花弁三線
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
げげっ、靴の裏に穴が開いてる!
ほら、ここ、ここ。小指の先にも満たないくらい小さいものだけどさ。水とかが入ってくるには十分でしょ。
どうりで、たいした降りじゃなくても靴の中がびしょびしょになるわけさ。あれ、靴下にもしみて嫌な感じだよねえ。買い換えようかな、そろそろ……。
つぶらやくんは、靴の裏側を気にすることあるかい?
今回の僕のようなケースばかりじゃなくてさ。革靴とかの滑り止めのゴムなり、溝なりがなくなってて、つるりーんとこけそうになること、ない? あれはあれで、肝が冷えるよね。
でも、さらにポピュラーな例としては、ガムを踏んづけちゃうケースかな?
ふとした拍子で、妙に足の裏が粘るなあと思ったら、こいつが原因。犬のフンとかに比べると嫌にしつこくって、専用のガム取りヘラとかまで用意されているとかいないとか。
もし、靴の裏に違和感を覚えることがあったら、注意したほうがいいかもね。
弟から聞いた話なんだけど、耳に入れてみない?
それは桜も大いに散り始める、春先のことだったらしい。
毎年のことながら、桜は猛烈に花びらが散る。ちょっと木が集まっているところなら、それこそ足の踏み場がないほどの細かさ。
これらを一切踏まずに学校生活を終えるなんてのは、よっぽど特殊な例でもない限り、あり得ないんじゃないかな。
弟やクラスのみんなも新学期が始まるおり、また花びらをたっぷり踏むことになった。
昨晩は雨が降っていたからな。花びらたちも、幾度となく雨粒を叩きつけられて、さぞ強烈に地面へ押し付けられていただろう。
弟たちの一歩一歩に動じることなく、その運命を受け入れていく。
ただ、その日の靴へのくっつきかたは少し妙だったようだ。
行きはそうでもなかったが、問題は下校時。
弟の帰り道には途中、石段を十数段下るところがあるのだけど、その中ほどでつるりと足元が滑って、転びかけたというんだ。
見ると、靴裏に桜の花びらがいっぱいくっついてはいたんだが、問題はその並びだ。
かかとから土踏まずにかけての部分。
そこへ「川」の字を描くように、桜の花びらが整然と並んで付着していたんだ。
三本線が保たれ続けていたのもさることながら、それらの間に余計な花弁をひとつも入れないでいるなど、にわかには信じがたい状態。
その川の字の中ほどの花弁が見事に潰れて、滑りの原因になったと思われたんだとか。
石段にこすりつけても、彼らは頑固に張り付いてはがれようとせず。帰ってから、ガム取りのためのヘラを当てても、簡単には取れなかったという。
靴の表面を軽く削ぐようにして、ようやく桜たちは靴と縁を切ることができたのだけど、それらを無造作に家の外へ放り投げて。
がりり、と明らかに石を削るような音が、弟の耳へ届いた。
踵を返しかけていた身体を、いま一度前へ向ける。どこからか石が飛んできたわけでもなし。けれども家の前の排水口のフタには、真新しい白い傷が浮かんでいた。
そばに転がるものは、あの浅い靴底部分とともに捨てた花弁たちのみ……。
手に取っておそるおそる触れてみた弟だったが、その指に伝わるのは、自分のかける圧に他愛なく崩れてしまうような、柔らかい手ごたえばかり。
とても石を傷つけられそうな、それではなかったらしいのさ。
翌日の学校への登校中。
念のため、足元を気に掛ける弟だったけれど、あの妙なくっつき方は見られなかった。
昨日起きたことをクラスメートに話したところ、何人かは同じように靴裏へ桜の花弁が、妙なくっつき方をしていたことを教えてくれたらしい。
やはり弟がされたみたいに、「川」の字に桜の花弁が靴の裏へへばりついて、容易にははがれない様子だったのだとか。
けれども、弟のように靴底の表面もろとも、桜を引きはがした人はいなかったようで、排水溝のフタの件を話すと、みんな目を丸くしたと話していたっけな。
その日の下校時。
弟は朝と同じように靴裏へ頻繁に意識を向け、滑りかけた石段も避けるコースをとった。
数歩とあげず、靴裏を確認し続けて歩いていたつもりだけれども、とある横断歩道に差し掛かったおり。
歩行者信号が点滅して、ちょっと小走りになったんだ。その十数歩程度の間は靴裏を気にしなかったのだけど。
がりり。
渡り切るや、足元から石の削れるような音が聞こえた。ちょうど、昨日と同じような。
足裏を見て、弟は目を見開く。
今日は桜のさの字とも、縁のない道筋を選んだ。横断歩道を渡るときにも、このあたりに桜はなかったはず。
なのに、いまこうしてみる靴の裏には再び花弁が列を成している。
昨日のようにかかとから土踏まずまででなく、足先に及ぶまで。はっきりと「川の字」を成しながら、身を寄せ合っていた。
それだけじゃない。
花弁たちは一様に「逆立っていた」。ぺたりと張り付くのではなく、そのとがった先端を刃か連なる山々のようにして、靴裏から地面へ向け、身体を揃えながら突き立っていたのだとか。
桜たちに支えられ、わずかに浮いた足元のアスファルトには、花弁ごときで着くとは思えない白くこすれた傷が三つ、長い筋として刻まれていたんだ。
排水溝のフタの件が思い出される。状況的に、この靴裏に逆立つ桜たちの仕業としか思えない。
いつの間にくっついたのか。どうして、このような事態になっているのか。
弟は右足をほんのわずか持ち上げて、川の字の三つの線のうち、向かって右側の線をつまんでみる。
すると、先ほどまで弟の体重に負けずに立っていた強さはどこへやら。指の触れた端から、花弁は力を失って、はらりはらりと地面へ落ちていってしまう。
それを受けてか、残りの筋の花びらたちも後へ続くように、どんどんと靴に別れを告げていく。
その理由をはかりかねて、なお足を持ち上げようとした弟だけど。
ガラスを爪で引っかくような、耳を塞ぎたくなる嫌な音。
それにひるんだすきに、足裏へ鋭い痛みが走ったんだ。
見ると、あの花弁が張り付いていた川の字の部分。その靴裏がぱっくりと裂けていたんだ。
刃物で刻んだかのような、深い傷だった。そのうえ靴下も破り、弟の足の皮さえ切り裂いて、開いた溝にはじんわりと血が溜まってくる始末だったとか。
あとで聞いたところ、同じように靴裏へ桜の花弁をくっつけていた友達は被害に遭わなかったらしい。彼ら、花びらをはがすことはしなかったみたいでね。
あの桜たちは、ああして川の字で並んで逆立つようにしながら、足元から迫って肌を切り裂いてくる何かから、自分を守ろうとしていたんじゃないかと、弟は思ったそうなんだよ。