1.
〈注意事項〉
※15歳以上推奨作品です。暴力表現、流血表現、荒い言葉遣い等を含みます。
※敬語表現に間違いがあるかもしれません。あまり気にしないでいただけると幸いです。
止まれ!
アリスは走り出しながら、心の中でそう叫んでいた。
青いボックスカーは猛スピードで友人に向かって来ている。このままでは、友人のシャラはこの鉄の塊にぶつかられてしまうだろう。そうなればどうなるかなんて、簡単に想像がつく。
止まれ!
止まれ!
車、止まれ!
「“止まって”……!」
友人に向かって手を伸ばすなか、口からポロっと心の声が漏れた。
キキーッというブレーキ音、驚いて動けないでいるシャラ、息をのむ目撃者たち。
アリスの目の前で車はシャラに突っ込んでいく。その様子が、まるでスローモーションのように見えた。
***
「世界には『言霊』という考えがある」
いつだったか、父はアリスにそう聞かせてくれた。
父はアリスと、兄のレオと同じ金髪で、エメラルドのような緑色の眼をしている。いつも仏頂面で、無口。そのくせに、兄とはよくコソコソと書斎で話し合っているのを見かける。
父の名は、ルイス・ランフォード。
父は貿易会社の社長で、森の中に隠れるように屋敷を建てた彼の元には、よく世界中からの客人が訪れる。彼の妻で、アリスたちにとって母に当たるアンは、「お仕事の話をしているから、アリーは書斎に近づいてはダメよ」というのだ。兄は混ざっているのに。
『言霊』について話してくれたのは、ある日のこと。ケニアからの客人たちが帰った後のことだった。足の悪い父のために、決められた時間にコーヒーを持っていく。すると、父は時々唐突にこうやって話し出すのだ。
「言葉に力がこもる、という考えだ。分かりやすい例を出そう。相手に『死ね』と言えば、相手はその言葉にこもった力によって、本当に死んでしまう。本当にこんなことがあると思うか?」
「ありえないよ、そんなこと」
コーヒーを父の事務机に置きながら、アリスはそう答えた。
「そんな力があったら、この世界はもっと殺伐としているはずだよ。だって、みんな相手を簡単に殺せるようになるんだもん。みんな不用意に話せないから、会話という文化は廃れるだろうし、軽口も叩けなくなる。そんなの楽しくないなぁ」
ルイスはコーヒーを飲みながら、アリスの言葉に耳を傾けた。
アリスは、こういう時のルイスの眼が少し苦手だった。父はまるで品定めでもするようにアリスを見てくるからだ。
「——————なるほど。じゃあ、超能力は?同級生にからかわれて、睨みつけたはずみに窓ガラスがはじけ飛ぶ。そんな漫画のような出来事は、どう説明する?」
アリスが分かりやすく体を震わせると、ルイスは「学校から連絡が来たぞ」とコーヒーをソーサーに戻し、ため息をつきながら言った。
「お前を明確な犯人とは思っていないようだけれど、『何か知っているんじゃないか』ってあからさまに疑っている電話がな。窓ガラスがはじけ飛んだなんて話、俺はお前から聞いたことがないんだが?」
「……わざとじゃないし」
アリスはそっぽを向いて言った。
「もし私が犯人だとしても、アイツらが悪いの。私とお兄ちゃんのこと、孤児だって笑って、悪口を言ってきたの。そんな訳ないじゃん。私、ちゃんとパパとママの娘なのに。なのに、みんな言うの。私とお兄ちゃん、パパとママと、瞳の色が違うでしょ?だから、別の家の子なんじゃないかって」
「……そんな奴らのことなんて放っておけ」
ルイスはイラつきを払うように左手を軽く振った。そして、カップの中のコーヒーを見つめながら「だが、よく覚えておけよ」と低い声で言った。
「その力を、もう外で使うな。コントロールしろ。そうでなければ、俺らはここにいられなくなるぞ」
アリスは黙って服の裾を握った。
この超能力の話は、まさにアリスが昨日学校で起こした事件だった。クラスの、アリスと馬の合わないグループの子たちがクスクスと笑いながら、わざとらしくこう言ったのだ。
「見て、孤児のアリスよ。引き取ってもらった先がお金持ちだったから、私たちと同じ学園に通えるのよ。物凄い悪運の持ち主よね」
アリスが通うのは、ここらでも有名なお金持ちの家の子供たちが通う学校だ。狭い世界では、特に話してもいないのに、子どもの情報がすぐに行き渡る。だから、誰かが言い出した「ランフォード兄妹孤児説」もすぐに広がった。
理由は、さっきアリスが言ったように瞳の色が原因だった。ルイスは金髪にエメラルドのような瞳、母のアンは赤茶色の髪に、黒い瞳を持っている。離れて暮らしているラファエルという一番上の兄は、赤茶色の髪に緑の瞳。だから、彼が血の繋がりを疑われたことはこれまで一度だってない。
しかし、アリスとレオは二人とも金髪だが、レオは空のような青い目をしていて、アリスは灰色の眼をしている。だから、兄妹というのも嘘ではないか、と言われることだって、決して珍しくない。おまけに、二人とも両親とはあまり似ていない。ルイスのような切れ長の目も、アンのような垂れ目もない。アンの短い髪は少しクセがあるのに、二人ともクセとは無縁のサラサラストレート。だが、ルイスとレオと、アリスが血縁関係にあるのは確実だ。アリスはそのことを疑ったことなど、これまでに一度もない。
「——————————わかってる」
アリスは昨日の映像を頭から締め出し、父に静かにこたえた。
「パワーを抑える。誰にも気づかれないように、見られないように。そうじゃないと、変な機関に連れていかれて、私たちはみんな、実験台にされちゃうんだもんね」
そう、アリスたちには誰にも話せない秘密がある。それが、今回アリスが暴走させた超能力だ。実はアリスだけではなく、兄のラファエルとレオも、父のルイスも、母のアンもこの力を持っている。だから、アリスは家族全員が確実に血縁なのだと信じて疑わなかった。母はきっと、別の超能力者の家系の人で、そこから父の元に嫁いできたのだろう。たまにしか会えない母方の祖父も、同じような力を持っているのだから。
この能力は、別に窓を割ることしかできないわけではない。レオは家でよく物をこの力で浮かせているし、アンは料理以外のほとんどの家事を超能力に任せている。アリスの家族は、ファンタジー世界のようなことが出来るのだ。こんな普通ではない家族の共通点、どうして血の繋がりが無いなどと言えるだろう。
***
目の前で車がビタッと止まったのを見て、アリスは呑気にそんなことを思い出していた。車とシャラの間はほんの数センチていどの空間しかない。
その隙にアリスはシャラの腕をつかんで友人を車の前からどかした。そして、ほっとした瞬間、車を止めていた力が消えてしまったのだろう。
車の時間が再び流れ始め、タイヤが横滑りしながら、車は信号機にぶつかって止まった。ガッシャン!という派手な音が上がり、周りは今、目の前で起こったことを反芻させ始めた。意外と、こういう時は誰も悲鳴をあげないらしい。
「今、車が止まったよね?でも、すぐにまたさっきのスピードで走り始めた……」
「なんというか、時間が止まったような感じがしなかったか?」
「あの子が『止まれ』って言ったら、車が止まったよね」
周りはチラチラと、アリスに視線を送り始めた。
アリスはというと、肩を震わせるシャラを抱きしめながら、真っ青な顔をしていた。父にあれほど気を付けろと言われていたのに、見られてしまった。しかも、こんな大勢の前で!
「アリス、もしかして……」
「しっ!とにかく、今はここから離れよう……」
アリスはシャラの手を引っ張って、そそくさとこの場から離れようとしたが、「待ってよ!」と一部始終を見ていた青年の一団が、アリスたちの前に立ちはだかった。興奮しているのか、鼻息が荒いし、何人かはスマホのカメラをこちらに向けている。
「君、車を止めたよね?誤魔化しても無駄だよ、ぼくらは全部見ていたんだから!君が『止まれ!』って言った途端、君の周りで空気が歪んだのを見たんだ。ねえ、もしかして、君は超能力者なんじゃないか?」
「ち、違う!そんなの、私にはできない!そこをどいてよ……」
アリスは青年たちをよけて行こうとしたが、腕をガッとつかまれてしまった。
「いや、きっとそうだよ!少し話をしないか?ぼくら、オカルト研究会のメンバーなんだ!君の力について、明らかにしようじゃないか!宇宙人っていると思う?ナスカの地上絵のことは?ネッシーみたいな、UMAって言われる生物のこと、どう思う!?」
「“離して”!」
アリスがそう叫んだとたん、その細い手首を握っていた青年の腕は変にねじりあがった。骨が折れ、皮膚を突き破って外に出てきた。半透明な骨が、血をまとって太陽の光に反射した。
「あ、あっ……!」
青年の言葉にならない声が、変に静かな周りに響いた。
周りの人たちは、顔を青くしてアリスから距離を取った。親友のシャラでさえも、アリスを化け物でもみるような目で見て、手を払って後退さった。
アリスは頭の中が真っ白になって、逃げるようにその場から走り出した。いつの間にか、野次馬に囲まれていたようだが、その人たちは走ってくるアリスを見ると潮が引くように道を作った。アリスに近づけば、自分たちも青年と同じことになると思っているのだろう。
だが、そんなことを気にすることなく、アリスは全力で家までの道を走った。涙があふれ出てきて、視界が歪む。それに、足が震えるせいで上手く前に進めない。でも、止まることもできない。
どうして、自分が逃げているんだろう。
どうして、あんな風に拒絶されなければならないのだろう。
自分は、家族は、変な機関に連れていかれて実験台にされてしまうのだろうか。
疑問が心の中で渦を巻いて、不安で不安で仕方なくなる。
そんな時、前方に見慣れた金髪の少年が見えた。アリスと同じ学校の、男子の制服。この道を通る同じ学校の金髪少年など、一人しかいない。他に比べて小さなその後姿が、とても恋しくてたまらなくなった。
「お兄ちゃん……!」
アリスの口から出たのは、かすれた、ほとんど息が抜けるような声だった。それでも、兄はゆっくりと振り向いた。涙と汗でぐちゃぐちゃな顔のアリスを見て、青い瞳が大きく見開かれた。
「どうした?」
自分の胸の中に飛び込んできた妹に、レオはつられて切羽詰まった声で尋ねたが、アリスはレオの胸の中で泣きじゃくるだけだ。これでは、何があったのかわからない。だが、非常事態なのはすぐにわかった。
「いたぞ!捕まえろ!」
アリスを追ってきた、例の男の仲間たちがアリスを指さして叫んだ。「警察に突き出すのは後だ!あいつに怪我をさせた落とし前を付けさせてやる!」
レオはそれで、何があったのかを何となく察した。
「アリス……。お前、もしかして力を使ったのか?」
アリスは泣きながら首を縦に振った。だが、何があったのか説明をする余裕はない。
レオの周りで空気がピリついた。周りで火花がはじける。動揺してしまったせいで、レオの力も暴走しかけているのだ。それでも、レオはあくまでも冷静に、力をコントロールしようと集中力を高めた。
「“レオ・ランフォードが命じる。止まれ。俺の許可が下りるまで、お前たちが動くのを禁止する”」
妙に澄んだレオの声が響くと、アリスを追って来てきた一団はピタッと固まった。さっきアリスが止めた車のように。まるで石造のようだ。
レオはアリスを立ち上がらせると、手を引っ張って家への道を急いだ。
「何があったのかは分からないけれど、とにかく泣くのはやめろ。父さんなら絶対に何とかしてくれるはずだ」
***
「——————————ルイス先生、正気ですか?陛下の予言をこれ以上無視し続けると、他の上級魔術師たちが黙っていません。そろそろ、がなり立て始めますよ?」
「正気だよ。それに、もうだいぶ前からアイツらはがなってる。趣味か何かなんだろう」
ルイスは杖を突いて歩きながら、自分の補助役のアジア人の少年に答えた。
二人とも、白を基調とした騎士団のような制服姿で、左胸には白い羽をかたどった小さなバッジをつけていた。羽の根元に宝石が埋め込まれたそれは、人によって宝石の種類も、羽の枚数も違っている。少年は一枚だが、ルイスは三枚。羽が複数枚の人は、扇形になるように羽が広げられていた。周りは、彼らと同じような格好をした人たちばかりだから、ルイスが普段着ているスリーピース姿の方が浮いてしまうだろう。
そんなルイスについて歩く少年は黒髪黒目、女の子のような中性的な顔立ちをしていて、そのせいか随分と幼く見える。彼が胸に抱いている分厚い紙の束は、今までルイスが出席していた会議の資料だ。
「誰に何と言われようと、レオとアリスは別世界で育てる。ヘレナたちがああなった以上、アイツらをこの世界に置いていられない。要は、五つの正当な血が集まらなければいいんだ。こっちはユリアの子孫と知られているんだから、むしろ姿を隠した方が得策だろう」
「でも、フォティアはヘレナ先生も、皇帝一家もいらっしゃるじゃないですか。二人の姿を隠したところで、変わらないと思いますけど……」
「皓然」
ルイスは立ち止まり、皓然と呼んだ少年に、冷たい視線を向けた。
「お前は俺付きの初級魔術師だろう。あのジジババ共の味方をするなら、今すぐにでも解雇してやってもいいんだぞ」
「あなた付きの初級魔術師だからこそ、言っているんです」
皓然はルイスの睨みにひるむことなく、黒い瞳でまっすぐにルイスを睨み返した。
「それに、そろそろ限界でしょう。聞きましたよ。二人とも……、特に、アリスが力を制御できていないって。非魔術師である別世界の人間にとって、ぼくらは恐怖の対象でしかありません。いつか絶対、傷つくことになります」
そんなことくらい、皓然に指摘されなくても理解しているつもりだ。だが、こうすること以外、ルイスには何も思いつかないのだ。
レオとアリスの二人を、本当の母親から遠ざけること以外に、何も。
「ああ、いた!ルイス先生!」
会議場の方から、栗色のポニーテールを左右に揺らしながら少女が走ってきた。顔は真っ青で、時折ずり落ちてきた眼鏡を押し上げている。
「大変です、今すぐこれを見てください!」
少女はそう言うと、手に持っていたタブレットを操作して、ある映像を再生させた。
板の上に、アリスと車、そして、周りにいた人々が立体映像となって浮かび上がった。
猛スピードで走ってきた車は女の子をはねる直前に止まり、アリスが女の子を車の前からどけると、再び車は元のスピードで走り出して、信号にぶつかって止まった。さらに、もう一つの映像では、アリスの腕をつかんだ青年の腕がねじりあがった。周りの人々はアリスを拒絶して離れ、アリスはその場から逃げるように走り去っていった。
「こ、これ……!この子、アリスですよね?走って行った金髪の子!」
皓然も顔を真っ青にしてルイスを見つめたが、ルイスもまた、真っ青な顔をして再生されている動画に釘付けになっていた。だから、女の子が代わりに「そうだよ!」と皓然に答えてやった。
「だから大変なんだ!先生、この動画が別世界のサイトにアップされているんです!もう何万回と再生されています!それに、カバンが落ちていたから、家や学校、名前まで特定されているみたいです!」
「……別世界に戻る」
ルイスは皓然と少女に短く宣言した。そして、杖を突きながら「皓然!」と自分の付き人の少年を呼んだ。
「お前も来い。俺のサポートをする魔術師が欲しい。保安とメアリーには俺から話を通しておく」
「は、はい!」
皓然は上ずった声で返事をした。そして「クロエ!」と自分の影に向かって叫んだ。
皓然の影の中から三本足の烏が飛び出して、皓然の肩に止まった。
「本当、人生は上手くいかない」
ルイスはそうぼやくと、皓然を連れて別世界への道を急いだ。
***
「すいません、少しお話を伺ってもいいですか!?」
「お前ら化け物なんだろ!」
外から絶え間なく聞こえてくる言葉たちに、アリスは母の腕の中で小さくなった。
レオに連れられて家に帰ってきてから数時間。アリスが力を使った一連の事件はばっちり動画に収められていて、それがネット上に出回ったがために、こうして家に記者や警察、野次馬などがやってくる羽目になっていた。電話と、ドアをノックする音が鳴りやまないし、罵詈雑言や石を投げてくる人もいる。人間をこんなに怖く感じたのは、これが初めてだった。
「ママ……!」
「大丈夫よ、アリス。パパが帰ってきたら、あんな人達、すぐに家に帰って行くわよ」
アンはアリスの金髪を優しくなでて、黒い瞳をレオに向けた。
レオもこの状況にストレスを感じているらしく、ずっと親指の爪を噛んでいる。彼の周りでは火花が散っているから、床や壁には焼け焦げた跡がいくつも出来てしまっていた。
そんな中、アリスの足元で細いしっぽを振っていた黒猫のルーナがおもむろに顔をあげ、扉をカリカリとひっかき始めた。外に出たいアピールだ。
「ダメよ、ルーナ。気持ちはわかるけれど、今は外に出れないわ。ルイスに何とかしてもらいましょう……」
ルーナは不服そうな鳴き声を上げると、ソファの上に飛び乗って、励ますようにアリスの足に額をこすりつけた。
「おお、ルイス・ランフォードが帰って来たぞ!」
外から、そんな声が聞こえてすぐに、あの騒がしさは嘘のように止んだ。誰も声を張り上げてこないし、ドアも叩かれない。しつこく鳴っていた電話さえも黙りこんで、久しぶりにシンとした空気が帰ってきた。
それからすぐに、ルイスがリビングに姿を現した。いつも綺麗にセットされている金髪は乱れているし、息が上がっている。急いで帰ってきたせいで、服装はまだあの騎士団のような制服のままだった。
「父さん、外にいた人たちは?」
「全員止まってもらった。今は皓然が奴らの面倒を見てるよ」
ルイスはレオに答えると、妻の腕の中で小さくなって泣いている娘に、「何があったのか、動画を見た」と静かに語りかけた。
泣きはらした顔を上げたアリスに、「よくやった」とルイスは笑顔を見せて、涙にぬれた彼女の頬にそっと触れた。
てっきり怒られると思っていたアリスは、赤くなった目を丸くして父を見上げた。
「怪我人を出して、力をばらしてしまったとはいえ、お前は友だちの命を救ったんだ。そのことを忘れるな」
「……力がバレてしまったこと、怒らないの?」
「あれは仕方のない状況だった。……きっと、上も怒ることは無いだろうさ」
アリスが泣き止むと、ルイスは「さて」と窓を開けた。
玄関前の庭では、報道陣やら警察やら、数十人の人間たちが固まっている。昼間、レオが固めた青年たちのように。
その中で、一人だけ動き回っている影があった。黒い髪のせいで、夜の暗闇の中ではすぐに見つけられない。制服の色が白メインでなければ、全く見えなかっただろう。その影は、庭にいる人たち全員に白い札を付けて回っていた。
「皓然、それが終わったら中に入ってこい。手伝ってほしいことがあるんだ」
「もう終わりましたよ!玄関から入れないのですが、どこから入ればいいですか?」
「とりあえず、ここから入ってこい」
影————皓然は元気よく返事をすると、ひらりと窓から部屋の中に入ってきた。ここは二階だというのに。後から入ってきた烏は、皓然の左肩にとまった。黒髪の少年は、アンとレオ、驚いているアリスに深々と頭を下げた。
「窓からの突然の訪問で、失礼します。お久しぶりです、アン先生。それに、レオも。最後にあったのは、二か月前の集まりの時でしたよね」
それから、皓然はアリスに優しく微笑んだ。なぜか、その笑みを見ていると安心することが出来るのだから、不思議だ。彼の柔らかな雰囲気のせいだろうか。
「初めまして。ぼくは皓然と言います。ルイス先生とレオを通して、君の話は聞いています。それから、こっちは使い魔のクロエです」
皓然の肩の上でヤタガラスがアリスにお辞儀したので、アリスをまた驚かせた。
「えっと、アリスと言います。よろしくね」
皓然は笑顔で頷くとルイスに視線を向けて、「それで、ぼくはどうすればいいですか?」と尋ねた。
「札なら、全員に貼ってあるので、あとは術を発動させるだけで終わりますよ」
「それは俺とアンでやっておく。お前とレオは、アリスに俺ら魔術師のことを教えてやって欲しい。……お前に言われた通りだ。レオとアリスは、魔術界に戻すよ」
「え?」
アリスは耳を疑った。いや、さっきから意味の分からないことばかり起こっているのだが、これにはさすがに反応してしまった。
皓然はアリスの反応を見て「え?」とこちらも驚いた。
「ルイス先生。まさか、彼女には何も教えていらっしゃらないのですか?」
「だから、言っただろう。二人をこの世界で育てるつもりだったって。でも、こうなってしまったということは、お前が言う通り、もう限界なのだろう」
アンはアリスの頭をなでながら、「ごめんね」と語りかけた。
「私たちは超能力者なんかじゃないわ。魔術師という、自然が作り出したエネルギーである魔力を、魔術として扱える種類の人間なのよ。ルイスはね、あなたたちのパワーが強すぎて、もう隠せないから、あなたたちの故郷———————私たち魔術師がたくさんいる世界に、あなたたち兄妹を戻そうと言っているの」
「……ラファお兄ちゃんと、おじいちゃんも一緒?」
「そうよ」
「……。それで、こうなっちゃったのは、私のせい?」
「いや、お前のせいじゃない。俺も裏で結構やらかしているし……」
そう言いながら、レオは「あ」と声を漏らした。アリスと家に帰ってくる途中、追いかけてきた一団に止まらせる術をかけっぱなしにしてきたことを思い出したのだ。
「うわ、完全に忘れてたよ。アイツらにかけた術を解きに行かないと……」
「じゃあ、丁度いいから一緒に行きましょう。実際に見た方が早いでしょう」
皓然は金髪の兄妹に「それでいいですか?」と同意を求めた。
二人が頷くと、「大丈夫。行くまでの間に、簡単な説明はしますからね」と、黒髪の少年はアリスを安心させるように言った。
「じゃあ、解散だ」
ルイスは空気を切り替えるように、手を一度たたいた。
「俺らは多分、今日はもう帰ってこないから、先に寝ててくれ。ちゃんと戸締りするんだぞ」
「それから、ちゃんとシャワーも浴びてね。皓然も、客間に泊まってちょうだい。ルーナが案内するわ」
アンの足元で、黒猫が返事をするように鳴いた。
皓然は床に膝をついて、黒猫の顎を撫でながら「お願いしますね」と猫に語り掛けた。
両親より先に、子どもたちが家を出た。とはいっても、玄関は野次馬たちが固めてしまっているため、アリスたちは皓然がさっき入ってきた窓から外に出た。二階から家を出るのは初めてだったが、それよりも恐ろしいことがアリスを待ち構えていた。
庭は人でごった返していたのだ。アリスから小さな悲鳴を上げさせたが、彼らはアリスたちに気付いてなどいない。ただ、屋敷の方に向かって口を開いている。その全員の背中に、白くて細長い長方形の紙が貼られていた。紙には、黒い墨で何かの文字が書かれている。
二人を先導していた皓然は猫のような身軽さで地面に降り立つと、次にレオを地面におろし、アリスのことはレオの力で地面にふわりと着地させた。
「ルイス先生が、ここにいる人たちの時間を止めてしまったんですよ。それはもう、一瞬で」
「父さんは色々と規格外だからなぁ。ところで、この札は?」
「ぼくの姉さんお手製、同調札です」
皓然はレオとアリスに、野次馬たちに貼っている札の一枚を見せた。
「この札が貼られたものは、同じ魔力の波長のものとシンクロします。だから、一人一人に記憶喪失の術をかけなくても、この中の一人にだけ術をかければ、札が貼られている人全員に同じ強さの術がかかるんです。そっちの方が、色々と楽でしょう?」
「記憶喪失の術なんてあるの?」
「ありますよ」皓然は肩をすくめてアリスに答えた。
「とはいっても、普通は禁止されていますけどね。でも、ルイス先生とアン先生は特別です。『守り人』には非常事態下でのみ、使用が許されているんです」
「『守り人』?」
「魔術界出身の人たちの存在を、文字通り守ることが目的です。今回だと、君たち。ぼくら魔術師の存在がバレてしまうと今のようになってしまいますし、解剖なんてされたら、ひとたまりもないでしょう?だから、関わった人たちの記憶を消したり、ぼくらがいる証拠を消したりする役割の人が必要になるんです。それが、あのお二人。まあ、魔術師に関わらず、妖精やドラゴンなんかも含まれますけど……」
つまるところ、彼が来た魔術界という所には、妖精やドラゴンがいる、ファンタジー世界のようなところである、ということだ。そして、自分たちもそこからやって来た魔術師で、しかも、両親は「先生」と呼ばれる立場らしい。
青年たちの元へ行く道すがら、皓然はアリスに魔術師や、魔術のことを教えてくれた。それらをまとめると、こうだ。
魔術界とは、精霊界と、今いるこの別世界の間にある、もう一つの世界。そこには、魔術師や、さっきも言っていたようなドラゴンもいるし、ユニコーンやペガサスなど、空想上の生物と考えられていた生き物たちが住んでいる。妖精たちは、精霊界から遊びに来ているのだそうだ。
そして、魔術師や魔法使いたちは、精霊界から流れてくる魔力を使って、魔法や魔術をかけることが出来る。
さらに、魔術師には階級が存在する。下から順に初級、中級、上級見習い、上級と四段階。魔法使いとは、魔術師以外の魔力発現者——————魔力を扱える人のことを指す。皓然は初級魔術師で、ルイスとアンは上級魔術師。上級は下の階級の者たちに魔術の指導をするので、彼は両親のことを「先生」と呼んでいたのだ。
そして、魔術。魔術とは、魔力を魔術師の体で変換して術として使われる。つまり、『魔力』という素材に『魔術師』が手を施して、『魔術』という作品が出来上がるのだ。修行年数や魔力の練度によって魔術の質も変わってくるというのだから不思議だ。
だからと言って、すぐに信じられるのかと言えば、そうでもないのだ。アリスはそれらの説明を、頭が働いていない状態で聞いていた。だって、夢のようなことばかり起こっているから。
「じゃあ、その世界の人たちはみんな魔術師ってこと?」
「いいえ。どちらかというと、みんな魔法使いです。魔術師になるのはそのうちのごく少数ですよ。魔術師って言うのは、公務員と同じなんです。それに、なりたいと思ってなれるものでもないし」
「つまり、魔術師志望でも必ずなれるわけじゃないんだね」
「そう言うことです」
皓然はアリスに笑いかけてから、すぐに表情を引き締めて前を見据えた。
「さて、彼らですね?」
皓然は暗闇の中、石像になっている青年たちを見つけて、興味深げに見て回った。数時間もこんな形で放置されているにも関わらず、彼らはレオに術をかけられたままの姿で、そこに佇んでいた。
「別世界、それも初級でこんなに術を長持ちさせるなんて。さすがですね、レオ。これ解けます?」
「解けるけど、いいのか?父さんたちに記憶を消してもらった方が良いんじゃ?」
「いや、彼らは残しておいていいそうです。こういうタイプは、痛い目を見ないと学ばないので。あの状況でアリスを追って来たんですから、深めに釘を刺しておかないと」
レオは肩をすくめると、アリスの目の前で右の指をパチンと鳴らした。
カチッという音が響き、青年たちの時がまた流れ始めた。昼間の車と同じだ。最初、彼らは元のスピードで動き出したが、目の前にアリスとレオだけでなく、見知らぬアジア人の少年がいるのを見て、思わず足を止めた。それから、いつの間にか夜になっていることにも。さっきまで午後の三時を少し過ぎたくらいだったというのに。
「あ、忘れてました。スマホ持ってますよね?もしカメラを回しているのなら、止めていただきたいんですけど」
皓然は臆することなく前に進み出て、青年たちにニコッと笑った。
「あ?なんだ、お前。へんてこな格好しやがって!そいつらの仲間か?」
青年の一人が、皓然の胸倉をつかんだ。クロエは皓然の肩から羽ばたき、少し離れたところにある街灯に着地して、事の次第を見守った。
「離してください。それから、録画もやめてください。急いでいるので、これが最後ですよ」
「チビが偉そうにモノを言ってんじゃねぇよ!」
青年は皓然を殴ろうと腕を振り上げたが、それが降り下げられることは無かった。青年に捕まれていた皓然が、相手の股間に蹴りを入れたからだ。青年は声にならない悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。
「だから、言ったでしょう。ほら、あなたたちもこうなりたくなかったら、大人しく従ってください」
有無を言わせぬ皓然の圧に、何人かはスマホを持つ手を下げた。だが、これに逆上したのも何人かいて、「ふざけるな!」と懐からナイフを取り出した。
「ちょっ……!お兄ちゃん、止めて!」
アリスが真っ青な顔で兄の腕に縋り付くと、レオは「まあ、見とけ」とのんびりと妹に言った。
「アイツらじゃ、ナイフを持ったところで、束になっても皓然には敵わないよ」
ナイフを持った青年の一人が、皓然に向かって鈍く光るナイフを突き出した。だが、それは片足を軸にした皓然に、ひらりとかわされてしまった。おまけに、鳩尾に膝蹴りを食らわされた。
「うわああ!」
もう一人が雄叫びを上げながらナイフを皓然に振り下ろした。自分たちと、このちっぽけな少年では、レベルが全く違ことに気付いたのだ。顔は恐怖で引きつっている。
案の定、青年の攻撃は簡単によけられてしまった。それに、パッと出された皓然の足につまずいて派手に顔からこけた。
「物騒な人たち」
皓然はそうつぶやくと、たった今転んだ青年の手を踏みつけて、開いた手からナイフを取り上げた。残りの面々は青い顔で後退った。
「さて、次は誰ですか?」
皓然は手の中でナイフを遊ばせながら、青年たちに笑顔を向けた。さっきまでアリスに向けていたものとは違う、心臓が凍り付くのではないか、と思えるような冷たい笑顔だ。
青年たちは倒れた仲間を回収して、バタバタと走り去っていった。昼間のアリスと形成が逆転している。
「アイツ、色々あって戦闘民族の小人に育てられたからか、暴漢の制圧が得意なんだ。皓然が刀を持っていなくて、あの人たちはラッキーだったよ」
レオは妹に耳打ちした。皓然の一番の得意分野はまた別。それに関しては現役の衛兵でも歯が立たないレベルだ。彼はあまり素手の体術が得意ではないらしいが、自分よりは出来るので、レオは皓然に稽古をつけてもらっているのだ。
皓然は肩をすくめると、ナイフをハンカチに包んでスラックスのポケットにしまい込み、ヤタガラスに向かって腕を伸ばした。
烏は皓然の腕に下りてきて、いつもの定位置、肩までは足でちょこちょこ歩きながら移動した。
「はい、これでおしまい。帰りましょうか。君たちも、疲れたでしょう?」
レオは「うん」と頷き、アリスは体を強張らせながらうなずいた。色々とあったせいで、自分たちを守ってくれたこの少年でさえも、信用できるのかわからなくなってしまった。
だって、もしも皓然がその気になったら、アリスたちではきっと彼に敵わない。
それに何より、急に色々な話をされて、目の前で起こって……。脳が半分ショートしているから、余計に理解が追い付かない。
「おい、アリス」
「大丈夫、慣れているので」
レオはアリスに「失礼だろ」とでも言いたそうな顔を向け、皓然はレオに笑顔を見せた。どうやら、アリスの顔が引きつっている理由は、全て皓然自身にあると思っているらしい。
「それより、帰りましょう。ここで別の人と鉢合わせたら、そっちの方がよっぽど面倒です。魔術師とはいえ、ぼくらだってまだ子供なんですから。夜中に子どもたちだけで歩いていたら、また別の方で騒がれますよ」
「それもそうだな」
レオは皓然に、ニヤリと笑った。
「それにお前、見た目は十歳くらいだもんな。そんな小さな子がいたら、確かに警察が騒ぎ出しそうだ」
「え?違うの?」
思わずアリスはそう口走って、慌てて口をつぐんだ。皓然が分かりやすく唇を尖らせているからだ。見た目に関することは、どうやら禁句らしい。
「違います!これでも十四です。十歳なんて言われたのは君で初めてですよ」
「年上じゃん!」
アリスはほとんど悲鳴のような声を上げた。アジア人は若く見えると聞いたことはあるのだが、まさか、ここまでとは思わなかった。十歳とまではいかないが、アリスと同じくらいか、年下だと思っていた。
「ほんと、失礼しちゃいますよ。どこに行っても保護者がいるか確認を取られるし、服なんて子供服しかサイズが合わないし、君たちはこうやってからかってくるし!」
「ご、ごめんなさい……!でも、羨ましいよ、若く見られるなんて。それに、服のサイズはよくわかる。私も、背が低いから同じ悩みを持っているから……」
皓然はパッと顔を輝かせた。まさか、ここで悩みを共有できるとは!
だが、それを見てレオが「本当、幼いな」と呟いたので、皓然はまた顔をムスッとさせた。
アリスはそれを見て、兄を小突いた。
「ごめん、ごめん。でもほら、アリスと打ち解けられただろ?」
言われてみれば、とアリスと皓然は顔を見合わせた。衝撃の事実のおかげで、普通に話せるようになっている。
「本当だ」
皓然はふにゃっと笑ったので、アリスもつられて声をあげて笑った。皓然には言えないが、やはり、年上には見えない。
「やっぱり、レオには敵わないなぁ」
「当たり前だろ。ここは、唯一、二人を知っている俺が仲介に入らないとだからね」
レオは二人に「それより、早く帰るぞ」と合図して歩き出した。
***
アリスはふと目を覚ました。窓からは柔らかな朝の陽ざしが入ってきている。すがすがしい朝だ。昨日泣いたせいで、顔が腫れぼったいが。そして、枕もとの目覚まし時計を見て、はね起きた。
時計の針は九時半を過ぎている。昨日は水曜日で、今日は木曜日。つまり、遅刻するのは確実だ。それどころか、授業はもう始まっている。
アリスはパジャマを脱ぎ捨て、クローゼットを勢いよく開けた。そして制服をガッと掴むと、ブラウスとスカート、そしてベストだけ身に着けて、ネクタイを結びながらキッチンにバタバタと下りて行った。
「ママ、お兄ちゃん!どうして起こしてくれなかったの……」
リビングのドアを勢いよく開け放して、アリスはパンにかぶりつくアジア人の少年と目が合った。他にも、レオとアン、それにルイスの三人もいる。
「アリス、あなた昨日ちゃんと目元を冷やさないで寝たでしょう。目が腫れてしまっているわよ」
アンはそう言うと、アリスの顔を包み込んで、目元に触れた。冷たいアンの手が数回触れると、腫れぼったかった感覚が消えた。
「それに、髪もボサボサじゃないの。昨日、ちゃんと乾かしたの?せっかく綺麗な髪をしているのに、勿体ないわよ」
アンは娘を椅子に座らせると、手の中に櫛を作り出してアリスの長い金髪をとかし始めた。それに、アリスの前にも、トーストとサラダ、それにハムエッグが飛んできた。
アリスは多すぎる情報に面喰いながらも朝の挨拶をみんなとかわすと、朝食に手を付け始めた。
————————————昨日の出来事を思い出してきた。
あの青年たちの魔術を解いて家に帰ってきたら、庭にいた人々はみんないなくなっていた。それから、両親の姿も。慌てるアリスと違って、レオと皓然の二人は後処理に行ったのだろうと、あまり気にとめている様子はなかった。
それから、家にあった小さな袋ゼリーを胃に入れて、三人はシャワーを浴びてさっさと眠ったのだ。アンが言っていた通り、皓然はルーナが案内した客間に。
レオは明らかに着替えの途中であろう妹に、「なんで制服?」とコーヒーを飲みながら尋ねた。レオは制服ではなく、ジーンズにグレーのパーカーを着ていたが、皓然は昨日と同じ、制服のようなものを着ていた。黒いシャツとネクタイに、白いベストとスラックス。暑いのか、白いジャケットは椅子にひっかけられていた。
昨日は忙しかったからよく見ていなかったが、やはり皓然は少し様子のおかしい服装をしていた。それから初めて、アリスは彼が左胸に小さな白い羽の形をしたピンバッジを付けていることに気が付いた。それに、羽の根元部分にはラプスラズリが付いていることにも。朝の陽ざしを受けて、その宝石はキラキラと輝いていた。
「学校に遅刻したと思ったの」サラダをほおばりながら、アリスは視線を皓然から兄に向けて答えた。
「だって、今日は平日でしょ?今日は学校、お休みでいいの?」
「休み、というか、もう学校は退学手続きをすましたから、行かなくていい」
ルイスは頬杖をついて、アリスに分厚い茶封筒を差し出した。
「魔術に関することしか記憶から消せないから、お前は青年一人をケガさせた謎の少女ってことになってる。それがあったら、もう学校には行けないだろう。学校側もさっさ辞めて欲しかったみたいだから、すんなり手続きができた。これの中に、お前のとんでもない点数のテストたちが入ってる。数学は出来るのになぁ?……あとで確認しておけよ」
アリスは慌てて茶封筒を回収した。そう言えば、リビングの端にはアリスが学校に置いていた備品たちが積まれていた。朝早くに取りに行ってくれたのだろう。
「じゃあ、これからどうするの?」
「魔術界に戻る。とはいっても、お前とレオだけな。そして、アエラス王国という国の初級魔術師になるんだ。大丈夫、皓然をガイド役に付けるし、多分、同じグループに配属させてもらえるだろう」
頭に疑問符を浮かべるアリスに「魔術師は、グループで活動するんですよ」と皓然が説明を加えた。
「初級と中級は一グループ最大六人のチームに分かれて、チームごとに行動するんですよ。魔術に関する授業も、実技も、生活も。魔術師は国の軍事力の要、普段から一緒に行動することで結束力を固める目的があるんだそうです。で、ぼくらが所属するグループが、レオを含めて三人しかいないんです。定員の半分、しかもレオはほとんど別世界にいるから……。仕事を進めるためにも、もうちょっと人数が欲しいと思ってたんですよ」
「あっちは春学期制。これからが新学期なんだ。魔法使いだったうち、十人くらいが初級魔術師として上がってくるはずだ」
そうアリスに言ってから、レオは「他にも誰かが入るかどうかは、まだわからないの?」と皓然に尋ねた。
「残念ながら」
皓然は肩をすくめた。
「でも、なんとなくはわかりますよ。ぼくら『あまりもの組』に入りたがっているとなると、よほどの変わり者でしょうから。今の所、入って来そうなのは一人だけです」
「変わり者なの?」
アリスは皓然にそう尋ねながら、「私たちも変な子ってこと?」と心の中で付け足した。確かに昨日の一件を踏まえれば、アリスは問題児になるだろうけれど。
「変な子ですよ。入ってくるだろう人は、特に女性関係が。それから、別に君たちが変だ、というわけではないですよ」
皓然はアリスに笑いかけた。どうやら、アリスの考えていることなど、お見通しのようだ。
「ぼくらは、生い立ちと……、登城の理由が他と違ってますからね。他のチームだと、家柄的に先生たちに受け持ってもらえない子もいました。その家が大きければ大きいほど、子供に何かあったら監督役の上級魔術師の責任になりますからね」
生い立ちや登城の理由だのなんだの、というのはよく分からなかったが、何となく納得はできた。そんな、素性の知れない生徒たちなど、誰も受け持ちたくはないだろう。皓然たちは家柄が主な理由では無さそうだが、彼らの場合、問題行動を起こされて首が飛ぶのは御免こうむりたい、ということで先生たちが受け持とうとしなかったのだろう。だから、『あまりもの組』なんて言われているのに違いない。
アリスは何となく、そんな気がした。
「それで、そのもう一人の候補は?」
「エルフのアダン・トゥータンです」
皓然はルイスに静かに答えて、困った顔をして腕を組んだ。
「ぼくは彼と結構仲良しではあるんですけど、まあ、女性面がだらしないんですよ。パウラがこの前何人って言ってたかなぁ……。とにかく、彼女がたくさんいます。例にもれず、彼も戦士としては優秀ですけど。だから、アリスは気を付けてくださいね。多分、会った瞬間にナンパしてきますから」
「本当にやばい人じゃん……」
「彼は寂しがり屋だから、常に人をそばに置きたがるんですって。まあ、悪い子ではないんですけど……。もし何かされたら、ぼくに言ってください。懲らしめるので」
アリスは頷いた。その魔術界とやらに行ったら、絶対にレオと皓然のどちらかから離れないようにしよう。そう心に固く誓った。
「ところで、いつ魔術界に行くの?」
「明日かな」
ルイスは一瞬アンと視線を交わしてから、アリスの質問に答えた。珍しく、小さな声で。
「色々と書類がいるんだ。必要な分を今日作って、皓然に持ち帰ってもらう。そうすれば、明日から魔術界で暮らす許可が下りるだろう。ジジババ共はお前たちを連れ戻したがっていたし」
ルイスが嫌そうな顔をしたので、アリスは直観的に父とそのジジババ共の間には、根っこの深い問題がありそうだと思った。きっと、そのせいでアリスたちを頑なに魔術界に戻そうとしなかったのだろう。
アンと皓然は顔を見合わせて肩をすくめた。こればっかりは、二人にもどうにもできないことなのだ。
とにもかくにも、これで今日のやるべきことは決まった。
アリスとレオは明日から魔術界に行くための準備を、ルイスとアンはそれに伴う書類の作成、そして、皓然がその書類たちを持ち帰る。
部屋に戻って、アリスはとりあえず制服から着替えた。白いオーバーサイズのブラウスに、黒いざっくり網みのベスト、そして、黒のスラックス、靴は履きなれた黒のブーツにした。
そして、クローゼットからスーツケースを引っ張り出して、荷物を詰め始めた。さっき、両親からは「必要最低限なものだけでいい」と言われている。服も、二、三日分だけあれば十分だと言われた。後から必要なものを二人が送ってくれるらしい。だから、スーツケースの中には数日分の服、歯ブラシセット、靴を数足、ハンカチとティッシュ、それから、役に立つかもしれないので、ルイスたちが学校から回収してきてくれた道具セット一式も詰め込んだ。
それからふと机の上を見ると、昨日アリスが落として行ってしまった鞄が置かれていた。いつもの調子でそれを開き、中に入っていたスマホを開いたが……、その留守電の数を見て、アリスはゾッとした。
留守電は、何千件と来ていたのだ。しかも、メールも大量に来ているし、どれも差出人は全く知らない人たちだった。
何だか、この世界の全ての人たちに否定されているような気がして、あの恐怖が蘇ってきた。怖くて、怖くて、心細い。
もう、どうしようもなく寂しくなって、アリスはスマホの電源を落として机の引き出しの中にしまい込んで鍵をかけてしまった。鍵は目につかないような場所にしまおうと、本棚の裏にできた細いスペースに投げ入れた。
「……大丈夫」
これでもう、アリスの気持ちは決まった。この世界には、もういられない。目的は知らないが、自分を必要としてくれているのなら、魔術界へ行った方が良いに決まっている。
いや、この世界にいてはいけないのだ。そもそも、自分たちはこの世界の住民ではないのだから。
「大丈夫……。魔術界に行けば、もうこんなことは起こらないんだから……」
心を落ち着かせたアリスは、スーツケースを玄関ドアの近くまで持って行った。事前に、まとめた荷物はここに持ってくるようにルイスに言われていたからだ。だから、荷物をまとめ終わったと報告しにリビングへ行ったのだが、誰もいない。皓然まで。
「どこに行ったんだろう」
確かに、心は落ち着かせた。だが、今のアリスは誰かと一緒にいたくて仕方が無かった。出来れば、両親と。それで色々と考えた結果、ルイスの仕事部屋である書斎へ行ってみることにした。アンは家事とルイスの仕事を手伝う関係上、一所にとどまっていることが無い。だが、足の悪いルイスは、リビングか書斎のどちらかにいることがほとんどだ。リビングにいないのであれば、きっと父は自分の部屋に戻ったのだろう。
自分の名推理に従って一階の奥にあるルイスの書斎に向かってみたが、どうやら大正解だったらしい。光が入らない暗い廊下に、書斎から漏れたオレンジ色の光が刺していた。
そんな書斎のドアは少し開かれていた。中にはルイスとアン、それに皓然の三人がいた。三人とも、声を潜めて険しい表情で話し合っているようだ。
「———……やっぱり、行方は分からないの?」
アンが震える声で言うと、皓然は低い声で「はい」と答えた。
「十年も調査し続けているのに……。調査に行った村も消滅しているから、何の手がかりもなし。残っていたのは黒魔術の痕跡だけです。ヘレナ先生があんなことになって……。多くの先生方が、他のメンバーは亡くなったんじゃないかとお考えです。世間でも、その考えが浸透しつつあるみたいで……」
皓然はそう言いながら、チラッとドアの方を見た。そしてアリスとばっちり目が合うと、肩をすくめて、「こっちへおいで」というようにアリスに手招きした。
驚く両親の前に、アリスはゆっくりと姿を現した。
「何か用か?」
「ううん、特に用事はなくて……。準備が出来たから、遊びに来ただけ。そしたら、結果的に盗み聞きする形になってしまって……」
アリスはチラッと父を見てみた。
ルイスは腕を組み、いらだったように自身の腕を指でトントンと叩いている。こういう時のルイスは、怒っているか、考えごとをしているか。そのどちらかだ。今回は後者らしい。
「どこまで聞いた?」
長考の末、父はため息をつきながら言った。
「というか、どこから聞いていた?」
「えっと、行方不明の人たちがいるんだけど、ヘレナおばさんに何かがあって、大変なことになってる?だから、多分他の人たちは死んじゃってるんだって、たくさんの人が思ってるんだーって、とこ……」
ヘレナ・ランフォード。
それは、叔母の名だ。ルイスの双子の妹である彼女は、大分昔に夫であるカイルと出かけた先で事故に遭い、亡くなったと聞かされていた。だが、どうやら違ったらしい。
それから、アリスは三人に「何か、事件でもあったの?」と尋ねてみた。なんだか、そのヘレナという人の名を口にしてから両親の顔が引きつっているように見えるから。
「では、ぼくから。君も何となく分かっていると思いますけど、ヘレナ先生も上級魔術師でした。旦那さんのカイル先生も」
ルイスたちの顔を見て説明役を引き受けてくれた皓然だが、「ただ、複雑でして……」と彼まで顔を引きつらせていた。
「今から十年前のことです。ヘレナ先生のチームが、ある村に派遣されました。その村は更にその数年前に変な病が蔓延して以来、ゴーストタウンになっていました。でも、急にその村周辺で不思議な現象が起こるようになったので、その調査隊として現地に派遣されたんです。ヘレナ先生のチームは、大戦を終結させた『英雄』と呼ばれるような、優秀なチームでしたから。でも、ヘレナ先生たちが帰ってくることはありませんでした。むしろ、その逆で被害は増大するばかり。不思議な現象も広がり、近隣の警備隊とすら連絡がつかなくなりました。第二、第三の調査隊も送り込まれましたが、結果は同じ。でも、ヘレナ先生たちが行方不明になって半年が経った時、一人だけ戻ってきたんです」
それが、ヘレナだった。
彼女はなぜか国境を越え、フォティアという王国の王宮に、禍々しい魔力を伴って姿を現した。そして、王宮を黒魔術によってのっとってしまった。
幸いなことに、国王一家は無事に逃げおおせた。だが、当時王宮にいた宮廷人や一騎当千とまで言われる上級魔術師たちでさえ、今もまだ生死は不明。建国してから二千年の歴史の中で、フォティアの王宮で事件が起こったのはこれだけだ。それ以来、フォティアはヘレナという大きな時限爆弾を抱えることになった。
これまで、ヘレナが何かをした、ということはない。王宮に姿を現したその日から封印されるまでの一か月も、王宮に大人しくとどまっていた。国民たちを攻撃するだとか、何かの要求をすることもなく、ただ王宮に留まり続けている。
「その一件から、ヘレナ先生は英雄ではなく『元英雄』となりました。それで、えっと……」
皓然がルイスとアンに何かを訴えかけるような視線を向けると、ルイスが小さく震える左手を軽く挙げた。あとは自分で話す、ということらしい。
「一緒に行ったはずのカイルたちは依然、行方不明。だから、派遣された村で何が起こったのかは誰も知らない」
ルイスは天井を仰いだ。
「ヘレナを何とかしようってことで、俺にも何度かお鉢が回ってきた。けど、まあ、アイツに対抗できうる魔術師なんてそういない。双子の兄妹である俺でもな。アイツは突然変異種だ。魔術の効き方、魔力量が尋常じゃない。いつだったか、新聞が『精霊界に愛された女』なんて小見出しつけてたな」
「でも、魔術界で有名な予言者である陛下……、アエラスの国王様が、マヒしだした魔術界にこう予言したの。『英雄の子らを集めよ。彼らが黒き闇を払い、光を取り戻す。しかし、五つの血が集まることで、災悪も起こるだろう』ってね」
そう言ったアンは、アリスに今にも泣き出してしまいそうな顔を向けた。
「英雄というのは、ヘレナたちなの。さっき、皓然が教えてくれたでしょう?つまり、最初に派遣された調査隊の人たちの子供なら、この事件を解決できるって、予言されているのよ。まだ、全員の所在が明らかになったわけじゃないんだけどね……」
アンは悲しそうにそんなことを言うが、アリスには不思議に思っていることがあった。
「でも、私たちはその調査隊の子供たちとは違うでしょ?私たちがヘレナおばさんの子供だったらともかくだけど……」
そう言いながら、みんなの顔が曇っていくのを見てアリスは何となく、嫌な予感がした。それはもしかしたら、両親が何か言いたそうに、特にアンがついに目に涙を浮かべ始めたからかもしれない。
「……なに?」
「いや、その……」柄にもなく、ルイスがどもった。「お前に、言っておかないといけないことがあるんだ。その、いくつか。とても大事なことだ。……聞いてくれるか?」
怖いけれど、そこまで言うのなら聞いていた方が良いのだろう。
アリスは嫌な予感を感じてドキドキしながらも、小さくうなずいて見せた。父の口を塞いでしまいたいのを、我慢して。
だって、これを聞いたら大切な何かが崩れてしまいそうで、恐ろしいのだ。
アリスが頷いたのを見た両親は顔を見合わせ、大きく深呼吸してルイスが乾ききった唇を開いた。
「お前とレオは、俺たちの子供じゃない。本当は……ヘレナの子供なんだ」
思い切り頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。視界がグニャリと曲がり、足の力が抜けて膝がガクガクと笑い始めた。
アリスとレオは、ルイスとアンの子供ではない?
本当は、叔母の子供だった?
では、あの噂話は……。
「……ふざけないで」
「ふざけてないわ、本当のことよ」
うなだれ、アンは小さな声で何があったのか、ポツリ、ポツリと語り始めた。
それによると、時は十三年前の夏。アリスが生まれて間もない時まで遡る。
当時、アエラス王宮の一室にルイスたちは住んでいた。ルイス、アン、ラファエルの三人とルーナ一匹の家族。ルイスは貿易商ではなく弁護士、アンはルイスの補佐ではなく教員、ラファエルは魔術師の卵である王宮魔法使いとして、それぞれ国に仕えていた。
そして、ヘレナたち一家も、王宮の一室に家族で住んでいた。夫のカイル、レオ、そして生まれたばかりのアリスの四人で。だが、アリスが生まれてまだ一か月も経たないある日、ヘレナとカイルの夫婦は子供たちを連れてルイスたちを尋ねに来た。おまけに、ラファエルとレオの二人には「向こうで遊んでおいで」と席を外させてまで。
「契約を結んで欲しいの」
ラファエルたちがいなくなってから、盗み聞き防止の魔術を使ったヘレナは開口一番にそう言ってきた。
「何を言っているの?」アンは眉をひそめた。「そもそも、何の契約かもわからないのに、そんな契約、結べっこないわ」
「アンの言う通りだ。ヘレナ、順番に話せ」
アリスを抱く腕に力が一瞬入ったのを見たのだろう。カイルが「君らも知ってるだろ」と、ヘレナに代わってルイスたちに言ってきた。
「ランフォード家に生まれる女の子は、その、大きな使命を持って生まれてくるだろ?でも、俺らはこの子にそんなものを背負ってほしくはないんだ。その使命のためだけに育てたくないし、危険が伴うし、周りの目だって他の子に向けられるものと違うだろ。それで……」
「カイル、ありがとう。でも、ここから先は自分で言えるから……」
カイルにそっと微笑みかけてから、ヘレナは真っ直ぐに目の前にいる兄夫婦を見つめた。
「私が、この子の分の使命を受ける。そう決めたの。レオもだけど、命より大事なこの子を、ユリアの器になんてさせない。そもそも、私が背負うべきものだし、私だってその血筋よ。だから、私が……」
「お前、分かってんのか!?」思わずルイスは勢いよく立ち上がった。「それ、お前は死ぬってことだぞ!?」
「もちろん、分かってるわよ。ねえ、ルイス。覚えてるでしょ?小さい頃、アヴァが私たちに話してくれた昔話。私たちの家系に、女の子は生まれない。何より男と女の双子は生まれてはいけないの。それが妹の場合は、もっと。だってそれは、この世界に災いが起こるって言うことだし、それを鎮めるための器として、私たちのように女の子が生まれるんだもの。でも、この子は産まれてきた。ユリアの器になる予定の私がいるのに———————それも金髪を持って。」
それが何を意味するのかは、分からない。だが、もしかしたら何かとんでもないことの前触れなのかもしれない。
そうであるのなら————————。
「私たちはこの子を危険にさらしたくないし、ユリアの器として祀り上げられながら育てられるのも耐えられない。だから、私がこの子の代わりになる。何に代えても、子どもたちのことを守りたい。……その時が来たら、私は自らユリアの器になりに行く。でも、それで何が起こるかは、分からない。カイルだってそうよ。だって、そもそも私が信仰対象にならなかったのは、彼がいてくれたからだもの。彼も、アイツらに狙われたっておかしくない。だからもし、私たちの身に何かあったら、この子たちを守ってあげて欲しいの。あなたたちの子供として、器になんてならないように。お願いします。レオとアリスを、守って……」
深々と頭を下げてきたヘレナとカイルを前に、ルイスとアンは何も言えなかった。二人の気持ちは、同じ親として痛いほどよくわかったから。
ヘレナは、アリスを守るために自ら犠牲になろうとしている。
そのことに、何も思わなかったわけではない。いくら仲の良くない双子の妹であろうと、ルイスは彼女を簡単に失いたくなった。なんだかんだ言って、ずっと二人で助け合いながら生きてきたから。
最初は、そう言ってこのお願いを断った。それなのに、毎日のように二人してやってきて、「自分たちの身に何か起こったら……」と言ってくる。だから、ついにルイスたちは二人のその熱意に折れてしまった。
「分かった。お前らに何かあったら、その時はレオとアリスをうちの子として育てると約束する」
そう言った時のヘレナとカイルの顔と言ったら、本当に嬉しそうだった。涙を浮かべて、何度も何度もお礼をしてきたほどだ。
そして、四人は契約を交わした。契約というのは、破ると大きなペナルティが課せられる約束事だ。それが重要案件であればあるほど、規約はより厳格なものとなる。
この契約で、四人は次のことを約束した。
一、ヘレナとカイルの二人が死亡、もしくは命の危険にさらされたことにより育児が困難となった場合、レオとアリスはルイスとアンの子供として育てる。
二、レオとアリスを引き取った場合、二人の記憶を消去する。時が来たら、本当のことを伝えることとする。
三、レオとアリス、特にアリスには魔術界のことを伝えず、出来るだけ魔術師にならないように努力すること。そのため、この二人は別世界で育てることを求める。
四、この契約が実行された場合、ヘレナとカイルの二人の財産は全てルイスとアンのものとなる。また、出来るだけ契約が効力を持った時に備え、準備をしておく。
五、この契約を破った場合、その者は死に、その魔力と財産は親権者のものとなる。
この契約を結んだ二年後。ヘレナとカイルは行方不明となり、二人がレオとアリスを育てられないと判断された瞬間に、この契約は効力を発揮した。
「————————それで、俺たちはお前たちを引き取って、別世界に越してきた。アリス、お前を契約通り魔術師にしないためにな」
こんなことがあるのだろうか。
まるで、脳に直接スタンガンを当てられた気分だ。頭がフラフラする。
だって、叔母と思っていた人が自分たちの実の母。しかし、魔術界では謀反人の烙印を押された、元英雄。その彼女を倒せるのは、彼女と、その仲間であった人たちの子供だけ。
ルイスが今朝ポロッと言っていたジジババが、アリスたちを執拗に魔術界に戻すように言っている謎がやっと解けた。魔術界の人たちは、アリスたちにヘレナを殺させるつもりだ。
実の母親を。
それに、嫌いな人たちの噂話が、まさか本当だったなんて思いもしなかった。
「……」
暗い顔をするアリスに「あの」と皓然が声をかけてくれたのが聞こえた。だが、それに応えることなど出来なかった。
「……なんで、教えてくれなかったの」
自分でも驚くほど、沈んだ声が出た。低く、耳を澄まさなければ聞こえないほどに小さな声だ。
「それは、その……」アンの視線が下がった。「ヘレナは、アリーに『自分のせいだ』って思って欲しくなかったのよ。『自分のせいでママは死んだんだ』って。でもね、これは本当にアリーのせいじゃなくて……」
「もういい」
踵を返し、アリスは逃げるようにして父の書斎を後にした。
どうして、どうして、どうして!
「なんで、誰も教えてくれなかったの……!」
あんなに、「自分たちは血のつながった家族だ」と言ってきたくせに。大事に思っていると言ってくれたくせに。
本当は、本当は……、本当に、あの二人の子供ではなかった。おまけに、そういう契約を結んだから育てていただけ。
嘘だった。
全部、全部全部全部!
自分のいるこのランフォード家というのは、全部嘘だった!
もう、何がどうなっているのか分からない。
何をしたらいいのかさえ。
気持ちの整理が追い付いていない。
ただ、これで信用のおける大人がいなくなったことだけは、すぐに分かった。
パチッと、小さな音がした。だが、それに気付かず、アリスはアンに整えてもらった髪を乱暴につかんだ。息が荒くなって、いくら呼吸をしても酸素が足らない。視界は歪み、足は震える。指先はしびれてきた。
それでも、そんなこともお構いなしにアリスは頭をかきむしった。どうすれば良いのか、なんて分からない。
分かったら、こんなことにはなっていない。
「アリス……」
アリスを追いかけてきたらしい皓然だったが、アリスの様子を見て顔を真っ青にした。
アリスの小さな体の周りで、バチバチと静電気が弾けていたからだ。いや、静電気なんて可愛らしいものではない。ほとんど雷だ。バチバチとアリスの周りで雷が弾けるたび、その衝撃で近くにあった物が壊れていく。昨日、ひっきりなしに鳴っていた電話は煙を吐き出し、美しい絵が収まった額縁は弾け飛んで、その破片が壁に刺さった。窓ガラスは割れ、家そのものが衝撃で大きく揺れている。
「アリス!落ち着いてください!」
皓然のその声も、アリスには届いていなかった。
「おい!何だよ、これ!」
さすがにこの騒ぎにはレオも気付き、二階の吹き抜けから、一階でアリスの近くに立っている皓然に向かって叫んだ。もちろん、この急な揺れと衝撃波の原因が自分の妹にあることは分かっている。
「アリスが、魔力を暴走させてるんです!」
レオに答え、皓然は飛んできたガラス片で切ってしまった頬を荒く拭った。レオが声をかけてくれたおかげで、顔を動かすきっかけが出来て失明せずに済んだ。これならまだ、数針の縫合だけで済む。
これまで何度か大怪我をしてきた皓然だったが、これにはさすがに胆が冷えた。思わず、大きな息を吐き出してしまうほどには。
「ヘレナ先生たちのことを知って、それで……!」
「やっぱり!」
襲ってくる破片たちから身を守るため、魔力の盾を作り出しながらレオは思わず舌打ちを漏らした。
自分たち家族の秘密を、レオは知っていた。
ヘレナとカイルが魔術師にして欲しくないと言ったのは、あくまでもアリスの話。レオではない。だから、レオは七歳で王宮に上がる直前に、両親からこのことを聞いていた。封じられていたヘレナたちとの記憶を取り戻して、レオだってこのことに怒りを覚えた。
両親ではない。アリスに、だ。
アリスさえいなければ、と何度思ったか分からない。ヘレナとカイルが帰ってこなくなったのは、全部アリスのせいだと、一時期はこの妹のことが憎たらしくて仕方なかった。気持ちが抑えきれなくなった時は、兄妹喧嘩という名の暴力だって、何度も振るってしまった。ルイスとアンが止めに入るほどに。
だが、ある日。ふと気が付いたのだ。
ヘレナとカイルがいなくなったのは、アリスのせいではない。だって二人は魔術師として、仕事であの村へ行ったのだ。使命を果たすためではなく。
そして、死を覚悟していた両親が残そうとした大切なものを、傷つけていることにも。
それに気付いた時の気持ちには、しばらく名前が付けられなかった。今だって、この名前が合っているのか分からない。それでも、その名前を付けた時に決めたのだ。
アリスのことは、絶対に守る。それが、何も知らない、無実の妹への贖罪だと思うのだ。
書斎から出てきた両親も、この惨状に驚いて目を丸くしている。それに気付いたレオは、アリスが起こす衝撃波にかき消されないよう、大きな声をあげた。
「アリスのことは任せたから!俺と皓然は外を何とかする!」
「分かった!無理だけはするなよ!」
今、この家はいくつもの脅威に脅かされている。
一つは、アリスの暴走した魔力に巻き込まれること。並みの魔術師では、自分の身を守りきることができないだろう。最悪の場合、死ぬ。それだけ、魔力の暴走には危険が伴う。
何より、それがアリスならなおさらだ。何となく感じてはいたが、これで確証に変わった。
アリスの力は、レオよりもずっと強い。
暴走した魔力を封じる方法はいくつかある。だが、そのどれもが対象者より強い力を持っていなければならないのだ。今だと、それが出来るのは両親しかいない。
二つ目、家が壊れること。例えば、さっき煙を上げていた電話から、今はチラチラと赤い炎が見えている。それに、窓ガラスのほとんどが無残な姿になっている。家がグラグラ揺れているのだから、潰れたっておかしくない。
三つ目。これが一番厄介なのだが……。この魔力目当てにやってくる生き物がいるのだ。その生き物だって本来は魔術界にしかいない。だが、この場所はそう言っていられないのだ。
レオは自身の部屋の窓から外へ、皓然も近くの割れていた窓から外へ出てきた。
「気配は!?」
「あります!でも、そこまで数は多くない。三匹くらいです!」
そう、これが本当に厄介なのだ。
ヘレナたちが派遣される理由となった、不思議な現象。今では、魔術界各地でも見られるようになった。最近だと、この別世界の一部でも。
ガサガサと音が鳴ったのち、二人の目の前に三匹の謎の生命体が飛び出してきた。一つ目で、泥をまとった体からは手のように細い枝が伸びている。
魔物。
別世界ではゲームでおなじみ、魔術界では厄介な外来種扱いされている生き物だ。魔術師の仕事のほとんどが、この魔物討伐であると言い切れるほどだ。
隣で皓然が手に浮かんだ魔法陣から刀を取り出したのを見て、レオも自身の手のひらに魔法陣を浮かべた。
別世界人というのは、本当に魔術界を知らないのかと疑いたくなる。彼らも知っての通り、この魔物を倒す方法は一つ。物理攻撃か魔術で一定以上のダメージを与える。これに限る。
魔法陣から飛び出してきた黒光りする拳銃を手に取り、レオは目の前の魔物たちを鋭く睨みつけた。
***
「アリス、落ち着いて!」
今のアリスには、アンのその言葉も聞こえていないらしい。
それもそのはず。アリスは、意識を半分ほど飛ばしてしまっていた。普段まったく魔力を扱わないのに、こうして急に大量の魔力を暴走させてしまったからだ。魔力を使えば、術師にもその分の負荷がかかる。
「このままじゃ、あの子……!」
「アン、落ち着け」ルイスは雷が作る火花に囲まれたアリスを見つめた。「俺が行く。お前は結界を張って、魔物がこれ以上こっちに来ないようにしてくれ」
「わ、分かった」
アンが結界を張りに地下室へ向かったのを見てから、ルイスはゆっくり、アリスに近づいて行った。一歩一歩、ゆっくりと。もちろん、アリスに近づくにつれて魔力は強くなる。
それでも、ルイスはためらうことなくアリスに向かって進んだ。
確かに、最初は契約だから可愛がっていた。
破れば、自分たちが死んでしまう。それに、我慢してくれている実の子であるラファエルが、何とも可哀そうで、気の毒で、何より、申し訳なかった。
でも、二人の成長がどんどん自分たちの喜びとなってきて。それで、気が付けば、二人を本当の我が子のように思っていた。
アリスが学校で言われたことを気にしていたのは、知っている。それを聞く度、胸が痛くなった。時々、自分たちのこの気持ちは、本当に二人を実子と思っているからなのか、契約のせいなのか分からなくなる。それを面と向かって問われているような気がしてならなかったから。
だが、今なら……。
「————————“眠れ”」
ルイスの言葉に宿った魔力は、薄い黄色の雲となってアリスの頭上に現れた。
雲から降ってきた光の雨に打たれるうち、家の中を蹂躙していた魔力はどんどんしぼんでいき、完全に収まった時には、床に膝をついたルイスの膝元でアリスは眠っていた。
「……」
閉じられた目から流れ落ちた涙を拭ってやったところで、玄関ドアが開いてレオと皓然の二人が入ってきた。二人とも、ドロと血で汚れていたが大怪我はなさそうだ。
「父さ—————————」
「寝かせただけだ」ルイスは杖に体重を乗せ、ゆっくりと立ち上がった。「記憶も、戻しておいた。でも、魔術界へ戻るのは一日延長だな。明日の夜まで起きないだろう」
「それじゃあ……」
「ああ。……夢の中で、ヘレナと会っているはずだ」
レオに答えてから、ルイスは指を鳴らした。
パッとアリスの体が消えて少年二人は一瞬体を強張らせたが、ルイスがアリスをベッドの中へ瞬間移動させただけだとわかると、揃ってホッと胸をなでおろした。
それを見たルイスは肩をすくめた。レオならともかく、普段から魔術界に住んでいる皓然がこうも瞬間移動に驚くとは、自分は一体どう思われているのだろう、と。
「二人とも、怪我は……あるが、大したことなさそうだな」
「まあ、低級だったから」レオは自身の傷だらけの腕を見て顔をしかめた。「多分、境界の魔力にあてられて生まれたんだと思う。もしかしたら、アリスの魔力にあてられたのが直接のきっかけなのかもしれないけど……。とにかく、皓然がいてくれて助かった」
皓然は一瞬顔をパッと輝かせてから、本当に嬉しそうに笑った。こういう部分も含めて、みんな彼を幼いというのだが、本人は気付いていなさそうだ。
「どういたしまして。レオも、援護射撃ありがとうございました。さすがですね」
「そりゃどうも。鬼師匠に毎日鍛えられてるからね」
レオはその鬼師匠に視線を向けたのだが、彼は戻ってきた妻に状況を説明するので忙しそうだ。
「そう、記憶を……」
「悪い。俺の独断で……」
「ううん、あなたは悪くないのよ」
アンが俯いたのに合わせ、彼女の短い髪が揺れてその横顔を隠した。
「……この日が来るのを、大分前から覚悟していたから」
「……」
ルイスは何も言わなかった。代わりに、軽くアンのことを抱きしめてからレオたちに手のひらを向けた。
優しい緑色の光を宿す魔法陣が彼の手とともに右から左へ動くと、二人の汚れは空気に溶けていくように消えていった。ただ、二人とも、出血は止まったが、完全に傷が消えているわけではなかった。
「皓然。お前は、予定通り書類を持って先に魔術界に戻ってくれ。クロフォード先生に事情を説明すれば、何も言われないはずだ。それから……」
しばらく考えたのち、ルイスは再び自身の付き人をジッと見つめた。
「———————ラファエル。うちの息子にも、このことを伝えてくれ。アイツ、また研究に没頭しているみたいで、連絡がないんだ。お前の姉さんなら、アイツの意識を逸らせるだろう。悪いが、協力してもらいたい」
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