第十一話
「それで、私がいない間、一体何があったんだ?」
僕は気づけば先輩の前で正座をさせられていた。慣れない星座の成果、膝の裏に微かな痛みを感じる。
床も冷たく、湿った空気にわずかに混じる木材の匂いが鼻に入ってくる。
雨は強さを失っており、細かく滴り落ちる雨が世界をぼんやりと霞ませていた。
「先輩が帰ってくるのが遅くて、新校舎に行こうとしたんですよ。そしたら霧崎さんが突然、ピアノの音がするって言いだして。それで、ピアノの鳴っているほうへ行ったんです。そしたら幽霊がいたんです。」
僕はただ、起きた出来事を淡々と説明する。
けれども、声に乗せたときに重さを感じた。
幽霊—―それは現実では到底存在を説明できない存在。
けれど、僕たちは実際に目にしてしまったのだ。
目の前にいる先輩は、まだ信じられないという顔をしていた。
「まさか。幽霊がこんな時間帯に現れるわけないだろう?まだ六時だぞ?」
僕は自然と肩をすくめ、溜息を吐く。
「いや、本当に居たんですって。女性の幽霊が。」
「霧崎、本当か?」
霧崎さんは瞳をまっすぐに見開き、首を大きく縦に振った。
「本当に居ました。間違いなくこの目で見ましたもん。」
その言葉に、教室の空気はひりつくように静まり返った。
僕はまた、あの幽霊の姿を思い出す。揺れる長い髪、淡い光に浮かぶ横顔、そして僕たちを見据えたその瞳。あれが錯覚だと、どうして言えようか。
「え……本当に居たの……?」
先輩は机に手をつき、背中を丸めてため息をついた。
その肩の揺れは、悔しさなのか、哀しみなのか、あるいは単純な好奇心の高ぶりなのか。
「まだ信じていないんですか?」
先輩は黙ったまま机を叩く。リズムは落ち着かない心拍のようで、僕はその音に、ただ耳を澄ませるしかなかった。
「……違うんだよ。私も、私も幽霊を見たかったんだよ!!!!」
その声は部室の静けさを切り裂いた。怒り、悔しさ、羨望、そのすべてが混ざった先輩の声に僕は息を呑む。
先輩は――拗ねているのだと。
幽霊が見えなかったことに対して。
「はぁ……私も旧校舎に残っていればよかった……残っていたら幽霊の姿を見れていたはずなのに……」
霧崎さんもうなずく。
先輩がどれほど幽霊を見たかったか知っているからだろう。
「でも、電気が点いてなかったら僕たち危なかったですよ。」
「そうですよ!先輩が私たちを助けてくれたんですよ!」
しかし、先輩は動かない。少しの沈黙のあと、先輩は低くつぶやいた。
「でも、見たかった……」
その声は小さく、いつもの先輩とは信じられないほどだ。
ふと、あの幽霊が口にした言葉が脳裏に浮かんだ。
『今の時間は少し早かったみたい。』
この言葉はどういう意味だったのか。時間が少し早い?
幽霊は時間の感覚を持っているのか、それとも何か別の尺度で時を感じているのか。思考はつながりを探すが、まとまらないまま零れ落ちていく。
そういえばさっき先輩が何か言っていたような……
…
「もしかしたら……今日の夜、見られるかもしれませんよ。」
「えっ!?」
先輩が僕の言葉に呼応したように勢いよく立ち上がる。椅子の脚が床をひっかく。
その反応につられて、僕の心拍も少し早くなる。
「一ノ瀬君!それはどういうことだい!?」
「幽霊、少し早かったと言っていたんですよ。そして、先輩によると幽霊は夜に現れるものなんですよね?本にも、夜にピアノの音が聞こえると書かれていたと思います。」
机の上の本を指さす。
「つまり、本当は今日の夜現れる予定だったんじゃないですか?外の雨とか、閉め切ったカーテンのせいで、幽霊が時間を誤認したのかもしれません。」
初めて、こんなに喋った。
先輩は一瞬、あっけらかんとした表情を見せる。その表情から何を考えているのかわからない。
驚き?笑い?それとも呆れ?
だが、先輩の返事は無い。
――しまった、と思った。
だが、そんな空気を切り裂くように霧崎さんが声をあげた。
「一ノ瀬君すごいっ!!確かにそんなことを言っていた気がする!」
僕は胸から空気が抜けるのを感じた。安堵とともに、なぜか恥ずかしさが湧く。
先輩は目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えてる。やがて、机に手を据えて顔を上げる。
「先輩…どうしますか…?」
霧崎さんの声が、僕を現実へ引き戻した。彼女の瞳は、期待に輝きながらも、どこか不安げだ。
先輩はゆっくりと立ち上がり、机に手を置いて宣言した。
「今夜…私たちは学校に乗り込むぞ!!」
その言葉には冗談めいた空気がない。確固たる意志が宿り、部室の空気は張り詰めた。
「…本当にやるんですか?犯罪ですよ?」
「大丈夫だ。バレなければ犯罪じゃない!」
霧崎さんは跳ねるように声を上げた。
「やったー!私、夜の学校に忍び込むのが夢だったんだよね!」
先輩は、窓の外に沈む夕陽を見つめながら、ゆっくりと微笑む。赤い光は、雨上がり空を金色に染めあげる。
「よし決定!今夜12時に校門前に集合だ!」
「おー!」
僕は深く息を吐き出した。手のひらの汗がひんやりと冷たい。胸の奥では期待と不安が静かに混ざり合っている。
今夜、あの女性に再び会えるのだろうか。
もし会えたなら――。
一度だけでいい。彼女に尋ねてみたい。
――――――――――。
教室の空気は静かに揺れ、夕陽は時間をゆっくりと解き放つ。雨上がりの匂い、カーテンの隙間をすり抜ける風、木製の床の感触。すべてが、僕を日常から解き放っていた。




