第6話
夕方だというのに空が明るいのは、季節がまだ夏だからと教えてくれる。
青い空に浮かぶ幽霊みたいな欠けた月を見上げて、冷たくて気持ちのいい窓に手をついた。
白石さんから、距離を置かれた。
もしかしたら私の体に飽きちゃったのかなって不安に思うよりも先に、白石さんのものである証明を残してくれた。
だから多分、嫌われたりとかはしてないと思う。
胸元に残る赤い跡を指先で辿りながら、のぼせそうなくらい暑い室内でぼんやりと彼女のことを思い浮かべる。
『間宮』
名前を呼ぶ時の声だけは、感情がよくこもっていて、心臓がキュンとするから好き。
私の存在を証明してくれてるみたいな声色の心地よさは、鼓膜経由で脳を震わせて、多幸感を体の隅々まで行き渡らせる。
さびしい。
早く会いたい。
あんなにも痛くて、嫌だった行為も、する機会を失うと途端に心細くなる。
彼女と私を唯一繋いでくれる通路は、自分で触った方が気持ちよくて、よく滑る。
「っ……あ。白石さん…」
彼女に触られた時も、このくらい頭が白くなってくれればいいのに。
むわっとした温度と湿度が体中にまとわりついて気持ち悪い。仕方ないから、気だるい体を持ち上げて冷たいシャワーを浴びることにした。
入るついでに気になったところをスポンジで掃除して、時間を潰す。どうせやることがないから、少しでも意味ある行動をした方がいい。
前向きに思えるのは一瞬だけで、お風呂を出たらどっと疲れが押し寄せて、次の日の朝までぐっすり眠れた。
もうすぐ、夏休みに入る。
一緒に遊ぶような友達はなく、部活にも所属してない私の予定は皆無で、白石さんとも会えない。
一学期は校則で禁止されててできなかったし、寝潰しているだけだと母に怒られそうだから、スマホで気ままにバイトを探してみる。……接客は、できそうもないから除外。
結局、悩んだ末に近所のスーパーへ面接に行くことにした。仕事内容は品出しだ。
履歴書をひとつ書くにしてもうまくいかない私は、数百円分の紙を無駄にした辺りですでに心折れかけた。
それでもなんとか書き終えた一枚を持って面接へと出向いた結果、情けないことに頭が白くなって話した内容すら覚えていない。
唯一頭に残っているのは、値踏みされるような視線の後で、あからさまに落胆や貶しの交じる吐息感だけだった。
「……落ちたかな」
あまり良くなかった反応から、帰宅後は勝手に落ち込んで泣きたい気持ちで太ももにカミソリの刃を当てた。
ほんの少し、たかだか数分人と話しただけでこれだ。
自分の存在が恥ずかしくなって、余計なことを言ったかもしれないと心配になって、キモかったかなウザかったかなと思い込んで、他人の記憶から消えたくなる。
バイトが始まれば、嫌でも人と関わる機会が増える。そのたびに傷を増やしていては、そのうちいつか死んでしまう。……良くないって分かってるのに。
「……はい。……はい。ありがとうございます」
落ちると思っていたバイトの面接に受かった日も、電話を終えてから傷を一本増やしてしまった。
白石さんから連絡が来るまでの間に、二十五本。
私の体に増えた赤黒い線の数は、それだけ私が死に近付いていることを知らせていた。
死んだら、彼女は悲しんでくれるだろうか。それとも、せっかく救った命なのにと嘆くだろうか。
「久しぶり」
夏休みが始まって数週間、白石さんからの呼び出しがあって彼女の家にやってきた。
相変わらず親が仕事の時だけ家に招いてくれて、今日は珍しくリビングでショートケーキと冷たい紅茶を出してくれた。こんなにも好待遇なのは、初めてだ。
清潔さをこれでもかというほど保った室内にはクーラーの冷気が漂っていて、快適な温度を維持している。薄いカーテンの向こうに見える庭先では、色とりどりの花々が咲き乱れて風に揺れていた。
「……会えない間、何してた?」
「あ……えっと、バイト、はじめたよ」
「ふぅん。なんのバイト?」
「スーパーの、品出しの」
「そうなんだ。えらいね、間宮は」
三角の端っこをフォークで崩しながら褒めてくれた彼女の目は笑ってなくて、どうしてか恐怖の二文字が心臓にこびりつく。
「あ……あ、ば、バイト、勝手にはじめてごめん」
「どうして謝るの?良いことじゃん」
気のせい……かな。怒ってるように見えたの。
変にオドオドびくびくしていたらイライラさせちゃうかなって、頑張って笑顔を作ったら、白石さんもにっこり笑っていた。
用意してくれたケーキを食べた後はリビングのソファで過ごすことになって、テレビをつけたままふたり。
「……私ね、会えない間に勉強したの」
「っう、あ」
「濡れないなら、濡らせばいいって」
普段は家族が使ってる場所で、こんなこと。
罪悪感と羞恥心で胸がいっぱいで、自分の意志とは反して無理やり湿り気を促されるのも気持ち悪い。
「間宮から連絡なかったの、さびしかったな……」
「あっ……ご、ごめんなさ」
「私と会えなくても平気なんだ?」
「ち、ちが」
「かなしいなぁ」
久しぶりに入り込んできた指は乱暴で、痛みに耐えるためしがみついたら、骨ばった肉感と体温に包まれた。
あ……白石さんだ。
大切に扱われていないというのに、鼻孔をくすぐる彼女の匂いや服越しの質感、顔にかかる髪の動き全てが人間との繋がりを伝えてくれて、安堵へと変わる。
あとどのくらい、この苦痛に耐えればいいのか分からない。
それでも、孤独よりはマシだ、と。
「跡つけて……ください」
「……うん。かわいいね、間宮」
夏休みも終わりを迎える頃、私は初めて彼女にお願いをした。
二十六本目になるはずだった傷は、彼女のおかげで痛みの残らないひとつの赤い斑点になった。




