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第九話

 夜の気配が、街灯の光の届かない公園の隅々までじわりと沈みこんでいた。

 …いつものように、私は木製のベンチに腰を下ろし、冷えた空気の中で自分の呼吸だけを数えていた。


 この場所だけが、世界から切り離されたように静かで、誰も私を見つけることは無い。


 そんな時—―まるで影が音を立てて形を成したかのように、男が現れた。


「お嬢さんひとり~?」


 軽く跳ねるような声色だった。

 夜の静けさと釣り合わないほど明るく、軽薄にも聞こえるその声の主は、若い男の人だった。


 私は言葉を返すことは無く、ただうつむき、喉の奥にこびりついた沈黙を貫いた。


 ――もう、どうにでもなればいい。


 そんな諦めが胸の底で乾いた音を立てていた。


 ()がいなくなってから、私は他人と話すことがますますできなくなった。

 声を出せば、また誰かが私を置いて行ってしまう気がしたのだ。かつて私を残して消えた()の影が、昼にも、夜にも私の後ろをついて回る。

 もともと人見知りだった性格に、その恐怖が重なって、私は自然と部屋という殻に閉じこもるようになった。


 ――そして、今日で終わらせるつもりだった。


 そう思っていた矢先、男が声をかけてきたのだ。


「無視?ひどいなぁ。お兄ちゃん泣いちゃうよ?」


 冗談めかした調子のまま、男は私の隣に少し離れて座った。

 ベンチが微かに軋み、目に見えない振動が夜の空気を震わした。


 私は黙ったまま、ただ自分の手のひらを眺めていた。指先に残る冷たさ、手のひらを伝う微かな震え、それらが内側から私を蝕んでいく。


「……」


「……」


 沈黙が重なる。周囲の音は遠く、遠くへと流れていき、夜の冷たさだけがゆっくりと降り注ぐ。


「どうしたのさ。小学生がこんな時間に。」


 彼の声には軽い嘲りの色もあるが、どこか他人事めいた温度が混ざっている。私は視線を手のひらから外し、公園の時計に目をやった。針は十一時を指している。時間は進んでいるはずなのに、ここだけ時間が止まっているような感じがした。


 この公園には、私とこの男以外、誰もいない。街灯の淡い光が、落ち葉の輪郭を軽くなぞる。


「なにか、悩みでもあるのかい?」


 悩み――その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かがひび割れる音がした。悩みなどというものはもうない。残っているのは、空洞と、そこへ流れ込む冷たい空気だけだ。


「黙っていたら何もわからないよー。」


 その通りだ。黙っていたら、周囲の人は私のことを見てくれない。だが、声が出ることは無い。


「……」


 私は小さく息を吐いた。もし、私がこの男の人のような性格であったのならば、一人ベンチにいることは無かっただろう。


「困ったなぁ。これは交番に連れていくしかないかぁ。」


 その言葉は、私の中で強く響いた。警察という単語は私の中で鋭く軋み、冷たい刃のように斬る。暴かれる寂しさ、見透かされる弱さ、拾ってほしかったはずの目が、逆に私を裁くように見える恐怖。思わず体が固まる。


 ――いやだ。絶対に。


 立ち上がる。木の板が軋みを立て、足元の砂利が細かく崩れる。逃げるための足取りは震えて、宙ぶらりんのように感じられた。


 だが、私が一歩を踏み出すよりも早く、いつの間にか男は私の目の前に立っていた。男の立ち方はとても自然で、その大きな影がさっと私の行く手を塞いだ。


「やましいことが無いなら普通は逃げないよ?」


 その言葉は、私を責めるでも慰めるわけでもなく、ただただ私に向かって投げられた。私は口をつぐみ、視線を地面へ落とす。


「……」


 気づけば、両目がいつの間にか滲んでいた。涙は自分の意志とは無関係に、頬を伝って落ちる。


「ごめん。君を泣かせるつもりは無かったんだ。ほらこれ、いる?」


 男は急に申し訳なそうな声色になり、右手をポケットに突っ込む。現れたのは小さな包み。シャカシャカと包み紙の擦れる音が聞こえる。


 差し出されたのは飴玉だった。包み紙がわずかに光を反射し、夜の闇の中で、まるで小さな星のように見えた。


「よかったら…悩み聞こうか?」


 その言葉には誠実さがあった。押しつけがましさも、嘲りもない。私が何も言わなくても、そこにいてくれる約束のようにも思えた。


 私は少し躊躇したが、手を伸ばす。指先が包み紙に触れたとき、感触が指先に広がった。飴は思いのほか重く、固さを持って手の中に収まる。


 男はそれは見届けると、不意に頬をほころばせ、満面の笑みを浮かべた。その笑顔がこの夜の闇をやわらげ、周りの空気を柔らかくする。


 私はゆっくりとベンチへ腰を下ろす。冷たく湿った木の感触が体に伝わる。男もまた、ためらわず隣に腰を下ろした。


「それで?なんでこんな夜遅くに外に出たんだい?もし僕が悪い人だったら今頃誘拐されちゃってるよ?」


 夜の空気は冷え、私の吐息は白く、すぐに散っていく。


「……」


 一生懸命声を出そうとするが、なかなか出ない。だが、男は急かすこともなく、ただただ待ってくれていた。


「……死のうと、思って。」


 口にしただけで、自分の身が軽くなる、だがそれと同時に世界そのものが遠ざかるような感覚に襲われた。


 目の縁が再び熱を帯びる。夜の冷気に負けじと、溢れ続ける。

 ふと、記憶の底から()が消えた日の光景がぼやけて浮かぶ。


「……死んだっていいことないよ。」


 男は、ただ淡々と、しかし温度を持って言った。

 その言葉は私の胸に深く触れた。


「…でもっ…でも、私は彼が…彼がいないと生きていけない。」


 ()は、私の世界の中心だったのだ。日々の小さな出来事も、()の存在があるからこそ意味をもっていたのだ。


「…僕に話してくれるかい?その、彼のことを。」


 私はゆっくりと息を吸い、言葉を繋ぎ始めた。性格のこと、彼と出会った経緯、日々重ねてきた些細な記憶の一つ一つを、私は一所懸命に吐き出した。


 不思議と、私の中で固まっていたものが解けていくような気がした。

 男は、私の話を聞き、時折うなずいた。


 なぜこの男は私にそこまで寄り添うのかは分からない。けれど、彼が最後まで聞いてくれたおかげで、今まで吐き出せなかったことを全部出すことが出来た。


「つまり、人と話すことが出来なかった君にとって、彼は唯一の友達だったけど、その彼も何も言わずに消えてしまったと。」


 私は首を縦に振る。そして、ふたたび哀しさが私の胸の奥で波打つのを感じた。


「でも僕には普通に喋れているじゃないか。」


「……おじさんは、私が無言でもどこかへ行ったりしないから……。」


 彼もまた消えるのではないかという恐れが、何より私を苛んでいた。だから、誰かが一緒にいてくれるという事実が、どれだけうれしいことか。


 男はふと表情を変え、真剣な目で私を見据えた。


「もし、君が人と話せるようになると言ったら、君はどう思う?」


 人と話せる――何回、その想像をしただろうか。数えきれない。だが、毎回その光景を想像するだけで、日常の輪郭が少しだけ鮮明になっていた。すべてのものが、少しだけ輝いて見えたのだ。


「……私は、人と話せるようになりたい……」


 声は細く震えた。


 そして、男の顔に柔らかな笑顔が浮かんだ。


「よし、分かった。それじゃあ、今から君にとても重大なことを話す。もしかしたら、君はそれにとても驚いてしまうかもしれない。それでも君は、僕の傍にいてくれるかい?」


 その提案に、驚きと恐れが交差する。その中で、私は遅れて答えた。


「……うん。一人には…しない。」


 一人になることの辛さを、私は一番知っているのだから。


「ははっ。頼もしいね。」


 男は笑い、軽くベンチから立ち上がる。街灯の光が彼の動きに沿って揺れ、彼はベンチから少し離れた場所へ歩いて行った。—―このままどこかへ行ってしまうのではないか。その考えが脳裏に浮かんだが、途端に男は動きを止めた。


 ――そして、信じがたいことが起きた。


 彼の足がふっと宙に浮き、体がゆっくりと地面から離れていく。人が空中に浮かぶというのは理屈の外にあるはずだが、それは目の前で現実として起きていた。


 男は静かに空中へと昇って行った。


 私は立ち上がる力もなく、ただその光景を見上げる。


「実はね、僕は幽霊なんだ。」


 その言葉は、暗闇の中で不意に響いた。小さいころに読んだ絵本のページが、記憶の奥から戻ってくる。

 幽霊とは悪戯好きで、時には人を連れ去るものだと思っていた。


 当時は幽霊に恐怖の感情を抱いていたが、今の私は恐怖というよりも、呆然していた。


 男はゆっくりと地面へ降り立ち、私のもとへ戻ってきた。浮遊の動きは滑らかで、まるで風が彼を運んだかのようだった。


「あれ…?大丈夫…?」


 彼は心配そうに尋ねる。私は必死に視線を引き締め、かすかに首を振った。


「……大丈夫です。」


 男はベンチに腰を下ろすと、わざと視線をそらしてそっぽを向いた。ふとした仕草には子供のような気恥ずかしさが混じっている。


「全く驚かないのは良いんだけど、これでも僕は幽霊だよ?少しくらい驚いてくれたっていいじゃん…。」


「……ごめんなさい。」


 私が謝ると、彼はすぐにこちらを向いて苦笑した。


「じょ、冗談だよ…。」


 男の顔には困ったような表情が浮かぶ。


「……なんで幽霊になったの?」


「それは…」


 短い沈黙が落ち、彼は静かに俯いた。


「車に轢かれちゃったんだ!信号無視の奴に!」


 その返答は明るく滑らかで、話の腰を折るための冗談めいているのだとわかったが、私は心のどこかでそれを疑った。彼の言葉の端々には、真実と嘘が混ざっていたのだ。


「まあ、話を戻そうか。実はね、人には魂というものが存在するんだ。」


 魂—―普段生きている中であまり聞くことは無いその単語は、静かに夜に響いた。


「魂にはすべてが詰まっているんだ。例えば、感情であったり、経験であったりと、とにかくすべてがそこにある。ここまでは分かる?」


「……うん。」


「良かった。そして、魂には一つ機能がある。それはね…譲渡することが可能なんだ。」


「……譲渡って何?」


「ああごめん。つまり、プレゼントすることが出来るんだ。そこで、君に僕からプレゼントを贈りたいんだ。」


「……どういうこと?」


 彼は静かに自分の胸へ手を入れた。幽霊であるならば可能の所作なのかもしれない。布を裂く音も、内臓を触る音もなく、彼はゆっくりと何かを取り出した。


「僕の勇気、というものを君にあげたいんだ。」


 彼は小さな光を取り出した。それは球体のように丸く、淡い黄色の光を放っていた。近づくだけで、手のひらに温かさが伝わる。光は冷たい夜の空気を温め、私の指先まで優しく届いた。


「これが、勇気だ。」


「……きれい。」


 私は思わず息を漏らす。


 光に不思議とまぶしさはなく、どこか母の手のぬくもりを想像させる。


「……実際には僕のじゃないんだけどね。でも、これは僕より君の方がふさわしいと思う。」


 その言葉に、私の身の小ささを再確認する。だれかに「ふさわしい」と言われることなんて今まで無かった。だからこそ、私が本当にふさわしいのかがわからない。


「…でも、そうしたらおじさんはどうなるの?」


 疑問が自然に口をついて出る。彼が勇気を失ってしまえば、私と同じように虚ろになるのではないかという恐れが、私の胸を締め付けた。


 男は優しく笑った。


「心配しないで。元の状態に戻るだけなんだ。ほら。手を出して。」


 その微笑みは揺ぎなく、私の震えをそっと解く。私はためらいながらも両手を差し出すと、彼はゆっくりとその光る玉を私の手のひらへ置いた。


「今日からそれは、君のものだ。」


 言葉は単純だが、その重さは計り知れない。私は、先ほど彼がしたように光の玉を私の胸に滑りこませた。胸の奥から何かが溶けていく、閉ざされた扉がきしりと音を立てて開いていく。


「それじゃあ、君はちゃんと生きるんだよ。」


 その最後の言葉は、やさしい押し戻しのように、私を現実へと引き戻した。彼の声が遠ざかる――それと当時に、意識が白くぼやけていった。胸の奥のぬくもりがやがて波のように広がり、次に来るものに抗えず、私はゆっくりと視界を閉じた。




「…おじさんっ!!」


 目を開けると、知らない天井があった。


 鼻を刺す消毒液の匂いで、ここが現実であることがわかった。

 私は、警察署にいた。


 どうやら公園のベンチで横になっているところを通報され、ここに運び込まれたという。


 しばらくして、ドアが勢いよく開いた。


 普段は家にほとんどいない両親が駆け込んできて、肩で荒く息をしながら、私の体を何度も確かめるように抱きしめた。


「……心配したんだぞ。」


「何があったの、どうして――」


 怒鳴り声に近かったが、それは初めて聞く”私を気にかける声”でもあった。胸の奥に張り付いていた氷が解けていくのを感じ、それが涙として目から流れた。


 ――生きていいんだ。


 そんな、当たり前の言葉を、私はようやく自分のものとして受け取った。




 次の日。


 家の玄関を出る足取りは、かすかに震えながらも、前へ進んでいた。

 学校へ向かう通学路は、以前と同じ風景のはずなのに、どこか見え方が違っていた。

 風が頬に触れるだけで、何か新しい世界へ押し出されているような気がした。


 最初にクラスメイトへ声をかけたとき、喉が固まって言葉が出なくなるのではないかと不安でいっぱいだった。


 けれど、口を開けば、言葉は驚くほど素直に流れ出ていった。

 つっかえることも、震えることもない。


 まるで、胸の奥に灯された”あの光”が私の声を支えているようだった。


 ――おじさんは一体、何者だったのだろう。


 学校から帰る途中、ふと立ち止まり、薄い雲が流れる空を見上げた。


 あの時私に差し出された、黄色い光。


 あの温度。


 あの微笑み。


 おじさんは本当に幽霊だったのか、それとも私の心が生んだ願いの形だったのか。


 その答えはもう確かめようがない。


 けれど、ひとつだけ、揺るぎようのない事実がある。


 ――あの人は、間違いなく私を救ってくれた。


 世界の置き去りにされていた私の手をとり、「生きろ」と、確かに言ってくれた。


 だから、私は今日も声を出す。


 たとえ小さな声でも、誰かのほうへ向かって伸びる。

 あの夜、あの公園で、私がもらった”勇気”が、今でも胸の奥で静かに光続けているから。


 私は歩き出す。


 ()と、おじさんがくれた勇気を抱いて。


 もう二度と、一人ではない未来へと。

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