1-10「初めの1歩」
広間の奥にある大時計が、低い音で時を告げた。
その響きに、マリアははっとして現実へ引き戻される。足の裏に感じる石床の冷たさ、手に抱えた証書の紙のざらりとした感触、天井から差し込む光の眩しさ──すべてが生々しく感じられ、夢ではないことを教えてくれる。
隣に立つエリーは、まだ証書を握りしめたまま視線を泳がせている。周囲に残っているのは、自分たちと同じように名前を呼ばれた者たちばかりだ。十代半ばの少年、傷だらけの腕を持つ傭兵風の男、修道服を着た少女……それぞれが胸に紙を抱え、低い声で囁き合っている。
マリアは小声でエリーに囁いた。
「エリー……みんな、私たちよりずっと強そう」
エリーはこくりと頷く。
「うん。あんな人たちと一緒に訓練するなんて、正直怖いよね。でも……でも、私、マリアさんが隣にいるから、ちょっとだけ心強い」
その言葉にマリアは、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。誰にも言えなかった夢。孤独な鍛錬の日々。それを見ていた誰かが、今こうして隣に立っている。
奥で試験官が新しい束の書類を整えながら、二人に声をかけてきた。
「そこの二人。こちらへ」
マリアとエリーはびくりと肩を震わせ、顔を見合わせた。足が勝手に前へ出る。試験官は二人を近くまで呼び寄せ、真っすぐな視線で見つめる。鋭い眼差しだが、どこか測るような温かみがある。
「名前は……マリア・エリーゼ、そしてエリー・クラークか。年齢は?」
「十歳です」
二人がそろって答えると、試験官は眉をわずかに上げた。だがすぐに表情を戻し、うなずく。
「若いな。だが、名に恥じぬ覚悟があるなら、年齢など関係ない」
その声に、マリアは背筋を伸ばした。
「はい、あります」
エリーも小さな声で続ける。
「わ、私も……あります」
試験官は二人の目を見て、しばらく沈黙した。静かな時間の中で、マリアはじっとその視線を受け止める。胸の奥に眠っていた炎が、また小さく揺らめいた。
やがて試験官はゆっくり口を開く。
「今日の試験は、ほんの入り口に過ぎない。これから先、お前たちが学ぶこと、失うもの、得るものは計り知れない。それでも歩むか?」
「はい」
マリアは迷わず答えた。エリーは一瞬息を詰め、それから力強く頷く。
「……歩みます」
試験官は満足そうに微笑み、二人の証書に指先で軽く触れた。
「よし。ではここでしばらく待機していろ。他の合格者と一緒に次の案内をする」
そう言い残し、彼は再び奥の机へ戻っていった。二人はゆっくりとその場に戻り、周囲を見渡す。
広間の空気は、さっきよりも落ち着いてきている。落選者たちの姿はもうなく、残っているのは合格者と試験官たちだけ。重厚な扉の向こうで、遠く兵士の足音が響いている。
マリアはふと、ステンドグラスの光に照らされる自分の影を見つめた。長い影が赤い絨毯に伸び、エリーの影と重なり合う。
エリーがそっと呟いた。
「ねえ……これから、どうなるんだろうね」
マリアは証書を胸に抱きしめ、深く息を吸った。
「わからない。でも、絶対に負けない。私、王になるためにここまで来たんだから」
エリーはマリアの顔を見て、少しだけ笑った。
「うん。私も、頑張る。隣で」
二人の手が自然に近づき、指先がほんの少し触れ合った。その温もりは、ステンドグラスの光よりも確かで、冷たい石床の感触よりもリアルだった。
広間の高い天井の下で、二人の小さな決意が静かに息づいていた。