第76話 不意打ち
一通りの事情聴取が終わったため、帰還の許可が下りたのが夜中のこと。それから少し仮眠をとり馬車で附属に帰ってきた頃にはとうに日付も変わり、見上げた空は薄青い光を漂わせていた。
夜番をしていた事務員さんに訳を話し寮の鍵を受け取り、ひっそりと寮内へ立ち入る。
朝の澄み切った空気が心地良かった。1階をぐるりと回り、2階へと繋がる階段を一段一段踏みしめて上る。先に帰ったネロの姿はもう無い。
耳を澄ませてみるものの、その静寂を破るような人の気配はなかった──ように思われた。
突如、曲がり角から何かが速度を落とすことなく腹部へと飛び込んできた。その白金色の物体を危ういながらもなんとか抱き留める。
何!? 野生動物!? ……寮内に!?
そう叫びそうになる衝動をぐっと抑えてよくよく見てみると、腹部に抱きついて離れないソレは制服姿のソフィアだった。
こんな朝になんで、という私の疑問の声よりも先に、ソフィアの叫び声が私の耳を劈いた。
「セ、セレナ様! 外出中に浮気現場を覗きに行って本場ジェロニアのチェスの名手を一網打尽に、そして場の空気に流され毒を一気飲みした結果外交官の命を救って、最終的に窓辺から飛び立とうとして騎士団にパクられたって本当ですか!?」
「そ、ソフィア! まだ皆寝てるから静かに! ……嘘じゃないけれど、言葉の節々からとんでもない悪意が感じられるわね。あとパクられてはいないわ、パクられては」
「もう、自分で言っていても訳がわからないですよ! ワイン買いに行くって言ってたのに帰ってこないし、その割にはなんも持ってないし……! ちゃんと説明して下さい!」
ソフィアさん? 貴方もしかして私が心配と言うよりも、ワインが飲みたかっただけなのでは……?
彼女の言葉遣いには令嬢のれの字もないが、まあ概ね合ってはいる。
合ってはいるけれども、なんだか悪意が入り交じっているような……一体誰に吹き込まれたのだろうか。
ひとまず何やら喋り続けるソフィアを連れて、自室の扉を開く。
モニカはまだ寝てるだろうから申し訳ないが致し方ない──などと思ったのも束の間。
部屋の中は煌々とランプで照らされており、部屋の中央ではルキアとモニカの2人がかりでがっちりと羽交い締めされるネロの姿があった。
思わず私は己の手で開けたはずの扉をもう一度閉める。
「え、入らないんですか?」
「ううん。けれど今何か、見てはいけないものを見てしまったような気がして……」
なるほどね。悪意あるタレコミはネロからのものだったか。
ここが女子寮であり、なおかつ附属でも女子寮は基本的に男子禁制だなんていう野暮な話はしませんよ、ええ。
そんな下らないことを考えている間に、今度は半ば強引にソフィアに自室へと押し込まれる。
「それじゃあ! きちんと説明していただきましょうか!」
***
逆行についてと教会の話を除いた、ありとあらゆる話を吐かされた後、モニカは実に面白そうに声を上げた。
「へー、じゃあネロくんの説明は大方合ってたってことか」
「だから、最初からそう言ってるじゃん……」
そうぼやいたモニカに対して、うっすらと目元に涙を浮かばせながらネロが言い返す。
羽交い締めが相当痛かったのだろう。肩をストレッチする姿には、もはや哀れみの感情すら湧いてくる。
可哀想に、ネロ……私の犠牲になったのか……。
「まあ、とりあえず無事に帰ってきて下さったので良かったです! これで、モニカのデビュタントの買い出しにも行けますね」
「でびゅ、たんと……? 何それ」
ぱん、と両手を合わせて喜ぶソフィアに今度はネロが首を傾げる。
あ、そうそう買い出し! 昨夜の出来事が濃すぎてすっかり脳内から消え去っていた。
「元々デビュタントと言う言葉は、新しく社交界入りする女性のことを指す……というのはさておき。ヴィレーリア内では貴族版の成人式、のような意味で使われているの。ルールやマナーに関しては万国共通ではないけれど、少なくともヴィレーリアでのデビュタントとは、王家主催の特別な舞踏会の1つで、成人した貴族のお披露目式だと思ってくれたら問題ないわ。このデビュタントが終われば一人前と見做され、晴れて深夜の舞踏会にも参加できるようになるのよ」
「騎士爵を始めとした全ての成人済みの貴族達が集まるイベントなんです。昔は白革製のオペラグローブ──肘よりも長い手袋と、純白のドレスを身に纏った令嬢達がダンスを披露していたと言われています。現在は色々変わって、白いオペラグローブとどこかに白を使った明るい色彩のドレスさえ着ていれば良いとされているそうですね。ちなみに付き添い役の既に社交界入りしている女性達は暗い色彩のドレスを着るように、と言われています。時代の流れによって形式は変わりましたが、それでも圧巻の光景だとは思いますよ」
「今は他の舞踏会と同じように、一部公職に就いている人物達ならばその制服で出席することも許可されている。例えば俺だったら附属の制服、兄貴だったら騎士団の制服、みたいにな。ツテやコネの話もあるが、婚約者が居ないやつは、このデビュタントで自分の結婚相手を選定する奴も少なくはない。……間違ってもセレナみたいに他人の婚約者を決めるパーティーで、他の男に求婚はしないぞ」
ルキアの最後の一言が胸にグサリと突き刺さった。
「い、いや……それはその……?」
「まあ、その型破りな求婚を受ける兄貴も兄貴だと思うけどな」
いやだってあの時は生きるか死ぬかの瀬戸際だったし。割と本気で命運がかかってたし。
そもそもあんな婚約者選定のパーティーだなんて茶番ですしね……?
もにょもにょと言い訳の言葉を口内で転がしていると、今まで頷きながら聞いていたネロが真っ直ぐに手を上げた。
「モニカもそのデビュタント? ってやつに出るってことは、まさか俺も?」
「そのはずよ。少なくとも、アルテミス家は騎士家だからもうじき招待状が届くと思うわ」
例え養子であったとしても、ネロはアルテミス家の人間。そしてアルテミス家はヴィレーリア王国の騎士爵家の1つなので貴族の範疇に入る。
病気など何か大きな事が無い限り、出席は必須。破れば不敬罪……なんて事もまことしやかに囁かれている。
ま、実際はそんなことはないけれどね! 王太子は別として、現国王陛下はそんな暴虐な君主ではない。
ただそうなると、今後他の貴族から冷たい視線を投げつけられることは免れない。
「じゃあ俺も畏まった服を着なきゃいけねぇのかな……あ、でも制服もあるけど」
「どちらでもいいと思うけどな。聞いた話によれば、毎年、制服で参加している奴と礼服を仕立てた奴は半々位らしいし。俺はもう仕立て終わっているから礼服にするけど……」
私に代わって今度はルキアが答える。
礼服……礼服って事はドレスなんだよなぁ。
苦々しい思いが胸に広がっていく。
ドレス──美しいドレープや繊細な布地、鮮やかな色合いにちりばめられた宝石、と賛美する言葉には事欠かない。
そんな言葉達を一気に無効にする、ドレス着用に必須な物がこの世には存在している。
それは──コルセット。
女を美しく見せるだとかウエストがどうとかそんなのはもうどうでも良い。
とにかくキツい! 苦しい! 動き辛い!確かにね? 多少はウエストは細くなるでしょうよ、ええ。
けれどもそのために男数人がかりで締め上げるってのもとんでもない話だし、そのせいで料理は腹に入らないし、血色は悪くなるし、ふらふらするし!
それでもこれまで何とか耐えてこられたのは、ひとえに私達がドレスしか知らなかったからだ。
無知は恐ろしい。されど知らない方が良いこと、というのもこの世には確かに存在する。
そんなものを私は附属に入学して知ってしまった。
そう、ズボンという物の素晴らしさに!
あの快適さを知ってしまった今では、あのコルセットの窮屈さに苦しめられるドレスになどもう戻れない!
ありがとうズボンを発明してくれた人!
そして附属の制服を男女兼用にしてくれた人!
……ついでにコルセットを開発した人は、箪笥の角に小指をぶつけてしまえば良いのに。
「とにかく! 今日は来るデビュタントに向けて、モニカの衣装……主にアクセサリーなどを選びに行く約束だったのです! だからわざわざ何日もかけてゲストを招待したのに、セレナ様は帰ってこないし……」
「げ、ゲスト?」
「はい、気合いを入れて社交界の流行のスペシャリストをお招きしました。昨日からずーっと待ってて下さったのですよ!」
そうソフィアが笑顔を浮かべる。
……どうしてだろう、物凄く嫌な予感がするのは私だけだろうか。いやきっと私だけじゃない。
「ちょっと待って」と私がソフィアに声をかけようとしたのと、部屋の奥にあった私服しか入れていないはずのクローゼットが突然開いたのは、ほぼ同時だった。
「……案外クローゼット暮らしってのも悪くはないわね! ちょっと窮屈だけれど、実家のような安心感があるわ」
この世に生まれ落ちてから今日に至るまでいやというほど聞いてきた、快活ながらも落ち着いた声が響く。
「ご機嫌よう。ご紹介に預かった通り、流行のスペシャリストことルイーズ・アストラルよ」
クローゼットの中から現れた緑髪の悪魔が、まるで無邪気な子供のように、にっこりと微笑んだ。




