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托卵   作者: 桐谷 光
38/56

さぁ出勤

 今日は木曜日。

 手を切ってから一週間も絶たずに完治。ありえないけど治った。

 今までのようにバスに乗り、駅で人ごみに揉まれながら電車に乗る。

 片手はドア前横のステンレス製の支柱のような棒につかまる。目の前に座席に座ったサラリーマン。揺られながら片方を放し、持っていた携帯画面をスクロール。

 総務のめぐみ先輩には早朝にラインを入れていた。出勤しますって。チェックした。既読はされていない。

 グループラインに通知。日曜日の飲みの誘いが入っていた。エリカだ。お店はいつもの所ではなく、駅前の最近オープンした立ち食いスタイルの店。気になっている店だ。よく、ツバサが了承したな。

「パス」って返信。あっ、既読。

 電車を降りて、階段を上がって下りていく。バス停に並んでバスに乗り、職場に向かう。

 事務所には誰もいなかった。いつものように机を拭いて、はき掃除をしていると部長補佐が出勤してきた。

「コーヒー淹れますね」

 出勤したときに粗挽きした豆と水をセットして入れていた。大きなコーヒーメーカーには黒い液体がたっぷりと入っている。

 部長補佐は砂糖小さじ二杯。ミルクなし。本人専用カップに手を伸ばす。

「自分でいれるから、しなくていい」って言葉が返ってきた。

「え?」

 後ろを振り向きざまに抜かれた。カップを素早くとって、コーヒーメーカーのコーヒーをなみなみと注ぎ、グラニュー糖を入れている。

「あ、ありがとうございます」

 頭を下げると、「羽田さん、いままでありがとね。セルフサービスだからしなくていいんだよ」って言われた。

 は、羽田さん?名前で呼び捨てはどうした、オヤジ。

「手、大丈夫?」

 部長のことばが柔らかい。いつもと違う。

「はい。もう治りましたから。ご迷惑かけてすみません」

「ムリしないで。もう少し有給使ったら」

「いやいやいや。マジで治りましたから」

 包帯のとれた手を上に上げた。袖はめくらなかったけど。

「体調悪かったらいつでも相談してくれよ」

 部長補佐の言葉がまず信じられない。こんなに優しい人だっけ。頭の中がクエスチョンでいっぱいになった。なんだこれ、気持ち悪い。

 部長補佐は席に戻ってパソコンを触り始めた。

 コーヒーメーカーの前にコップを並べて、入れる準備はしている。紅茶のパックや急須、お湯もオッケー。

 めぐみ先輩が部屋に入ってきた。

「おはようございます」と、わたし。

「おはよう、ライン見たけど、手はもう大丈夫なの?」

 わたしはめぐみ先輩に抱きついた。

 部長補佐の言葉はウソ臭いけど、先輩の言葉はしみる。

「治りました」

「そんなわけないじゃん。ムリはダメよ」

「はい」

 先輩は並べられたカップたちを眺めて「こういうの、なくなったから」って言った。

「こういうの?」

「部長に名前で呼ばれてキモイって、人事労務部のコンプライアンス課にチックったんだよ、わたし。それで、部長すぐ降格して、違う部署に飛ばされたんだよね。今はまだ自宅待機中かな。ほかに問題がないか聞かれたから、女だけがお茶くみっておかしいと思いますって言ったら、すんごく偉い人が職場を見に来た。取締役のついた人」

「マジですか」

 わたしなら、チクれない。すごい。

「うちの会社ホワイトキャンペーンみたいなのやっているみたいで、残業とか厳しいじゃん。海外に進出するとかしないとか。なんか、いいタイミングというか悪いタイミングというか。うちの総務のおじさんたちも戦々恐々していて。ここのフロアー、脱色しすぎたまだら模様の、白おじさんしかいなくなってるよ。それがまたキモいんだけど」

「なるほど」

 おじさんたちは急にきたホワイトの風に慣れてないのか。

「経理部長補佐、部長不在だからもうすぐ昇格するって話だよ。今は言葉が丁寧になって優しいよ。いつまでもつかは分からないけど。コーヒーメーカーをセットしているの部長補佐なんだ。ルール変わって最初に出勤した人がセットするって決まりになったんだけど、それからは一番に出勤してるよ。人間って変わるんだよね、はははは」

 めぐみ先輩が笑った。この顔、よく見るとマコトに似ている。気のせいかもしれないけど。目が大きくてフクロウみたい。皮膚の質感羽みたいなところまで。

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