ツバサ だーいすき
最寄駅から自宅アパートまでの道のり。モスバーガーの横を曲がって、いつものバス停に行った。誰もいない。携帯で時間を確認。バスは出たばかり。次のバスが来るまで、まあまあ時間がかかりそうだ。Suicaの残高は微妙だし、歩いて帰ることにした。
幹線道路沿いに歩く。
外灯の少ない住宅地のある近道を歩くより、かなり気持ちが楽。背後からの足音でドキドキするのは疲れる。鬼気迫る音に後ろを振り返り、何度勘違い女って思われてきたか。追い抜かれた後、お前なんて狙ってないよ、なんて思われていないか。仕事帰りにつかれた脳みそを使いたくない。なんだかんだと心が乱されるのは、本当に嫌だ。
パンプスはちょっと高め。くだらないことを考えていたら、左足がカクンと外側を向いた。イタッ。ひねった。さんざん迷って、背伸びして買ったブランド靴。買わなきゃよかった。サイアク。
5分ほど歩いた。居酒屋が見えた。休憩するか。
冷蔵庫の中に昨日の残り物の野菜炒めがある。卵でとじて食べようと思っていたが、まあいい。外食にしよう。
古いマンションの一階にある店舗。和っぽい外装に大きな紺の暖簾。闇夜にとけて、文字だけが浮かび上がっている。自動ドア。くぐると石畳風の長い廊下があって、その奥にロールスクリーンで仕切られた半個室。
ここは週末には予約でいっぱいになる。ふらっと立ち寄ったものの入れなかったことも、両手の指くらいはある。店内には十人ほど座れるカウンター、テーブル席。
高校の同級生、吉村マコトのオヤジの店だ。それを知ったのはごく最近。
しばらく前、手伝いをたまにしているらしいマコトを見つけて、思わず声をかけた。通っていたのに、気づかなかった。学生時代も、話したことはあっただろうか。ないかもしれない。でも、顔は覚えていた。目を合わせたのは初めてだったかも。
顔はイケてない。目は大きいけどギョロっとして飛び出しそう。高校生の時は眼鏡をかけていたのだろうけど、今は裸眼。コンタクトか。肌はなんとなく羽っぽい。まるで、フクロウ。
店主の顔を初めて見たとき、見覚えがあった。気のせいだと思っていたけど。なるほど。マコトによく似ている。年が違う双子みたいって言ったら、言い過ぎだろうか。
マコトは今、会社員。居酒屋のバイトが急に休んだらピンチヒッターで出てくるらしい。
店内はそんなに混んでいなかった。カウンターでサバの味噌煮と冷ややっこ、ホットウーロン茶を頼んだ。よく見かけるバイトの男の子が軽く会釈して、奥に引っ込んだ。
「ミサキちゃん、いらっしゃい」
マコトのお父さんが厨房から出てきた。頭にはタオル。とび職の若者が巻き付けているようにかこっよくは見えない。
手にはご飯とみそ汁。
「サービスね」
「やったー」
わたしが来るといつもサービスしてくれる。マコトの同級生と知ってからずっとだ。おいしいし、安いし、サイコー。
「今日、マコトはいないんだけど」
「いいの、いいの。わたしの目当てはおいしいごはんなんだから」
「うれしいこと、言ってくれるね」
おじさんが目を細めた。
「高校を卒業して、もう五年か。社会人なんて、本当に早いね」
いやいや、もっとだ。24だよ、わたしは。アナタの息子と同じ年。高校時代は存在すら知らなかったはずだ。なのに、自分の中で勝手に父親の代わりをしてもらっている。
「今日は予約もしに来たんだ。来週の日曜日。またいつものメンバーで、時間も一緒。お願いしまーす」
「ありがとうございまーす」
おじさんの茶目っ気たっぷりの返事。
遅れてサバがきた。ほうばる。おいしい。この味噌煮は家庭じゃ作れない、こともないかも。でも、わたしには作れない。
一週間後の日曜日。
大学生のころから、この店を使っていた。
今日は大学時代の仲良し三人組でいつものカウンター。飲んでいた。エリカ、ツバサ、わたし。教育学部の児童学科出身。エリカは私立の幼児教諭をしている。ツバサはスポーツジムの児童専門のインストラクター。サッカーやドッチボール、簡単な親子体操なんかも教えている。わたしは中小企業の文具メーカーの事務職。普通のサラリーマンだ。
このあたりでは私立の幼児教諭の手取りは十三万円が相場。四大出たのに生きていける給料じゃない。公立の保育士は空きがなかった。バカバカしくて、私立の幼稚園、保育園には就職しなかった。その気持ちはツバサも同じで、でも子供は好きだから子供専用のスポーツインストライターになった。
カウンターテーブルの前には、大根のサラダ、唐揚げ、レンコン天ぷら。野菜スティックもある。酎ハイに生ビール。日本酒もおいしい。何杯かおかわりして、ろれつが回らなくなった。
酒豪のエリカは顔色も変えずに何杯目かのビールを飲んでいる。レンコンをほおばって、はい、またおかわり。なにか食べて、はい、ビール追加。まるで部活後の給水だ。「イヤイヤ、この量じゃ足らん」ぼやきながら、ハイピッチで飲んでいる。
「総務のリーダーがわたしのこと、ミサキって呼び捨てにしてくる。サイアクだと思わない?」
気心の知れた仲間と話すのは楽しい。話したいことはいっぱいある。ドラマのこと、駅で見かけた変なサラリーマン、今どきの服やおいしいスイーツ。でも最終的に話すのは会社の愚痴。二人はわたしの職場環境を知らないし、悪口が漏れる心配もない。
目が重くなってきた。眠たい。疲れた。
愚痴の内容はいつも同じらしい。だって、だって。職場ではただのお茶くみと雑用しかさせてもらえない。コピーに、会議資料の作成。来客のお茶を笑顔で持っていく。男子社員は名字で呼ばれ、女子社員は名前で呼ばれる。昭和のオヤジは何を血迷っている。ふざけんな。
「クソじじー、だいたい、あいつが」
頭を抱えて発したわたしの言葉をエリカが止める。
「おお。ドウドウ。おいしいニンジン食べなさい」
生のニンジンスティックを顔の前でゆらゆら揺らしながら口元に持っていく。
「わたしは馬じゃない」
左手てニンジンをはらう。
「やだあ。違った?」
エリカ。目がすわっている。
鏡見ろ。お前の方が馬だろうが。馬づら。ケンカ売ってるのか。
「おお、上等だ。表出ろ」
「やるか」
二人の酔っぱらいの前にツバサが出てくる。
「止めなよ。二人ともお酒の飲む速度早いよ」
彼の袖から白い肌が見える。その腕を伸ばして、わたしたちを制止させようとしている。
やっぱり、首が長い。セクシーってこういう事を言うのかもしれない。きゅんとする。相変らずのんびりとした口調。ツバサは身長が高くて体が薄い。顔はイケメン。こんな人間が世の中に存在するんだ。
児童学科で唯一の男。最初男子はもう一人いたが、いつの間にか大学を辞めていた。やめた男の子とつるんでいたツバサが一人きりでいる事が多くなったタイミングで、誘って仲間に引き入れたのはわたしだ。あの頃からエリカもわたしも彼を狙っていた。でも、いまだにこの気持ちに気づかれない。
大好きオーラ全開なのに。
「エリカがひどいの」
ツバサに抱きつく。
「わたしのツバサに抱きつくな」
エリカが、ツバサからわたしをはぎ取ろうと引っ張る。
「いたい、いたい。やめて」
わたしはエリカの後ろの髪を引っ張られながらも、より激しくツバサに抱きついた。体をねじって嫌がるツバサ。そんなに嫌がらなくてもいいじゃない、なんて思いながらも体が密着しているのを内心喜んでいた。
「ミサキ、殺すぞ」
腕を強引に引っ張って、引き離そうとするエリカ。
「おお殺してみろ、殺人犯で捕まるぞ」
爪が手の平に食い込んだ。数センチの傷。少しだけ赤がにじんだ。血。痛くはなかった。
「捕まえてみろよ。その時はお前、腹がさけて死んでるからな。殺した後は全部もらってやる、安心しな。ツバサも、何もかも。安心して、すべて託して死ね」
こわっ。なにそれ。
ツバサが体から離れそうになって、慌てて腕に力を込めた。
細い。折れそう。
一瞬力を緩めて、でも再度力を入れた。大丈夫。折れたら入院して看病するって手もある。
「お前、いい度胸してるじゃないか。今すぐ表に出ろよ、オラ」
「おう、出てやるよ」
言いながら、出る気なんてない。出たら、ツバサと離れちゃう。
「もう、いい加減にして。二人とも」
ツバサが、窮屈そうにしながら、わたしを強引に振り払おうとする。嫌だ、離れない。酔っ払ってなきゃ、こんなどさくさ紛れのハラスメントまがいのことなんて、できない。乙女心わかってよ。
ああほんと、わたしってバカ。わかっている。でも、くっつきたい。
「きゃー。いたーい」
甘い声を出しながら、手をオーバーにツバサの肩にまわした。頭の後頭部に手があたった。真上の固いところがある。なんだろうこれ。そして、すぐにつむじを感じた。つむじをなでて肩に手を滑り込ませる。さっきの突起物。なんだろう。湿疹ほど小さくなく、こぶほどは大きくない感じ。
「まじ、殺す」
エリカが突き飛ばした。派手に転んだ。ヒールが吹っ飛んで、カウンターとなりで機嫌よく飲んでいたおじさんの横まで転げていった。スカートの裾がめくれてパンツが見えた、と思う。スースーする。おお見ろ、オヤジ。若い娘のパンツ、拝んどけ。
アルコールのせいかお尻は痛くない。
「エリカちゃんも、ミサキちゃんも、いい加減にしなさい」
店主がカウンターから出てきた。転げたヒールを白髪のおじさんに謝りながら拾って、わたしに履かせてくれた。ありがとう、ごめんなさい。
エリカとわたしは高校も一緒。地元の大学に進学して、はじめてお互いを意識した。一度も同じクラスになったことはないが、存在を知っている程度。大学に入ってエリカから声をかけられた。
ツバサは県外の苦学生。奨学金とバイトだけで生きていた。幼児教員を反対され大学費用も出してもらえなかったと聞いている。それで、結局教員になれなかったから、皮肉なもんだ。同じ県立大学出身。成績優秀者は一部学費免除だったから、頭はそうとう良かったはず。バイトして勉強して首席で卒業なんて、そうとう努力したのだろう。
結局親とは和解もせず、企業に就職。一人暮らしをしている。
「はいはい。二人とも愛しているからね」
ツバサのいつものセリフ。この言葉でいつも酔いがさめる。わたしの秘めた思いを理解しろっつうの。
まだ食べ終わってないのに、タクシーを呼ばれた。マコトのオヤジの店主とツバサに羽交い絞めにされ、強引に外に追い出され、タクシーに乗せられた。となりには、いっしょに無理矢理乗せれれているエリカ。ツバサはわたしの住所とエリカの住所を運転手に伝えると、ドアを勢いよく閉めた。そのまま、こっちを振り向くことなくお店に戻っていく。
おいていかないで。
手を伸ばしたけど、すでに車の中。タクシーは走り出した。居酒屋はあっという間に遠のいていく。となりにはエリカ。酔いはまわっているみたいだけど、さすが酒豪。顔色は悪くない。
わたしの家に行く途中にエリカの実家がある。まず、先にエリカを降ろして最後に自分の家で降りる。彼女の家はすぐそば。歩いて5分もかからない。
いつもの飲み会。終わりもお約束通り。
さっきまで、ケンカしていたはずなのに、二人になると会話ができるようになる。わたしは、エリカが大好き。
「ねえ、さっきツバサの頭に手が当たったんだ。角みたいなのがあった」
「ないない」
エリカの声が甲高い。
「鬼だったりして」
そう言ったら、思わず笑いが込み上げてきた。何がツボっているのかもわからない。
「ツバサの誕生日、二月三日だし。ありえるかもでしょ」
わたしの言葉でエリカも笑った。ツバサの誕生日は節分だ。
「じゃあ、わたしはクリスマス生まれだから、サンタか」
エリカが言う。
「サンタじゃなくて、キリストだから」
「それな」
「うける」
わからないけど、笑いは止まらない。
「ツバサが鬼だったら、どうする」
エリカの言葉がツボる。笑いすぎて、おなかが痛い。.
「じゃあ、こん棒で叩いてもらおうかな。わたしの顔の前にツバサかぁ。想像するだけでキュンキュンする」
「やられて天国行きだよ。バカみたい」
「そうかな」
アルコールのせいだ。頭が回らない。死ぬのは嫌だな。
「ミサキが死んだらツバサもらってやるよ」
「イヤだ。ツバサはわたしがもらうの」
ホント、中身のない会話だ。
給料安いから幼児教諭にならなかったけど、ほんとうは子供と一緒に遊びたかった。命を預かる仕事だ。大変だと思う。でも、うらやましい。エリカはいつも充実した顔をしている。明日から仕事か。はあ。昭和のオヤジのおもりか。ある意味わたしも保母だよね。
タクシーは、エリカの家で止まる。降りたエリカにタクシーの中から手を振った。