第79話 悲劇
「(……な、なんであの人がこんなところに)」
気がついたときには、時既に遅し。
扉口に立っていた王太子と目と目がかち合ってしまったのが、運の尽きだったのだろう。
今、目が合ったよね? ……と言うことは、挨拶しなくちゃいけないよね? 少なくとも会釈ぐらいはしないと不敬と言われてしまうかもしれない。
もうこれ以上関わりたくないと切に願っていたのに、運命はなんと残酷なんだろうか。
ああ……見えるよ、はっきり見える。
挨拶した流れで「じゃあこの後も一緒にどうですか? 皆で回った方がきっと楽しいですよ!」と王太子の庇護欲を煽るルーナの姿が。現にシェリー様も巻き込まれているようだし、きっと間違いない。あの女なら絶対やる。
すうっ、と脳天から爪先までの温もりがかき消えた。
……いや、諦めるにはまだ早いぞセレナ!
社交界において、身分が低い者から高い者へ声をかけるのはマナー違反とされている。今日は舞踏界でもお茶会でもないけれど、曲がりなりにも成人貴族を名乗るのならば、このマナーに則って行動しても別に間違いではない。
私は侯爵令嬢、対する相手は王太子──次の国王陛下! 私の方が身分が下なのは間違いないし、今回の私と彼は友人でもないのだから、このマナーが適用されるはず。
いける……この理論ならいける……!
後は王太子の興味をこれ以上引かぬよう、気配を消すだけの簡単なお仕事だ。
向こうだってわざわざ因縁の相手に話しかけてくるような、奇妙な趣味はないだろうし。
私を気遣ってか、お兄様がさり気なく一歩前に出て私を背に庇うように立ち位置を変えてくれる。
ここ数年でお兄様も背が伸びたけれど、私もぐんと伸びたので、覆い隠すと言うよりは姿が被ると言う方が適切かもしれない。だが、私の視界から王太子の姿が掻き消されたのは紛う事なき事実だ。
あら、お兄様にしては紳士的──なんて思ったが、その瞳が「これ以上、奴ともめ事は起こしてくれるな」と訴えかけていることに気がついてしまった。
いやいや……私だって、別にアレと好き好んで揉めているわけではないですから……!
とにかく今の私に出来ることは、出来るだけ気配を消して向こうが店を出るのを待つのみだ。
私は空気、私は空気、気にしない──
「やあ、珍しいな。久しぶりだねソフィア嬢、ルイーズ嬢。君達もこの店に用が?」
ふっと目の前に影が差したかと思えば、間髪入れずにお兄様を越えて、聞き慣れた──しかし好きになることはないであろう、王太子のあのアルトボイスが聞こえてきた。
うわぁ……話しかけてきたよこの人。なるほど、奇妙な趣味の持ち主だったか。
いや、もしかしてもしかすれば私の存在に気がついていないだけかもしれない。私の位置から王太子の顔は見えないし、ありうる話だ。
「王太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう。友人の髪留めを選んでおりましたの。良い物を買うことができましたわ」
「畏まらなくても良いよ、公務の隙間時間を縫ってやってきただけだから非公式な物だしね。私的な話になってしまうけれど、実はそうやって壁を作られるのはあまり好きじゃないんだ。だから、気にせず接してくれ」
じゃあもう寄り道なんかせず、さっさと仕事しに行けよと思うのは理不尽ではない……はず。と言うか、婚約者と他の女2人を侍らして行く公務って一体何なんだよ。
お兄様を盾にそう内心毒づいてみる。
それでもまあここで世間話は切り上げだろうな……そうであって欲しい。この後はさっとシェリー様を回収して、とっとと次の店に移ってしまおう。
そんなふうに思案していた矢先、王太子が変化球を投げてきた。
「……それと、数日ぶりだねセベク? 君がこんな可愛らしい店にいるだなんて意外だったよ。お目当ての物は見つかったかい?」
「いや、その、私は……付き添いと申しますか……」
「付き添い……ね。もしかしてルイーズ嬢の?」
お兄様が私を庇うように一歩前に出た結果、現在のお兄様は私の隣にいたルイーズに寄り添うように立っている様にも見えなくはない。
まるで揶揄うようなその声を聞くと、脳裏に王太子のニヤリと口角を上げる姿が浮かんだ。きっと今もそんな表情を浮かべているのだろう。
そんなやり取りをしている合間に、ルーナは店内に散っていってしまった。いない方がこちらとしては好都合である。
「そ、それは、その……ええっと」
「あはは、なるほどなるほど。これは魔導師団長に報告しなくてはね。千年に一人の天才魔導師と名高いセベクに、ようやっと春が来たって──」
その瞬間、王太子の声がぴたりと止まった。端正なその瞳が見開かれ、硬直した。はくはくと動かされる口からは、声にならない声が零れている。知的な印象を与えるその瞳には、はっきりと私の姿が映っていた。
「セレナ・アーシェンハイド……」
「ご、ご機嫌よう?」
苦し紛れに一礼をするが、硬直した王太子の態度は変わらない。当のお兄様はと言えば、手で顔を覆い天を仰いでいた。
──ああ、見つかった。いや最初から見つかるだろうとは薄々思っていたけれど、だからと言ってそんな反応をしなくてもいいじゃないか。私も人のことは言えないけれど。
そして何故私だけフルネームなのだろうか。
嫌がらせ? 新手の嫌がらせなの? 何故だろうと思わせて精神的ストレスを与えようとしていらっしゃる?
「──すまない、セレナ嬢があまりにも綺麗になっていたから取り乱してしまったよ。背も伸びて……まるで別人みたいだ。本当に私は惜しいことをしたよ」
「恐悦至極にございます。殿下は、お変わりなくご健勝との事で……」
その下手くそな褒め言葉と言い、失礼極まりない態度と言い、全くお変わりないようで安心しました! そうですね、それでこそ王太子殿下ですよ! クソが! ……と、口にするだけの勇気は私には無い。
作り笑顔を貼り付けた王太子殿下の口から発せられた、体の良い、上っ面だけの褒め言葉に微笑みを返す。まあわたしもどっこいどっこいだけれどね!不測事態だったのだ、こればかりは致し方ない。
気まずい沈黙が私達の間に満ちる。そんな空気を感じてか、ソフィアやルイーズまでもが押し黙っている始末だ。
同じく気まずそうな表情を浮かべている癖に、王太子は動こうとする素振りすら見せない。もう! さっさと席を外してくれれば良いのに!
しかし私達が離れようにも、モニカはまだ会計中で、帰ってくるのには暫くかかりそうだった。
会話を続ける気はさらさらないのだが、黙って見つめているのも間が悪い。
この王太子、見てくれは王族の名に恥じない美形だが、生憎私には全く響かない。誰が自分の死の遠因となる顔を好んでみるのか……というかむしろ見飽きたという方が適切かもしれない。
長い沈黙の末、私は泣く泣く口を開くはめになった。
「……殿下とシェリー様は、どちらでお会いになったのですか?」
「あ、ああ。学院と貴族街を繋ぐ街道で事故があって……私達が通りがかったときには既に撤収していたようなんだけれど、その影響で渋滞に巻き込まれたんだ。もう目と鼻の先に貴族街の入り口の門が見えていたから、馬車から降りて歩いて行こうと思ったらたまたま鉢合わせてね。そこで、シェリーがこの店に行くと聞いて……例え貴族街とはいえ女性一人で行くのは危ないし、ルーナが行ってみたいとせがんでいたから」
う、嘘ですよね、シェリー様……?
王太子の背後で誰より一番気まずそうな表情を浮かべていたシェリー様に視線を滑らせる。その視線に気がついてか、シェリー様はぶんぶんと音が聞こえそうなほどの勢いで頭を振っていた。音は聞こえないものの、パクパクと動かされる口は『チガウ、チガウノ……』と言っているようにも見える。その目にはじんわりと涙が浮かんでいた、
うーん……これは推測に過ぎないけれど、シェリー様は婚約者が他の女を侍らせている姿を否応無しに見せつけられているアルナ様のことを見ていられなかったのかもしれない。だからちょっと助け船を出そうと思ったけれど、逆にルーナに絡まれた……とか?
これはマズいと思って友人との約束だと言おうと思ったけれど、そこに言及すれば私の存在も気づかれてしまうかもしれない。
そのまま逃げることも出来ず、こんな有様に……?
現場に居合わせた訳ではないのでその辺りはさっぱりだ。まあ別に責めるつもりはない。
例えどんなに正しいことを言っても気がつけば悪役に仕立て上げられ、都合の悪い方向に物事が運ばれていく──それがルーナマジックだ。
「友人との約束だとは知らなかったんだ、すまなかったね、シェリー」
「と、とんでもないことにございます……」
シェリー様はどちらかというとおっとりしているというか、よく言えば心優しく、厳しい言い方をすれば気が弱いので、大方押し切られてしまったのだろう。
タイミングよく、まだ状況が飲み込めていないらしいモニカも帰ってきてくれたのでこれにて退散──と思ったのだが。
「殿下、お待たせしました!」
「おかえり、ルーナ。それで目当ての物は買えたかい?」
「はい! どれもとっても可愛くて……それで、お話は終わりました?」
不自然さを感じさせず、するりと腕に抱きつくその手腕はもはや賞賛モノである。
よし良いぞ! ルーナ、いけ! そのまま王太子を公務に行かせろ!
私の願いが通じたのか、ルーナは更に「早く公務に行きましょうよ!」と言い募る。
「──ね! きっと孤児院の皆も殿下のことを待っていると……」
不意に、ルーナの耳障りな高い声がぴたりと止まった。いつの間にか、ルーナの熱視線がお兄様を打ち抜いているではないか。先ほどまで王太子に向けられていたキラキラとした視線が、お兄様の足下からその端整な顔立ちまでをじっくりと舐める。
……ああ、嫌な予感がする!
そうよね、貴方面食いだものね! 今のルーナとお兄様は書類上でさえ兄妹でないのだから、高位貴族らしく整った顔立ちのお兄様は獲物の範囲内に入ってしまうわよね!
えもいわれぬ恐怖を感じたのか、顔面を蒼白にしたお兄様が一歩後退り、その背が私の肩にぽんっと当たった。
「そうだわ、皆さんも一緒にいかがですか? きっと孤児院の皆も喜ぶと思います! ……ねぇ王太子殿下、良いでしょ?」




