乳母の娘、偽りの妃となる
1章 後悔
私には、一生悔やんでも悔やみきれない失敗がある。
――一生のお願いだから、ね?
どうしてあの時、彼女の願いを聞き入れてしまったのだろう。
その為にこの世で一番大切な人を失う羽目になった。
王の一人息子として生まれたあなたには秘密があった。
それは女性であったこと。
それは、あなたの罪ではなかった。
あなたの母が産婆に金を握らせ、性別を偽らせたのだ。その事を知っているのは、乳母とその娘である私のみ。
湯浴みや、着付けも秘密を守るため、全て私たち母子が担った。
あなたは、与えられた運命に押し潰されることもなく、けなげに努力し続けた。
次代の王として立派に振る舞うために。
それは、彼女のただ一度のわがままだった。
普段王子といて振る舞っているルイは、一体どんな気まぐれか、下町の祭りを見に行きたいといいだした。
王子として祭りに参加すれば、護衛や従者たちに囲まれて祭りを見るどころではなくなってしまう。
だから、私と入れ替わって欲しいと。
私は困惑した。
乳母の娘である私ならば、使用人扱いなので、城の外へも比較的自由に外出できた。
普段は誰よりも立派で気高く振る舞う王子ルイも、私にとってはかわいい妹にすぎなかった。
彼女の願いに根負けし、私は自分の服と彼女の服を交換し、私と同じ黒髪のかつらを被せ化粧を施し帽子を目深に被らせ、外出させた。
魅力的な青い瞳を持つ若く美しい娘。
それが、私が見たそのときのルイの姿だった。
少しでも息抜きができればいいと思ったのだ。
それが、彼女を失うことにつながるなんて、思いもせずに。
(どうしてあの時、彼女を外に出してしまったのだろう)
その問いに対する答えは、一生かけても出ないものだった。
2章 願い
『王子』であるルイといれ変わったことがばれないように、私は彼女の外出中具合が悪いふりをして寝台の中でじっとしていた。顔が見えないように、すっぽりと上掛けをかぶって。
ちょっと祭りを見たらすぐに帰って来ると約束したのに、ルイは、なかなか帰って来なかった。
ルイが帰って来たのは、夜も更け、門番が門を閉めてしまう直前のことだった。
私は、最愛のルイが帰って来たことに安堵していた。
その為に、彼女の様子がいつもと違うことに気がつかなかった。
****
異変に気がついたのは、それから数ヶ月たったときのことだった。
ルイの食欲が落ちていることは、気がついていたものの、生まれつき病弱な彼女にはそう珍しくないことだったのであまり気にしてはいなかった。
おかしい、と私が気がついたのは、ルイが好物のプティングの匂いを嗅いで吐いてしまったときのことだった。
おろかな私は、その時になってようやく気がついた。
――ルイが妊娠している可能性に。
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幸いなことに、私は母からそういったときどうすればいいかということを教わっていた。
もちろんそれは、私たち母子がルイのもとを離れる訳にはいかないからだった。妊娠する可能性があるのは私という前提であり、普段王子としてふるまっているルイが妊娠するなど想像もつかないことだったが。
けれど、ルイを祭りに参加させたのは私だ。
その責任は、とらねばならない。
私は、侍女たちを遠ざけ、重い気持ちで口を開いた。
「医者を呼ぶわ。腕のいい医者だから何も心配はいらない」
ルイは、慌てるた様子で言った。
「私は病気じゃない。これは……」
何かをいいかけたルイの言葉を私はさえぎる。
「あなたは今、【病気】なの。一刻も早く治療をしないと」
いつも私の言葉にしたがうルイも、このときばかりは反発した。
「嫌だ!」
「ルイ、わかっているの? あなたはこの国の王子なのよ。王子が子供を産んだなんて話聞いたことがないわ。間違いは誰にでもあるものよ。だから一刻も早く治療を――」
「嫌だ!」
ルイは一向に引かなかった。
「あなたのお母様も、そのまたお母様も、産後のひだちが悪くておなくなりになっているのよ。体の弱いあなたが、出産の負担に耐えられる訳ないじゃないの」
私はルイを説得しようとした。
けれど、彼女はいつものように甘えた声でささやく。
「ねえ、リゼ。お願いだから」
「ダメ。もう聞かないわ。あなたのお願いなんて!」
私は耳をふさぐ。
しかし、彼女は語り続ける。
「祭りの日に、はじめて女性として扱われて、わたしは生まれてはじめての恋をしたんだ。
その事をなかったことにしたくない」
「もうやめて!」
私は聞くまいとしているのに、ルイの声は水のように指の間をすり抜けて頭の中に入り込んでくる。
「嫌、いや、嫌よ」
これ以上、ルイの声を聞くまいとして私は叫ぶ。
ルイはまだ膨らんでもいない腹部に手を置きながら懇願してくる。
「お願いだ。君がこの子のお母さんになってよ。わたしの代わりにこの子を育ててほしいんだ」
「嫌よ。私はあなたを失うなんて耐えられない。
いい? あなたは病気なの。腕のいい医者に手術してもらえれば、すぐにもとの体に戻れるわ。だから――」
私は説得しようとした。
「できない」
「ルイ。あなたは自分が何をしようとしているかわかっているの?
あなたは、誰よりも立派な王になってみせるっていつも言っていたじゃない。
それなのに、何故?」
私がたずねると、ルイは泣きそうな顔で笑った。
「そうありたかった。一生かけて母の残していった偽りを、誰からも祝福される王子になることで呪いを祝福に変えていこうと思っていた。でも、もうできない」
「どうして?」
私はたずねた。
「わたしはやはりおろかな母の娘だったんだ。たとえ自分の命と引き換えにしたとしても、この子を生かしたい」
ルイは、そう言った。
そう、彼女の母親が娘の性別を偽ったのは、彼女の命を守るためだった。
そうしなければ、王の妃の中でも身分の低い彼女には子供の命を守る術が他になかったから。
だから、ルイの母は、自分の残り少ない命をかけて、娘を王子と偽ったのだ。
****
いつの間にか、私は泣いていた。
そんな私にルイは、いつものように愛らしいお願いをする。
もう、私が断れないことを知っていながら。
ルイは、私に最後のお願いをした。
「――お願い。この子に君の人生をくれないか?」
3章 ろうそくの炎
乳母の娘の妊娠の噂は、王宮をざわめかせた。
すぐさま彼女はルイ王子の侍女から側室に昇格した。
堅物だとばかり思われていたルイ王子が、案外手が早かったとか、あとは王妃を迎えるばかりだとか、下世話だが、活気のあるゴシップが駆け巡った。
けれど、噂の張本人であるリゼは、なぜか死人のように青ざめた顔をしていて、とても幸福そうには見えなかった。
彼女にしてみれば、最愛の人を失う日が刻々と近づいているのだから、生きた心地さえしていなかった。
王子は、側室となったリゼの体調を気づかい、ほとんどの時間を彼女と共に過ごしていた。
――というのは建前であり、重いつわりに苦しんでいるのは、実はルイ自身だった。
看病しようにも、秘密を漏らさないためには他人の手を借りるわけにもいかず、リゼ一人で行うしかなかった。
ルイの胎内では、恐るべき病が育ちつつあった。
その病は、半年後にはリゼの最愛の人の命を奪うことになるのは確実だった。
堕胎専門の医者のもとへ向かう算段はついていた。
そのために、リゼは侍女頭や門番にワイロを渡し、ルイがその気になってくれさえすれば、いつでも外出し手術を実行できるよう手はずは調っていた。
しかし、彼女の最愛の人は、頑としてその提案を受け入れなかった。
日に日に大きくなっていくお腹を布で縛り、できるだけ膨らみが目立たぬようにしながら、いつも通りの政務もこなし続けた。
その働きぶりは、父である国王も認めるところで、ルイは次期国王に指名された。
新たな王となり、ルイは懸命に働いた。
残り少ないろうそくの炎を燃やすようにして。
****
――そして、ついにその日がやって来た。
4章 生まれいづる命
王の側室であるリゼの子は、王にとってもはじめての子であった。
母親であるリゼのたっての願いで、王宮付きの医者ではなく、彼女の母親が世話になったという年老いて経験豊富な産婆を呼び寄せて出産の儀式をとりおこなう運びとなった。
彼女は腕が良いことで有名だったが、その唯一の欠点は目が見えぬことだった。
その産婆は、妊婦が待つ部屋へ招き入れられた。
部屋のなかにいるのは二人の女性だった。
その産婆は、目が見えぬ分、気配や息づかいによって目の前の人間の本質を知ることができた。
出産は長丁場となり、妊婦は半死半生のていだったが、その子供は無事に五体満足で生まれてくることができた。
産婆は、たっぷりの褒美をもらって田舎に帰った。
年のこともあり、その仕事が最後の仕事となった。
もらった褒美のお陰で彼女は人を雇うことができるようになり、それから後は何不自由なく暮らすことができるようになった。
彼女は、自分の『勘』に絶対の自信を持っていた。
それは目が見えぬ代償として、神が与えてくれた贈り物だと信じていた。
そのお陰で、彼女は多くの母子の命を救ってきた。
だからこそ彼女は知っていた。
自然の摂理で、どうしても救えぬ命があることを。
彼女の『勘』とは、生まれてくる赤子とその母親の生死を知ることができると言うものだった。
****
けれど、最後の仕事で彼女の『勘』は外れた。
王の妃の出産に立ち会ったとき、赤子は健康そのものだったが、その母親は間もなく死ぬだろうと直感していたのだ。
もちろん、そんな不吉なことは口に出すのもおそれ多く、彼女は仕事を終えたあと、口をつぐんだまま王宮を去った。
しかしその後、母子共に健康に暮らしているという風の噂を聞き、彼女は自分の『勘』が外れたことに生まれてはじめて安堵した。
そして、自分の引退は正しかったと、改めて確信したのであった。
5章 旅立ちの時
若き王の死は、あまりにも唐突だった。
徹夜で、我が子の出産に立ち会って喜んでいたのもつかの間のこと。
次の日、仮眠をとっているとばかり思っていたルイ王の体が冷たくなっているのを妃であるリゼが発見したという。
産まれたばかりの我が子を抱き抱え、青ざめた顔のリゼがそう訴えた時、まわりはそれを信じた。
それほどまでに、ルイ王の病弱さはまわりに知れわたっていたからだ。
王の急死に対しても大事にならなかったのは、王が世継ぎを残していってくれたおかげだった。
それも健康な男児を。
世継ぎが成長するまでの間、まだ健康であった引退した前王が国政を引き継ぐ形となり、王室に大きな混乱が起きることはなかった。
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赤子はすくすくと育っていった。
病弱だった父親に似ず、ひどく健康な男児だった。
赤子の母は、懸命に子を育てた。
大きな悲しみに耐えながら。
(せめて少しでも乳兄弟のルイに似ていてくれたら、その面影があったならば少しは救いもあっただろうに。)
そんなことを思いながら。
赤子はルイの光り輝くような金髪も、青い瞳も受け継いでいなかった。
皮肉なことに、母親役であるリゼの黒い髪と黒い瞳に良く似た色彩をまとっていた。
周囲の人々からは、幼い王子は母親似だとよく言われていたが、彼女自身は複雑な心境だった。
自分の子供ではない子供を我が子と偽り育てあげることに関して、彼女に罪悪感はなかった。
なにせ、女性を王として即位させるのに協力するという大罪をすでに犯していたからだ。
ルイとの最期の約束もあったので、リゼは最後まで母親役を演じきるつもりだった。
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赤子はやがて成長し、内政や外交に数々の偉業を残す偉大な王となった。
彼は肖像画でしか顔も知らぬ父親を尊敬し、生涯ただ一人の妻を愛した。
そして、常に控えめな立場でい続けた母親を常に敬い、女神のように崇めていた。
リゼは長生きし、孫やひ孫に囲まれながら穏やかな余生を送った。
そんな彼女にも、ついに死が訪れようとしていた。
リゼにとって、最愛の人を失ってからの後半生はあっという間だった。
(――もしも、あの時、彼女を止めることができていたら……)
彼女は、生涯で何度繰り返したかわからない問いを、死の床でも再び繰り返す。
けれど、最期の瞬間に彼女はとうとう気がついた。
自分が乳兄弟の頼みを断れたことなどなかったことを。
そして、いつの間にか、血のつながらない息子やその家族を深く愛するようになっていたことを。
****
その事に気がついたとき、彼女の魂は心から満足して天に飛び立った。
今度こそ、心より愛する人のもとへ。
END