいま。」
目の前には秋月先輩と霧崎さんが立っている。
二人とも特になんともない様子で、平然としている。
「あっ。一ノ瀬君、頭に芋虫ついてるよ。」
……。
反射的に頭を掃う。
だが次の瞬間、手のひらにぬるっとした感触。
恐る恐る手を見ると、芋虫がしっかりと張り付いていた。
「……!!」
僕は必死で手を振るが、芋虫はしがみついて離れない。
その時霧崎さんが近づき、僕の腕をつかんだ。
そして、なんのためらいもなく素手で芋虫をつまみ上げた。
「はい、取れたよ。」
「……ありがとう。」
霧崎さんは芋虫を茂みに投げ返す。
……虫への耐性が尋常じゃない。
「どーいたしまして!」
霧崎さんは芋虫を触った手を軽く掃う。
「…………」
帰り道もまたここを通らなければならないと思うと、胃がきゅっと縮む。
僕はすでにこの夜の探索を後悔していた。
「よし、全員揃ったな。それじゃあ旧校舎に向かうぞ。」
先輩の言葉で、僕は顔を上げる。
スマホを点け、周囲を照らすと、今まで見たことのない壁があらわになった。
おそらく、この建物が旧校舎なのだろう。
黒ずんだ木材、ひび割れた窓枠、深夜という時間がそれらをさらに古く不気味に見せている。
「こっちだ。」
先輩が壁に沿って進み、そして新校舎のほうへ抜ける通路へと出た。
昼間なら何気ない景色だったが、夜になるとそれは全く違う顔を見せる。
風の通り抜ける音さえ、何かのうめき声のように聞こえる。
「よし、着いたぞ。」
いつの間にか目の前に旧校舎の昇降口があった。
だが、ドアは閉ざされており、鍵もかけられている。
「せんぱーい。一体どうやって入るんですか?まさか、窓から侵入とか言いませんよね?」
「ふっふっふ…。」
先輩は不敵な笑みを浮かべた後、何やら上着のポケットを探りだした。
そうして取り出されたのは、なにかの鍵だった。
「実は、ここに旧校舎の鍵のコピーがある。」
先輩は得意げにそれを見せびらかす。
「…なんで持っているんですか。」
「実は、この鍵は心霊現象部の部長に代々受け継がれてきているのだが、誰が作ったのか、そしてなぜ作られたのかはあまりよくわかっていない。」
なぜ作られたのか。そちらは大体予想ができる。
夏の風物詩と言えば肝試しだ。
先程、先輩も昔を思い出していると言っていた。
それはつまり、過去に忍び込んだことがあるということだ。
そして夜忍び込んで何をしたのか…。
それは当然、肝試しだ。
作った人物も肝試しをしたかったのだろう。ただの憶測でしかないが、そうとしか思えない。
「じゃあ開けるぞ。」
先輩がドアの前まで歩み寄り、鍵穴に鍵を刺す。
鍵をひねると、ガチャリという音が鳴った。
「よし、入るぞ。」
先輩はためらいなくドアを引き、中へ入っていった。
信じられない。
怖くないのだろうか。
ドアの隙間から見える中はどこまでも暗く、闇の厚さが空気の質を変えている。
僕は思わず立ち止まる。
横を見ると、霧崎さんも同じく固まっていた。
やはり、先輩だけが異常なのだ。
「おーい。二人とも何してる。早く来い。」
先輩の声が、校舎の闇の奥から響く。
「……行こっか。」
霧崎さんは一歩を踏み出し、旧校舎へ入っていく。
僕も覚悟を決め、深呼吸をし、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み――
闇の中へ足を踏み入れた。




