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第1話













 月が落ちる。


 暗転していく世界の中、私達は手を繋ぎ合った。


 次第に体温は空気の温度と溶け込んで、冷え切った風に晒された眼球からは月明かりが薄れていく。


「好きだよ、間宮」


 掠れきった声は虚しくも響き消え、鮮明な紅に囲まれた彼女からの返事はなかった。
















 即死だった。


 幼少期から飼っていた猫が、車に轢かれて死んだ。

 彼女との付き合いはかれこれ数年にも及び、私自身たいした世話はしてないが、気ままに愛でることはしていた。

 家から飛び出してすぐ、追いかけた先の道路で鉄の塊とぶち当たったのを見た時は、私まで心を殴られたかのような強い衝撃を受けた。

 内蔵破裂の影響か、臓物すら溢れていない綺麗な死体を、口やお尻の穴から流れ出た赤色が灰色のアスファルトに一本線を作る様を、ただただ見下ろした。

 

「みーちゃん」


 名前を呼んでも、命だったそれは反応を示さなかった。

 死んでいるのだから当たり前だ。私の声は今や、彼女にとっては鼓膜を揺らす空気の振動にすらならない無意味なものとなってしまった。


「みーちゃん」


 それなのに、声が出る。

 喉奥が熱く引き裂かれそうなほどなのに、私の脳は声帯を何度も揺らしては、瞳の奥から感情を水滴として排出させた。

 名前を連呼して地面に膝をつけ触れた体温は、まだ温度を失ってはいなかった。

 だからまだ生きてるんじゃないかと、胸に宿った希望が小さな体を持ち上げさせたけど、力ない四肢がだらりと下がるだけで終わった。


 死んだんだ。


 命は、こんなにも呆気ないものなんだということを知った。


「なんでちゃんと見てないの!」


 パートから帰ってきた母親からは、涙で震えた怒声をぶつけられた。

 母親がそんなにも悲しみ、怒りで涙したのは、誰よりも面倒を見ていた愛着の深さ故だろう。


「ごめんなさい」


 私は謝ることしかできなかった。


 頭の片隅では、どうして自分が怒られているのか不思議で仕方なかった。

 だって勝手に出て行ったのはみーちゃんで、私は玄関の扉を開けただけ。今までだって、外に飛び出すなんてこと何回もあった。

 今回はたまたま死んじゃっただけ。悲しいけど、彼女は運が悪かった。

 後日、灰になって戻ってきたみーちゃんはリビングの隅で写真と一緒に置かれ、動くペットが動かないペットへと変化した。

 些細な変化には、すぐに慣れた。 

 みーちゃんが死んだのは今から数年前。私が小学五年生の時だ。

 二十四時間を三百六十五回。それを何回も繰り返したら、海馬から大脳皮質へ移動した古い記憶は薄れ、彼女と過ごした日々を思い出すことも無くなっていた。


 ただ、死の瞬間を見た衝撃。


 それだけは、いつまでも心に根強く残った。


「みーちゃんは、痛かったのかな」


 あんなにも一瞬で撥ねられてたけど、痛みはあったのかな。怖かったのかな。苦しかったかな。

 考えていると、同じ痛みを味わってみたくなって、つい今日も自分の皮膚にカッターナイフの刃を当てた。

 裂けた所はじんじんと熱を持って熱くなるのに、そこから漏れ出る赤い液体は熱くないのが不思議だ。冷たくもない。

 血は温度を持ってないのかな。

 皮膚の上を滑り落ちて地面にいくつか水滴の跡を残す。赤い絵の具を溢したみたいだ。


「死ぬって、どんな感覚なのかな」


 調べてみたら、死の瞬間は気持ちいいと聞く。

 脳内麻薬とも呼ばれる成分が分泌されて、快感や幸福感に包まれるんだとか。

 それならあの瞬間、みーちゃんは幸せだったのかな。

 そう考えたら、死は何も悲しいことじゃない気がしてきた。むしろ、一種の救済であるかもしれない。

 

 日本の自殺率は年々増加傾向にあるらしい。


「みんな、幸せになりたいんだ」


 だから死を選ぶ。


 素晴らしい事にも思えてきて、止まらない体液が肌の上に作る赤い線を視線で辿りながら、ひとり小さな笑みを浮かべた。

 生きていても死んでいても幸福ならば、どちらを選んだってきっと良い。選択肢が増えるのはいいことだと、塾の先生も言っていた。

 私も選んでみたい。だけどまだ、死にたくはない。

 生きているのは楽しい。

 でも、何かが足りない。常に心が枯渇していて、息苦しくて、体内に淀んだ空気が流れ続けている。


 もう一度、見たい。


 命が消えてしまう瞬間を。


「……違うなぁ」


 初めは、虫からだった。


 彼らは簡単に命を奪える身近な生物で、特に蟻なんかは踏みつければすぐに死ぬから手っ取り早いかと思ったのに。

 実際は、物足りなさが増すだけだった。

 何が違うんだろう?原因を突き止めるため、私は母親にハムスターを飼いたいとねだった。

 みーちゃんの時と同じように、長く連れ添った生命が失われる瞬間を見れたら、今度こそ満足できると思ったから。

 母親は渋ったけど、最終的には「ちゃんと自分で世話をするなら」と許してくれた。

 だから休日、父親に連れて行かれたペットショップでハムスターを一匹と飼うための道具を揃え、帰路についた。

 その日から、殺すための飼育が始まった。

 死ぬ瞬間はもちろん、生きてる時も幸福を感じていてほしかったから、できるだけ自分なりの愛情をたくさん注いだ。

 脱走しないようにだけ気を付けて、たくさん抱っこしたし、たくさん撫でた。もちろん餌も好きなだけ食べさせてあげた。


 結果、名前さえつけていなかったハムスターは一ヶ月と持たずして死んだ。


 死因はストレスだった。


「……惜しいなぁ」


 小さな小さな死体を庭先に埋めながら、鬱憤が解消されなかったことに小首を傾げた。

 愛情を持って育てるまでは、よかった。虫の時よりは確実に心が動いた。けど、死ぬ瞬間が、ちょっと違った。

 良い収穫になったのは、やっぱり生き物と接するのは楽しいこと、愛着を持った時の方が死のダメージがダイレクトに響くのを知れたこと。

 悪い収穫は、インパクトの強い死に方じゃないと衝撃を得られないと知ってしまったこと。

 どうせ見るなら、死因は交通事故か……高い所から落とすのもありかもしれない。

 そうすれば地面とぶつかった時に破裂音が響いて、ひしゃげた四肢の悲惨さから、ひと目で死を実感できる。

 だから今度こそ……企みを持って母親にまたハムスターをお願いしてみたら、「すぐに死なせたから」という理由で拒否されてしまった。

 おかげでモヤモヤは晴らせず、悶々とした日常を送り続けることさらに数年。

 

 高校生になった私は、運命的な出会いを果たした。

 

「……君、死にたいの?」


 人影が見えたから立ち寄った学校の屋上。フェンスの向こうにいる人物に話しかけたら、その子は驚いて振り向いた。

 いかにも世間を恨んでそうな細く重い瞼の目に、そばかすの目立つ鼻、控えめな唇。

 手入れもあまりされてなさそうな野暮ったい黒髪が風に揺れて、今にも落ちてしまいそうな儚さを持った彼女は、私の心をあっさりと射抜いた。

 この子に愛情を持って育てて、その後で殺したらどうなるんだろう。

 どうせ捨てたいと願う命なら、私が貰っても良いんじゃないかな。


「どうせ死ぬなら……最後に私と付き合ってよ」


 一世一代の告白は、彼女にとっては冷やかしだと思われたらしい。

 何か叫び散らしながらフェンスの奥で咽び泣いた姿を、今ここで落ちたら台無しになっちゃうとハラハラした気分で眺めて、フェンス越しに手を伸ばした。

 興味がなさすぎて何を言ってるのか頭に入ってなかったけど、多分「からかうな」とか「馬鹿にしないで」とかそんなようなことをひたすら並べてたと思う。涙声で滑舌が悪すぎて、あんまり分からなかった。


「からかってもないし、馬鹿にもしてないよ」


 フェンスを掴んでいた相手の手に自分の手を重ねて、涙で汚れた相手の顔を真っ直ぐに見つめた。


「私と生きてよ」


 その日、私には人生で初めての恋人ができた。


 名前は、間宮純まみやじゅん


 常に死の気配が漂う、幸が薄そうな女の子だ。


 


 


 

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