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第十話

「おはよう!」


 霧崎さんの声は今日も軽やかに教室の空気を震わせる。


「おはよう。」


 僕は本のページから目を離し挨拶を返した後、再び活字の海に潜る。開いたままの行間に、朝の光が淡く流れ込む。


 以前までの彼女は早朝に来るのが当たり前だった。けれど最近は、HRの始まる少し前に登校するようになった。


 ドアががらがらと開き、担任が教室の中に入ってくる。


「HR始めるぞー。」


 担任の一声で、教室は再び日常へと戻される。机の傷、黒板についているチョークの粉、窓際に積もる湿気、そうした細部が自然と目につくようになった。


 日々の生活にはいくつもの小さな傷がついていて、それが日常を彩っているのだ。


 完璧なものなど、この世にはない。




 いつものように授業が終わり、時計は三時半を指していた。HRが終わると、クラスメイトは教室から離れていく。


「一ノ瀬君!部活行こ!」


 気づけば霧崎さんは隣に立っていて、僕に「帰る」という選択肢を選ぶ隙を与えない。


「行きましょうか。」


 僕がそう言うと、彼女は一瞬眉を寄せ、そして頬を膨らせる。


「敬語使ってる~…」


 口調を変えることは、表情を変えるよりも難しいかもしれない。

 敬語は、これまで僕と他人を隔てていた壁だった。

 その壊れかけの壁には破片が残っていて、言葉はそれに触れてはたちまちずきりと痛む。

 一人の時は普通に喋れるのだが、他人と話すとなるとつい敬語で話してしまうのだ。


「はあ。わかった。行こう。」


「うん!!」


 言葉がふわりと溶け、僕たちは旧校舎へと足を向けた。新校舎から外に出ると、空は曇っており、針のような雨粒が落ち始めていた。駆ける足音と雨音が混じりあい、僕たちの制服は次第に濡れていく。


「帰りまでに雨止んでるといいなぁ。」


 霧崎さんの吐息が淡い期待を含んでいる。


「そうだね。…今日は傘を忘れたから。」


 新校舎と旧校舎の距離は、実際の距離よりも少し長く感じられる。

 到着した時には肩先から水がぽたぽたと落ち、制服の折り目には小さな川が出来ていた。


「もう!なんで心霊現象部だけこんなところにあるのよ!」


 彼女は大声をあげるが、言葉の端に少しだけ嬉しさが滲んでいた。


 僕はポケットからハンカチを取り出し、指先で端をつまむ。

 ところどころ雨で滲んでいるが、無いよりはましだろう。


 霧崎さんは拭くものがないらしく、両手でばさばさと水を掃っている。濡れた髪の束が彼女の頬に軽く張り付き、それが妙に幼い顔立ちを浮かび上がらせていた。


「ほら。」


 僕はハンカチを差し出す。

 彼女はそれを受け取り、そっと制服の胸元を撫でるように拭いた。動作は無造作だが、その無造作が不思議と丁寧に見えた。


「ありがと。今度洗って返すね。」


「どういたしまして。」


 彼女が拭き終えるのを待たずに、僕は部室へと歩き出す。

 少し後ろから小走りの足音が追いかけてくる。


「え!ちょっと!おいてかないでよ!」


 旧校舎はいつものように静かで、外の雨音しか聞こえない。今も、僕ら以外の人がいるような気配はない。

 いつしか担任が話していた「数えきれないほどの部活」という言葉と、ここにある静けさはどうにも嚙み合わない。


 どうして旧校舎には心霊現象部しかないのだろうか――そんな考えが頭の隅をかすめる。


 思考はいつの間にか薄れていき、ふと気づくと僕たちは部室の前に立っていた。


 ドアノブに触れた瞬間、ひやりとした湿気が指先を包み込んだ。外で降り続く雨の気配が、金属の奥まで染み込んでいるようだった。ゆっくりと扉を引くと、薄暗い部室の空気が流れ出てきた。


 その静けさの中心に、秋月先輩が座っていた。灯りの届きにくい部屋の片隅で、先輩は読みかけの本を膝に乗せ、まるでその世界に深く沈んでいたかのようだった。


 ページを挟んだ指先がほんのわずかに動いたとき、かすかな紙の匂いが部屋の奥から立ち上がるように感じた。


 僕の気配に気づいたのか、先輩は目線をゆっくりと上げた。


「おっ。一ノ瀬君じゃないか。今日は帰りに雪でも降るかな?」


 その軽い声が、雨音に混じって静かに落ちた。室内にしみ込んだ湿度が、言葉そのものを柔らかく曇らせる。

 先輩は手にしていた本を鞄に入れ、奥の椅子に腰を移した。


「雨なら降っていますけどね。というか、最近はちゃんと来ているじゃないですか。」


 床に鞄を置いた瞬間、古い床板が小さく鳴った。染みのついた木目が不意に遠い記憶を思い出させるような気がした。


 僕は椅子に座り、湿った空気を胸に吸い込む。


「こんにちはー!」


 明るい声が部屋の入口から弾けた。霧崎さんがいつもの勢いのまま入り込んでくる。鞄を乱雑に投げ捨てる動作が、部屋の空気を一瞬揺らした。

 軽い衝突音が壁に反響する。


「よし、全員集まったところで今日の部活動を始めようと思う。」


 先輩の声でようやく部室に”部活の時間”という区切りが生まれる。僕たちは中央に置かれた机を囲むように椅子を寄せ合う。


「今日は何をするんですかー?」


 霧崎さんが問いかけると、部長は得意げに口角を上げた。窓の外を叩く雨音と、不敵なその笑みが妙に調和して見えた。


「今日はだなぁ…幽霊を召喚しようと思う!!」


 その言葉が発された瞬間、雨粒が窓を強く叩いた。冗談とも本気とも区別がつかないその声色が、湿り気を帯びた空気の中に沈んでいく。


「一体どうやってやるんですか?」


 霧崎さんの素朴な問いに、先輩は勢い良く立ち上がった。椅子の脚がぎしりと音を立てる。


 部長はホワイトボードの前に立ち、残っていた文字の影を眺めた。先輩が雑巾を手に取り、丁寧にぬぐい取ると、ぼやけていた文字が少しずつ消え、白い板が息を吹き返したように明るくなる。


 やがて部長は何かを乱雑に書き、手を止めるとこちらへ向き直った。


「名付けて…幽霊召喚大作戦!!」


「「幽霊召喚大作戦???」」


 僕と霧崎さんの声が重なる。その名前があまりにも安直で、僕は唖然とする。


「この名前を考えるために、丸一日費やしたからな!どうだ?この名前は。」


「センス無いと思いまーす。」


「右に同じく。」


 先輩は僕たちの率直すぎる言葉に肩を落とし、元の席へと戻っていった。その背中は寂しげだが、妙に愛嬌がある。


「ま、まあいい…それよりもだ。」


 先輩は鞄の中を探り始めた。布の擦れる音が部屋の静けさに細かな波紋を作る。やがて取り出されたのは、一冊の分厚い本。埃をかぶっていたのか、本に触れた先輩の手には細やかな粉が光っている。


「何ですかそれ?」


「これはだな、私の家の倉庫に保管されていた謎の本だ!」


 古びた紙の匂いが部屋中に広がる。先輩は本を開き、とあるページを僕たちへ向けた。

 紙は年月を蓄えたように少し黄ばんでおり、端はざらりとしている。


「この本には、この学校周辺の心霊現象についてが記載されている。」


「なんでそんなものが先輩の家にあるんですか…?」


「ああ、一ノ瀬には言っていなかったな。私の家は代々神社を生業としてきたんだ。そのせいか、こういうものがよくあるんだ。」


「すごい家ですね…」


「それはさておき、ここを見てみろ。」


 先輩の指先が触れた場所には、霜晴台高校—―今、僕たちが通っているこの学校の名前が印字されていた。

 隣には旧校舎の白黒写真。雨に濡れたガラス越しのように、どこかぼやけて見える。見慣れた昇降口のはずなのに、昔の写真になると、そこに息を潜めた()()がいるように感じられた。


「え…この写真…今私たちがいる旧校舎じゃないですか。」


 雨音が強まった気がする。一つ一つの粒が、存在を主張するように窓にぶつかっている。写真の中の静けさとは対照的に、現実は雨音で埋め尽くされている。


「そう…この旧校舎には、過去に心霊現象が起きていたのだ。正直、私もとても驚いた。」


 先輩は机の上に本を置いた。ページには、いくつもの奇妙な見出し。—―「トイレの花子さん」「一段多い階段」「動く人体標本」—―それらが整然と並んでいる。どこかで聞いたことのある噂話のようでいて、紙に残されると途端に重みが増す。


「って。これ普通に学校の七不思議じゃないですか。」


「そうだな。だが、ここまで文献が残っているというのも珍しいだろう?」


 確かに、小学校で聞いた七不思議とは明らかに質が違う。あれはただの噂で、実際に見たことなどは一度もない。そこには七不思議という概念があっただけなのだ。


 だが、目の前の本には書き手がいて、保存した人がいて、その意思が何年も残っている。


 雨の音がさらに力を増し、窓に連続して叩きつけられる。外の世界が薄暗く沈んでいくのが分かる。

 帰りまでに止んでくれればいいのだが――さっきスマホで見た”大雨注意報”の文字が思い出される。


「…というか、旧校舎に部活が無いのって、それが原因なんじゃ…?」


 霧崎さんが恐る恐る口を開ける。声が小さく震え、言葉の端に湿り気が混じる。


 ちょうどその時、雷が一発、激しい音を立てて落ちた。


「きゃっ!」


 霧崎さんの悲鳴と同時に照明がふっと消え、部屋はまるで夜のように暗さを重ねた。近くで落ちた雷の音は、想像していたよりも厚く、胸の骨にまで響いた。空気が一瞬圧縮され、鼓膜の中でいつまでも余韻が震えているようだった。


「停電!?やだぁ!!」


「落ち着くんだ霧崎。とりあえず君たちはこの部屋にいなさい。私は職員室に向かう。」


 ドアが開く音が聞こえ、すぐに足早な足取りが廊下へと抜けていった。靴底が床に触れるリズムが、暗闇の中で遠のいていく。


「一ノ瀬君…そこにいる…?」


 近くから震えるような霧崎さんの声がした。時刻はまだ夕方と呼べる四時頃だが、空は厚い雨雲に覆われており、夜との境を失っている。外は豪雨、窓から差し込む光は無い。


 僕はポケットからスマホを取り出し、ライトをつけた。冷たい画面の光が手のひらを淡く照らし、周囲に陰影を作り出す。


 周りを照らしていると、いつの間にか霧崎さんが目の前にいた。


「うわっ。」


 予期せぬ近さに驚いて僕は椅子から転げ落ち、床に手をついて小さな衝撃を受ける。呼吸が一瞬速くなる。


「ちょっ。大丈夫?」


「……大丈夫だ。」


 僕は手を床についたまま、ぎこちなく立ち上がり、元の席に腰を下ろした。


「先輩は大丈夫かな…新校舎に行くまでに外でないといけないから…」


 部室に入った時の先輩は濡れている様子は無かった。おそらく、傘でも持っていたのだろう。


 暗闇に目が慣れてくると、霧崎の顔もようやく見えてくる。影に溶けた頬、濡れた髪が作るその輪郭が、スマホの光を拾っている。

 霧崎は言葉を発しない。ただ、小さく息を吐き、両手を膝の上でぎゅっと握っている。


「……」


 その沈黙は長く、雷の音と雨の音が代わる代わる音を作り出す。

 彼女が口を開かないのは怯えからか、それとも言葉を探しているからだろうか。


「……雷が怖いのか?」


 僕の問いに、霧崎さんはふっと肩をすくめ、そして少し、嬉しそうに答える。


「…うん!」


 その反応は不意に幼く見え、雷に怯える子供のような愛らしさを帯びていた。会話の輪郭がぼやけていても、こうした小さなやり取りがひときわ鮮やかに残る。


 だんだんと、僕から話しかけるのにも慣れてきた。彼女の過去を知ったからか、あるいは昔の彼女が今の僕と似ているからか。だが、理由を正確に言い当てることはできない。心の中で何かが変わるのを感じつつ、その変化の成り立ちを掴めずにいる。


 思い返すと、少し前の僕なら部活になんて絶対に来なかった。心霊現象部に入ったとしても、その名のとおり幽霊部員で終わっていただろう。


 だが、今は違う。僕は人…担任の先生、秋月先輩、そして霧崎さんと話し、声を出し、行動する。

 けれど、僕は僕を理解しようとすればするほど、その輪郭というのは溶けてしまうのだ。


「それにしても、先輩全然帰ってこないね。」


 スマホで時刻を確認すると、先輩が新校舎へと向かってから既におよそ十分が経っていた。

 窓に打ち付ける雨は一向に変わらない。息を詰めると外の洪水が、世界を抑え込み、こちらの時間を引き延ばしているようだ。


「電気も全然つかないし…」


 旧校舎だからだろうか、照明が点く様子は一向に見られない。


「……先輩が心配だから僕も新校舎に行ってみるよ。」


 誰かを案じる気持ちは、身体の外に出る時はじめて固くなる。僕は立ち上がり、スマホの光を頼りにドアへと向かう。


「えっ!ちょっと待って!私を一人にしないで!」


 霧崎さんが慌てて僕の服を引っ張る。


「それじゃあ…霧崎さんも行く?」


 僕がそう尋ねるが、彼女は未だに僕の裾を離さない。その強さから、言葉よりも確かな意志が伝わってくる。


「でも、先輩はここに残ってろって…」


 霧崎さんの声はふっと小さく鳴る。いつもの明るさが少しだけ後ろに下がり、慎重さが前に出ている。


「……けど、先輩を待っていたって状況は何も変わらない。僕は、行くよ。」


 僕は軽く彼女の手を軽く振りほどき、ドアに手をかける。行動することだけが、ここで出来る唯一のことなのだ。


「待って!!私も行く!!」


 霧崎さんの声が続き、僕たちは一緒に部室を出た。廊下は真っ暗で、目に見えるものはほとんどない。

 スマホの光は短い円を描くだけで、周囲を完全に掴みきることはできない。


 元から薄暗い旧校舎は、停電を境にさらに陰を増している。僕たちは慎重に足を運び、すべてのドアの前を通り過ぎるたびに、人の気配がないことを確かめるように視線を走らせた。


「…どうして心霊現象部だけ旧校舎にあるんだろうねー…。」


 霧崎さんがふと呟く。確かに、この校舎に部活が無いという事実はとても奇妙だ。


 だが、考えるよりも動くことに意味がある今、僕たちは昇降口へと歩を進める。光源が乏しいため自然と歩みは緩くなり、階段を下りるたびに靴の裏が短く床を擦る音がする。

 三階の一番奥にある部室から昇降口までは、距離以上に時間がかかる。


 突然、霧崎さんがピタリと立ち止まった。靴が床に触れる音が途切れる。


「…霧崎さん?」



 スマホの光で後ろにいる彼女の顔を照らすと、そこにはいつもの軽やかな影はなく、不意に揺れる不安が見えた。瞳が小さく揺れて、呼吸がほんの少し速くなっているのが分かる。


「…ねぇ、今の聞こえた…?」


 彼女の言葉には震えが含まれている。

 僕の耳に入ってくるのは、雨と僕たちの息遣いだけだ。だが、彼女の顔の色から、僕には聞こえない何かがあるのだとわかった。


「……特に何も聞こえなかったけど。」


 声を発した瞬間、不思議と背筋が冷たくなる。


「…今確かに聞こえたの…ピアノの音が。」


 ――ピアノの音。言葉が廊下の暗がりに落ちて、ゆっくりと震えを作る。

 さっき先輩が見せてきたほんの一節が頭の隅でつながる。—―夜、ひとり歩くと遠くでピアノが鳴るという記述。

 背筋がすうっと凍っていくのが分かる。嘘だと信じたかったものが、きしむように現実へと顔を出した。


「…あっ。そういえばさっきの本に書いてあった気がする。…ピアノの音が聞こえてくるって…」


 霧崎さんも本の記載を思い出したようだ。そして、霧崎さんの声に、彼女自身の動揺が滲んでいる。もともとは繊細だった彼女が、今はそれを抑えきれない様子だ。


「どうする…?」


 問いかけは小さい。霧崎さんの目が真剣に僕を見つめる。


「どうするって…」


 心のどこかが即座に逃げようとする。僕は、怖がりだ。そう言い聞かせると、身体が後ろへ引っ張られるような衝動にかられる。


「…見に行こうよ。」


 その一言は、彼女の中で好奇心が恐怖を押しのけた証拠だった。彼女の瞳の奥にはわずかな火が灯っている。


「……目的が変わっているじゃないか。今、なにより優先するべきは先輩に会うことだろ。」


 理性の声が冷たく表面に現れる。先輩のことを思えば、ここで立ち止まるわけにはいかない。


「でも、心霊現象部員としては見に行かないと!」


 霧崎さんの意志は揺るがない。部員としての矜持が、彼女を強く突き動かしていた。

 先ほどまでの怯えが嘘のように、彼女の顔つきが引き締まっている。


「はあ…。わかった。少しだけだぞ。」


 僕は渋々承諾する。


「本当に…?置いて行ったりしない…?」


「僕を何だと思っているんだ…。」


 本当は行きたくない。だが、霧崎さん一人に行かせるわけにもいかない。恐れと責任が同居した奇妙な感じが僕の胸の中で揺れる。


「で、ピアノの音はどこから聞こえたんだ?」


「今、私たちがいる場所の反対側から聞こえた気がする…。」


 僕たちは彼女の音の記憶を頼りに足を進める。


 廊下の床は雨の湿気を含んで冷たく、靴底に伝わる感触が鋭くなる。


 たどり着いた廊下の一番奥の部屋の前で、僕らは立ち止まる。部屋の扉は閉じられている。だが、ピアノの音は全く聞こえない。


「…本当にこっちから聞こえたのか?」


 霧崎さんは小さくうなずく。


「うん…。」


 その返事を交わした直後、どこからともなく孤立した一音が響いた。ぽろん、ぽろん。その一音一音がはっきりと耳に伝わった。


「……聞こえたか今の。」


「……うん。」


 音は、上の階からだった。僕たちは来た道を戻り、階段を上っていくと、音がだんだんと音がはっきりと聞こえてきた。暗がりを一段ずつ上るたびに、心臓の鼓動が足音と呼応する。


 そして、とうとうピアノが鳴っているであろう部屋の前まで来た。ドアは部室のドアよりも古びていて、相当長い間人の手が加わっていなかったことが分かる。


「…この部屋だよね。多分…」


 霧崎は不安げに僕を見る。その瞳は微かに揺れている。


「ああ…」


 部屋の中に人がいる気配は微塵も感じられない。空気はじっとしていて、音がするたびにそれをかき分けるように広がっていく。


「…開けるぞ。」


「…うん。」


 僕はドアに手をかけ、ゆっくりと、慎重に開ける。


 ドアが開くと、部屋の中央に置かれた一台のピアノが目に入る。灯りの無い照明の代わりに、窓から差し込む薄い光が楽器を照らしている。

 そのピアノは、どこか古めかしい艶を残していた。


 そして、ピアノの前に置かれている椅子に人が座っているのを、僕は確かに見た。肩から垂れた髪、儚げな姿—―それが人の形をしていることは間違いなかった。


「あ…あれって…ゆ、ゆ、幽霊…!」


 霧崎の声に呼応するように、僕の体も小刻みに震えだす。彼女の顔は青ざめ、瞳が大きく見開かれている。


 その”幽霊”はこちらの気配に気づいたのか、ピアノを弾くのを止め、ふらりと立ち上がってこちらに近づいてきた。歩幅は遅いが、一歩一歩、まるで何かを確かめるかのように近づいてくる。


「キャーーーーーー!!」


 霧崎さんが僕の耳元で叫び、僕は反射的に彼女を抱えて部屋の外へ出ようとした。だが、足は鉛のように動かない。小説でよく見る「足がすくむ」という表現を、まさか本当に味わうとは思っていなかった。


 だがその間にも幽霊は近づいてくる。やがて幽霊は僕たちの目前まで来た。息が詰まるような緊張の中で、その存在は思いがけない声を発した。


「こんにちは!」


 声は元気で、無邪気に響く。空気の濃度が一瞬で変わり、恐怖が少し薄れたような不思議な感覚が走る。


「こ、こんにちは?」


 僕は反射的に返事をした。口が勝手に動いたのだ。混乱と恐れが混じった奇妙なあいさつだった。


「ここはどこですか?」


 幽霊はなお続ける。


「こ、ここは霜晴台高校ですけど…」


「良かった!ちゃんとこっちに来られたんですね!」


 この幽霊が何を言っているのかは分からない。だが、ささやかな違和感よりも先に、彼女が幽霊かどうかという根本的な疑問が喉元まで上がる。


「あ、あの…あなたは幽霊ですか…?」


 僕が口を開くよりも先に、霧崎さんが恐る恐る幽霊に尋ねた。


「ん?私?そうだよ!幽霊だよ!」


 予想外の素直さ。幽霊自身があっけらかんと言い切ってしまった。思わず僕は息を呑む。現実感が薄れていく感触がする。


 驚きで言葉が出ないまま、ふと廊下側を見ると、停電していたはずの廊下に電気が点いていた。


 ドアの隙間から差し込む光が、部屋に僕の影を作り出す。だが、部屋の中にいる幽霊には影が無い。明確に、不可解に、そこだけ光の法則を逃れていた。


「あっ。いけない。まだ少し早かったみたい。」


 幽霊はそう言うと、ふっと姿を消した。


 部屋の中に残ったのは、鍵盤の余韻のような、一列の静けさだけだった。


「えっ…」


 声にならない声が漏れ、僕は自分の鼓動を確かめる。現実と、幻想の境界が、薄くなったのを感じた。


 その時、廊下の方から誰かが走ってくる音が聞こえた。


「あっ!おい君たち!部室で待っていろと言ったじゃないか!」


「せ、先輩~!」


 霧崎さんが震える身体で先輩の方へと振り向く。涙が溜まりかけた目が、安堵と混乱を同時に晒す。


 その様子を見て、僕の身体からも緊張がふっと抜け、力が抜けたように床に座り込む。


 目の前の出来事が現実であることを確かめるために、ただ呼吸をする。


「ど、どうしたんだ、二人とも。…もしかして、一ノ瀬に何かされたのか!!」


 先輩が霧崎さんに駆け寄り、引き寄せる。


「違いますって。僕が霧崎さんにそんなことするわけないじゃないですか…」


 霧崎はまだ震えを隠せていないのか、言葉を発さないまま顔を先輩の胸に沈める。僕は言葉を尽くして状況を説明しようとするが、こんな状況で先輩が信用するわけもなく、しばらくの間誤解は続いた。



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