1 怪我。
気を散らし油断なさったのか、学園でメナート様が怪我を負ってしまいました。
しかもかなり重症でらっしゃるらしく、医務室から動かせない状況だ、と。
『そんな、メナートは馬の扱いに長けているんです、何か、誰かが』
『僕もそこが心配でね、念の為に調査を頼むよ、シャルロット』
『はい』
『すまないけれど学園内では再びアーチュウが警護になる、良いかなアニエス嬢』
「はい、勿論です」
『取り敢えずは自分の事に専念しておくれ』
《行こうか、アニエス》
「はい」
短いお付き合いですが、シャルロット様がこんなに動揺なさった姿を見るのは初めてですし。
もし、コレで状況が良くなるのなら、私が受ける妬みの視線など軽いものです。
《アニエス》
「ご心配でらっしゃいますよね、アーチュウ様も、ルージュさんも」
《あぁ、だがアイツもそれなりに丈夫だ、俺が見舞っておく。心配するな》
「はい」
もし、アーチュウ様に何か有れば。
私は落ち着いて対処しなくてはならない、もし、コレがアーチュウ様なら。
そう考えて落ち着こう、本当にそうなるかも知れないのだから。
考えて、考え尽くさないと落ち着けない、漏れが有っては使用人にまで迷惑が掛かってしまうのですから。
『すまない、私が生まれ変われば良いなどと、言ってしまったばかりに』
『そうなんですか?』
打ち所が悪いと記憶を失うとは知っていた、今回の事故に際し、その事も聞かされていたが。
メナートは本当に記憶を失ってしまった。
しかもこの数年分、全て。
『あぁ、私はとても君を邪険に扱っていたんだ』
『そうなんですね、覚えていれば良かったな、シャルロット嬢を便利に使うには良さそうですし』
彼は、知り合ったばかりの頃のまま、子供の状態になってしまった。
頭を打った事だけが原因では無いかも知れない、と医師に告げられた。
軽症ながらも長い昏睡状態は、心を閉じてしまったせいかも知れない、と。
もしかすればメナートが演技し、嘘をついているのかも知れない。
けれど、その事を追及する気は無い。
どうであれ、私は彼をそこまで追い詰めてしまったのだから。
『あぁ、そうだな。シリル様に報告に行くが、何か伝えたい事や要望は有るか?』
『んー、優しく構ってくれる侍女が欲しい、ですかね』
『分かった、伝えておいてやる、ゆっくり休めよメナート』
『はい』
まだ本当に無垢だった頃のメナートのまま、その年代まで心の状態が遡ってしまっているらしい。
だからこそ言葉は幼い、けれど体に染み付いた所作はそのまま。
その点からして、医師としては記憶が戻る事に対して期待が持てる、と。
記憶する部位の損傷が無いからこそ、所作がそのまま、だからこそ記憶は戻るかも知れないと。
『申し訳御座いませんでした』
『シャルロット、どうして謝るんだい』
『正当な理由から邪険にしていたと言えど、彼を追い詰め、こうした事故を起こさせ。王室やシリル様に損失を与えてしまいました』
調査の結果、作為的な物は一切無く、彼が怪我をしたのは本当に単なる事故。
私がアニエス様と居る姿を目にし、気を取られてしまい、馬に油断を気取られ。
『そもそも損失については故意では無いし、彼が嫌味にも嫌悪にも慣れているのは僕も理解している、これは不運だよシャルロット。本当に、君には全く過失は無い、だから補填も補佐も必要は無い。それに彼は僕の親友でも有るし、ココまで十分に尽くしてくれた、こうした問題の責任を取るのは寧ろ僕だ。僕が面倒を見るから心配はいらないよ』
『ですが、せめて何か、それこそ記憶を取り戻すお手伝いを』
『それでまた君に邪険にされるのは、流石にね、それより少し早い引退で構わないんだよ。もしかすれば記憶を失くし続けている方が、彼にとっては幸せなのかも知れないしね』
『ですが、いえ、でしたら私を彼と同じ任務に』
『そんな自傷行為は許さないよ、君はミラの大事な人でも有るんだ。しかも元は彼が起こした事故、責任は彼にしか無い。嫌う権利は貴族庶民に関係無く平等に与えられた権利、そもそも君が嫌悪し嫌った事に罪は無い、与えられた権利を正しく行使したに過ぎないんだから。良いんだよシャルロット、君が気にしても仕方の無い事なんだから』
『お力には、なれませんか』
『仮に、だよ。君が彼の記憶を取り戻す手伝いをしてくれたとしよう、そうして彼が記憶を取り戻し、また君が離れてしまったら。彼は今度、また記憶を失おうとするんじゃないかな』
『何故、そんな』
『好きだからだよ、傍に居たいから。僕は良く分かるよ、最悪はどんな手を使ってでもミラの傍に居るつもりだったからね、この程度は想定の範囲だよ』
『どうして、私が騎士だからですか』
『どうだろうね、けれど分かる事はそれだけでは無いだろうって事。他の騎士も紹介したけど全然だったからね、邪険にされても喜びもしないし、どうとも思わないって』
『そんな事まで』
『それに、君はメナートを愛せないでしょ、だから忘れて良いんだよ。君が無理をしてまで彼を構う事を誰も望んではいない、それこそメナート自身もね、無理にでも君とくっ付けてくれとは頼まれ無かったし』
『申し訳御座いません』
『良いんだよ、どんな事をしても気持ちを変えられないって、僕は良く理解しているからね』
どんなに言葉を尽くしても、言葉だけでは信頼や好意は得られない。
相手が賢ければ賢い程、真面目で誠実で有ればこそ、どんな策を講じても変えられない事も有る。
《絶妙に気になるであろう言い回し、でしたわね》
『気にするだろう余地も残してあげないとね、今度は気にする事すら罪悪感を抱く事になる、そんな事は本当に誰も望んではいないからね』
メナートの願いは、ただシャルロットに愛されたい、だけ。
例え自らの身がどうなろうとも、どんな状態になったとしても、愛して欲しい。
良く分かるよ、本当に、僕も考えた事だから。
《構うなと言っても、きっと》
『それを決めるのはシャルロットだ、僕らはもう見守るだけ、以降はシャルロットとメナート自身の選択の結果。それは僕らにはどうする事も出来無い』
要らないと思っていたモノが、後になって必要となるかも知れない。
逆に、既に得てしまっているモノが自らの足を引っ張る事も有る、庶民でも貴族でも。
それはどの立場でも平等に起こる事。
《そっかー、やっぱり狙ってたんだ》
どっかで怪しいかも、とか少し思ってたんだけど。
ね、私、やらかしてるし。
「やっぱり、ですか?」
《いやさ、ちょっと見ちゃったんだよね、庶民の振る舞いが出来てる所。だから無理しなくても大丈夫だよって言ったんだけどさ、頑張り屋なのかなって。でもウチ辞めて直ぐに学園に行ったから、もしかしたらって、でも私がそうだったから怪しく思えちゃったのかな、と思って言えなくて》
「成程、でも予想するのは難しかったと思いますよ?アーチュウ様の乳母でらっしゃった侍女の方も、最初は誤魔化されそうだったって仰ってましたし」
《マジであの人、凄いキツかったんだよねぇ。優しい言い方なのに超厳しいの、まぁ、私が何も出来て無かったからなんだけど。あの子はちゃんと出来てたのにな、お作法とかさ》
『行儀だけでは無いですからね、規則、規律についても理解していなければなりませんから』
《そこ、そこですよシャルロットさん、ただ知っているのと理解は全然違うのよ。ってもう本当、怖かった、参ったわ》
けど、それは私が悪かったから。
貴族とは関わらないだろからって、知ろうともしなかった。
それに、目の前の警備隊だとか貴族だとか大人が、男が守ってくれるだろうって。
無意識に、無自覚に。
期待してた。
当たり前に守って貰えると思ってた、大人じゃないし、女だから。
親には気を付けろって言われてたけど。
やっぱり、どっか他人事で。
「それでも、もう分かってるんですから大丈夫ですよ。それにお料理、褒めてらっしゃいましたよ、ちゃんと手間を掛けて灰汁を掬ってて。やれば出来るのにって残念がってらっしゃいましたよ、もっとしっかり礼儀作法を身に着ければ、貴族家の料理人は十分に出来るのにって」
《規則とかもだけど、アニエスって勉強はどうやってしたの?》
「本です、本に書かれていた事について考えたり、調べたり。既に姉達がそう勉強していたので、一緒に勉強の真似事をして。手伝って貰いながらだったので、暫くは邪魔だったでしょうねぇ、何でもかんでも尋ねまくってましたらか」
《そこはちゃんと子供してたんだ》
「してましたねぇ、妹と比べられて初めて知りましたけどね、何でも尋ねて来る子だったから勉強させられたって」
《それ、身内じゃなかったら嫌味に思えちゃうんだよねぇ、慣れて無いと特に。だからさ、褒められても素直に受け取れないって、分かる。そうしたクセなんだよね、貴族のさ、だから素直に結婚出来無いんでしょ?》
「まぁ、それも有るには有りますけど」
《迷惑を掛けたく無い》
「それと、ドキドキするのが嫌なんです」
《ん?》
「あ、そうじゃなくて、遠くで怪我をしていないか、それこそ死なれたらと考えるのが嫌で」
《あぁ、ソッチ》
「品物の運搬での事故、それこそ事件なんかも覚悟しなくてはいけなくて、だからこそ同業は止めておけと言われているんです。家を任せても大丈夫だろう、そうした油断から脇が甘くなり、詐欺に遭ったり事故を起こしてしまったり。不運が重なれば起きるかも知れない、私もそう思っていたんですけど、実際に姉に不幸が重なってしまった」
お姉さんは完全に憔悴してたからこそ、家で全員から虐められてたって言えたらしい。
そこでもう、財産も何も要らない、全てを投げ出したいって自暴自棄になっちゃって。
でも、今までの苦労も財産も、何もかも無駄に使う様なヤツにくれてやるのかって。
家族は勿論、今の旦那さんも励ますだけじゃなくて手伝ってくれたからこそ、何とかなったって。
そうだよね、商売をしてたら大変なのは分かる。
《あー、何か、ドギマギするのが嫌なんだ》
「ですね、私は平穏に生きて来たので、どう、そんな不安に対処すれば良いのか。成程、それで私は二の足を踏んでたんですね、成程」
《アニエスでも分からない事が有るんだ》
「勿論ですよ、未だに何故私を好きになったのか理解も納得もいきませんもん」
《ウチらがさ、食べ物だとするじゃん。私は少し手軽な酸味の効いた料理、シャルロットさんは煮込みの辛い料理、アニエスは甘い料理だとするじゃん》
甘い料理って言っても色々、例えばルーネベリタルト、余ったシナモンクッキーを砕いて作るアレ。
それこそシナモンクッキーに入れるスパイスは家でも店でもバラバラで、更に隠し味にジンジャーを入れたり、レモンの皮を少し入れたり。
料理の殆どがそんな感じで、同じ人が作っても場所だとか材料が違うと、同じ味にならない事も有る。
味、匂い、見た目。
だけじゃなくて、さっさと食べたい人も居るし、待ってでも食べたいって人も居る。
その色んな要素が自分にピッタリで、美味しい、自分に最高に合う。
ってのが好きって事なんじゃない?
って、自分の事は良く分からないけれど、アニエスとかベルナルドさんはそうかなって。
「天才では?やっぱり貴族家の料理人を目指しましょうよ、それこそ王室でも」
《いやー、もう良いかな、貴族に関わるの。料理以外の事は、暫くは料理と友達で良いや、ゆっくり消化したいし》
「勿体無い、残念です、落ち着いたらまたお誘いしますね」
《そこ諦めないんだ》
「マリアンヌさんは伸びしろまみれですから」
こうやってさ、信じて貰えちゃうと、嬉しいよね。
本当、どう恩返しと償いをしよう。