第83話 恐怖心の行方
何度でも言うが、私は元来足の速いタイプではない。
運動能力は至って普通。悲しい話だが、武芸に秀でた者達が集まる附属においては下の下に過ぎない。
いやいや? 貴族令嬢……ひいては侯爵令嬢の身としては十分優秀なはずなのだけれどね?
とにもかくにも、騎士見習いの若者達の集う学び舎の中でも下の下に過ぎない私にAランクの魔物に打ち勝てるほどの脚力はあるはずもなく。
「う、わぁ……!」
ぶおん、と耳元で風を切る音が響き思わず声を上げる。視界の端に映った、陽光を反射させて煌めいた何かがグリフォンの爪であるというのは疑うまでもない。
グリフォンは頭が鳥なのでまだ良かったが、頭までも猛獣だったら恐怖で縮み上がっていたかもしれない。
つつかれたらひとたまりも無いであろうあの嘴は、お兄様の風魔法に阻まれてこちらに届くことはない……きっとそのはず。
──そう自分に言い聞かせて、私はとにかく大地を蹴った。
シェルターに至るまでの道のりは、冷静に考えてみればさほど長くはない。目測だが200メートル前後といったところだろう。しかし後ろから猛獣に追い立てられているという緊迫したこの状況では、その道のりを楽観視するなんて到底出来そうにない。
今日はとんでもない不幸が重なっているが、その中でも唯一の幸運はこの追いかけっこの中で1度も転ばなかったことだ。
シェルターの扉を思い切り開けば、重たい金属音と錆び付いた感触と共に、魔法具が起動した感覚が伝わってくる。
無我夢中でシェルターへ潜り込むと、それに従ってグリフォンもまたシェルターの中へと飛び込んで来た。
グリフォンの尾をすれすれにシェルターの戸が閉まり、カチリと施錠された音が聞こえる。
なるほど、このシェルターは自動で閉まるのか。こんな山の中にある物としては中々に性能が高い。……いやこの場合はむしろ逆効果なのだけれど。
天高く上げられた前足が私の顔面に振り下ろされる──が、しかしその爪が私の肌に届くことはなく、微弱な風が私の頬を撫でるばかりだ。
絶対に当たらないと、怪我しないと分かっていてもこれは精神的にキツい! どんな言い訳をしても怖いものは怖いんだもの!
サンダードラゴンと対峙していた頃の私は、どうして平常心を保っていられたのか疑問で仕方がない。
誰かと話せていたならばまだマシだったのだろうが、生憎お兄様は少女の避難に応援の要請と忙しそうだ。
なんとか現実から目を背けることで、私は湧き上がる生理的な恐怖心を宥めていた。
そんな現実逃避を始めて十数分が経過した頃、私の脳に突然天啓が走った。
「(私の恐怖心の有無って、捕食対象と被食対象の違いってこと……?)」
サンダードラゴンと対峙したときは、もうその肉のことしか考えていなかった。サンダードラゴンに打ち勝つのは確定事項だったため、心配することもなかったというのもあるだろうけれど。
今からこの怒り狂うグリフォンを焼いて食べようとは思えないけれど……頑張れば出来なくはないがしたくもないので被食対象云々はどうしようもない。
しかし、相手が被食対象ではない──例えば愛玩動物だと思うことにしたら……?
確かに腹の毛はフサフサだし、キリッとした顔は伝令に使われる鷹達に似ていなくもない。
猫派というわけではないが、猫嫌いというわけでもない。断じてない。
そう思うとグリフォンが何だか可愛く見えてきた。
「(愛玩動物といえば、今朝の行きがけの馬車で巷では“猫吸い”なるものが流行っていると誰かが言っていたわね)」
あれは確か……モニカだったか。
彼女は生粋の猫派らしく『猫吸いは猫の体温からぬくもりを、そのふわふわの毛並みから触覚としての安らぎを感じることができる!』と力説していた。
猫は飼ったことがないのでよくわからないが……確かにグリフォンのあのお腹は撫で心地が良さそうだ。
……どうせ怪我もしないのだし? ちょっと吸っても怒られないよね?
その時の私は、きっと正気ではなかったのだと思う。前日は毒を飲み、婚約者と実父の虚偽の熱愛報道をまき散らし、幼なじみはクローゼットから飛び出してくるし、天敵とも言える元義妹と元婚約者の公務に付き合うはめになるし──とにかくキャパオーバーだったのだろう。恐怖心を失った人間ほど恐ろしい物はない。
「グリフォンさん、ちょーっと失礼しますねぇ?」
荒れ狂うグリフォンを抑え込み、シェルターの鉄格子へと押しつける。お兄様の防御魔法がサポートしてくれたのか、それとも無意識に身体強化魔法でもかけていたのか、いとも簡単に形勢は逆転した。
そもそもグリフォンは魔力不足で弱っていただろうから、様々な要因があったのだと思う。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
今私の頭にあるのはモニカの語る極上の感覚──猫吸いのことのみ。
そのままわふわふとその毛皮を撫でるつもりが、風魔法に押し返されてしまう。
……まあ良いや、吸えれば良いんだよ、吸えれば。
私は抵抗を辞めたグリフォンの腹に顔を埋め、勢いよく息を吸った。
猫のにおいなんてしなかったし、なんなら私が顔を埋めたのはお兄様の魔法だったのではと思わなくもないが、私が顔を埋めた途端グリフォンは抵抗することを止めた。防御魔法を盾のように使って押し潰され、なおかつ急所を吸われているのだから当然か?
お兄様の「吸うのか、グリフォンを……これは歴史に名を刻むな……」と言う呟きが聞こえたような気もしたが、構わず私はもう一度グリフォンを吸い直した。
猫吸いならぬ、グリフォン吸いに夢中になっていたせいで、私はグリフォンの様子の変化に気がつくのに一歩後れを取ってしまった。




