第92話 Shall we dance?
「お、お嬢様……何故こんな姿に……」
王宮の控え室で待っていたメルが、顔面を蒼白にさせ、絶望しきった表情でそう崩れ落ちた。
それもそのはず、今日のために(私以外の人達が)気合いを入れて仕立てたドレスには、案の定ワインのシミが大きくはっきりと残ってしまっている。不運なことに、今日のドレスはデビュタントの慣例に従って、明るく薄い色合いの物だったので尚更だった。
高額なドレスを汚してしまったという事実にメルは膝から崩れ落ち、マーサは天を仰いでいる。
うんうん、ごめんって。悪かったって。
やむを得ない事情だったとはいえ、軽率だったかなって反省してるから。
……でもどうせ貴族なんて、一度袖を通したドレスは着ない──しかもこんな豪勢な物は夜会じゃないと使えないんだし、大目に見てくれても良くない?
見せしめのようにこの姿で出歩く勇気もなかったため、一度裏に引っ込んでみればこの有様である。
そんな、蹲り、さめざめとしていたメルの背を付き添いでやってきたお母様が優しく撫でる。
「悲しんでも仕方がないわ、もう終わってしまったことだもの。ひとまず身を清める準備をしましょう? 帰るにはまだ少し早い頃合いだし、このまま引き下がっては何を言われるかわかったものではないもの」
眉を下げる姿は使用人を気遣う、出来る女主人そのもの。しかし、私はこの母が先ほどまで腹を抱えて爆笑していたのを知っている。
お母様の辛抱強い慰めによって、メルはなんとか立ち上がった。
「奥様の言う通りです。ひとまず、御身を清めましょう! こんなこともあろうかとデビュタント用に仕立てた物ではありませんが、それなりの物を着替えとして持ってきております。ここはお色直しの機会を得たと考えることにして、ピッカピカに磨き、会場中の老若男女の視線を釘付けにしてみせます……!」
メルのその言葉にマーサが大きな鞄を掲げてみせる。
流石は我が家の敏腕メイド達だ。着替えまでは想定済みだったらしい。
しかし、私はやる気の漲った2人を制した。
「着替えを用意してくれたのはありがたいのだけれど、実は着替えたい洋服はもう決まってて」
「……と、仰いますと?」
マーサが小首を傾げる。
その仕草に不思議と私の口角が上がった。
白ワイン程度じゃ許さない。
どうせなら、もっと悔しい思いをさせ──そして多くの人の記憶に残るようにしたい。
そこで私はこれを提案する。
「附属の制服、ってのはどうかしら?」
***
王宮側に事情を話せば、女官達は快く湯殿まで案内してくれた。急いで用意したのだろうに、設備から湯の温度、照明など完璧に整えられている。
そんな最先端技術の駆使されたお風呂にゆったりと浸かり、湯から上がってからはメルに急かされつつなんとか着替える。
「良くお似合いですけれど、本当にこれでよろしかったのですか?」
「ええ、もちろん!」
メルの問いかけに、私は自信たっぷりに大きく頷く。
お母様の言うとおり、今は帰るにはまだ早い時間帯。私が何かしらのドレスに着替えて会場に戻ってくるのは、皆想定しているだろう。もちろんメル達の選んだドレスが悪いというわけではないが、それではあまりにも想定通り過ぎる。
そこで、普通ならドレスに着替えて帰ってくるはずの令嬢が、制服──ズボンスタイルという男装に近しい格好で現れたとすればどうだろう?
私の奇行は間違いなく貴族達の印象に残るし、なにゆえそうなったのかを忘れることはないはず。
つまり、私の奇行を思い出せば、王太子の失態も連動して思い出される……と。
制服での出席はルール上何一つ問題ないし、私には監督生のローブがあるので格式的にも相応。
好奇の視線を集め、印象に残ることは間違いなし!
正直、別のドレスに着替えただけで会場中を虜に出来るとは露ほども思っていない。下手にランクを下げたドレスを纏うよりもよっぽど度肝を抜けるだろう。
「……では、お化粧は普段よりも凛としたものにいたしましょう」
「お願いするわ」
神妙な顔つきで、メルが化粧道具をすいすいと動かす。時折私の顔と睨めっこしながらも、その手は止まることなく動いている。
その合間髪を解いていたマーサが酷く懐かしそうな声色で呟いた。
「こうしてみますと、やはり奥様……セリア様のお若い頃が思い出されますね」
「お母様の?」
何気ないその呟きに問い返すと、マーサは鏡越しに頷く。そして柔らかい笑顔を浮かべて再度口を開いた。
「はい。セリア様は結婚なさるまで、ほとんど騎士団の制服か附属の制服で社交界に出ていらっしゃいましたから、良く印象に残っております。大変お麗しい方でしたゆえ、当時のご令嬢方の憧れの的だったのですよ」
「あらマーサ、現在もちゃんと麗しいわよ?」
「“言葉のあや”にございます。……当時熱を上げていらっしゃったご令嬢方も、今はどなたかの母となられているでしょう。今日の会場にいらしてる方も多いと思います」
母の茶々を適当にいなしつつ、マーサはそう語った。
確かにお母様が“男装の麗人”として持て囃されていたというのは聞いたことがある。
ふむ。前科……前科? があるならばやはりこの作戦は正解だったのでは?
作戦が着実に進んでいく感覚に、急いていたらしい気が落ち着いていくのを感じる。
「よし、出来ました! どうですか!?」
その言葉に、私は鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめる。
メルの渾身の化粧は涼やかな目元を作り上げ、どことなく中性的な雰囲気を作り出している。
鏡に映る自分の姿が、昔どこかで見たお母様の若い頃の肖像画に重なった。
親子だから当然だけれども、確かに似ているかもしれない。
よし、見栄えは少し気になっていたところだったけれどこれならいける!
マーサの助言もあって、髪はかつてのお母様を模し、1本の三つ編みでまとめることとなった。
グレン様が用意してくれた物とは別の髪留めを着用し、いざ会場へ!
控え室の扉を開けると、そこにはグレン様の姿があった。私と同じく赤ワインを被ったグレン様は、今度は騎士団の制服に着替えている。
これは全くの偶然……というわけではなく、湯殿に向かう前にメイドに「附属の制服に着替えます」と言伝けたところの結果らしい。目立つのは構わないが悪目立ちしすぎないように、と言う粋な配慮なのかもしれない。ありがたい話だ。
入場口までくると、不意にお母様に肩をつつかれた。振り返る間もなくお母様の口が耳元に寄せられる。
「ね、セレナちゃんはお友達のためにピエロになるつもりだったのでしょうけれど、貴方はちゃんと舞台女優になれるわよ。……さあ、存分に暴れていらっしゃい?」
そう口早に囁くと、お母様はぽんっと活を入れるように私の背を押した。
扉から漏れ出るシャンデリアの光が酷く眩しい。
会場にいる人々の視線が一気に集まってくる感覚に、心臓が大きく飛び跳ねたのも束の間。グレン様と繋がれたその手が、まるで励まされるようにぎゅっと強く握られる。その視線の多くが好意的な物であるのに心底安堵した。
堂々とした足取りで入場すると、壁際で所在なさげに佇むアルナ様の姿が飛び込んできた。少し離れた場所には、ルーナと2人寄り添うように立つ王太子の姿もあった。
どうやらやはり3度目のダンスには参加するらしい。
あの王太子! またアルナ様を1人にして……!
かっと身の内に怒りの火が走る。
その現状を見留めた瞬間、やろうかやるまいか少し迷っていた腹が据わった。
ああでも、そうするとグレン様との約束が──そう思い傍らに居る人を見上げれば、ゆったりとした瞬きと共に手を握る力が緩められた。
「……そんな困ったような愛くるしい顔をしないで下さい。大丈夫、私は“待て”の出来る男ですよ?」
冗談めかしたその言葉と共に手が自由になる。
自由になった体をくるりと壁際に向け、アルナ様の元に近づくと私は彼女にすっと手を差し出し声高らかに宣言してみせた。
「誰です? こんな美しい人を置いていったのは。壁の花にするにはあまりにも勿体ない!」
アルナ様の瞳が大きく見開かれる。
その大きな瞳が揺れたのも束の間、好戦的な笑顔がその容に咲き誇った。
「……そうでしょうか? では貴方が私を大輪の花にして下さる?」
──さぁ、もちろん私達と踊って下さいますよね、王太子殿下?




