第72話 逃走
──私がアーチの元へ駆け出したのと、彼女が近くの銀のワゴンを蹴倒したのはほぼ同時だった。
重い金属音が響き、扉付近に料理が散乱する。突然の出来事にクラリスが小さく悲鳴を上げる中、アーチは脇目も振らずに廊下の奥へと走り出す。
「(……マズい)」
一応間取りは確認しているが、見失ってしまえば一巻の終わり。暫くこの店で生活していたアーチの方が地の利があるのは当然。
口内に含んだままのスープをハンカチに吐き出す。それから床に横たわるワゴンを飛び越え、私も廊下へと躍り出た。
……うーん、ワゴンに置いてあった水差しまで床に倒れてしまったのは不運だったな。本当は口を濯ぎたかったけれども、こればかりは致し方がない。
河豚毒の致死量はおおよそ10グラム前後。濃縮していたり肝臓や卵巣を使用していたらまた別だが、吐き出した後口内に残った程度の量で死に至ることはない……と信じるしかない。
代わりといっては何だが、砕けたグラスの破片は拾ってきた。流血沙汰にならないことを祈る。
幸いなことに、入り組んだ店の中では大した速度は出なかったのだろう。まだ、彼女の姿は視界内にあった。──しかし、じわじわと私達の距離が遠退いていっているのもまた事実。
ヒールは慣れているものの流石の私もこれで走る習慣はないため、全速力を出せないのがもどかしい。
「──ね、ねぇ、2人とも! 待ってよ!」
後ろからクラリスの叫び声が飛んでくる。本当に申し訳ないけれど、今は彼女に構っていられる暇はない。
同じように騒ぎを聞きつけた他の客達が、それぞれの扉越しに好奇の視線を飛ばしてくる。
酒場や賭博場ならまだしも、ここは高級料亭。騒ぎになれば相当の注目を買う。
理論上は理解できるし予想も出来るのだけれど、それが不都合であることは変わりない。
……グレン様とお父様が様子を見に来ませんように! でも、出来れば王都内を巡回中の騎士団は来て欲しい!
先に通報しておけばよかったな、と後悔が過るが後の祭りだ。
私は襟元の魔法具の電源を再度入れ直す。暫く間を置いてから、「……ん?」と聞き慣れた声が微かに響いた。
よしよし、入電には気がついてくれたらしい。
「──ネロ、悪いけれど緊急事態よ! 共犯者らしき女の子が北口方面へ逃走中。追えるかしら?」
「は、はぁ!? ……北口な、了解!」
そんなやり取りをしている間にも、私とアーチの距離はますます離れていく。ついにアーチは階段を下り始めた。
おそらく、ただこのまま追いかけただけでは追いつくことは不可能だろう。逃げ切られでもしたら毒の飲み損だ。
それは流石に悲しすぎるので、どうにかこの状況を打破しなくてはならない。
「(何か近道を……)」
つい、と周りを見回した先──私が目に留めたのは換気のために開け放たれた大窓だった。
目測だが、人1人がくぐるには十分すぎる大きさだ。残念ながら近くに手頃な木はない。……が、なんと幸いなことに、2階から地上を見下ろすと、そこは低木の植え込みとなっていた。
行ける! これなら飛び降りても怪我はしなさそう!
そうとなったら善は急げ、だ。
履いていた靴を脱ぎ、窓枠にヒールを引っかけその勢いで叩き折る。そして先ほど拾ったガラス片を使い、スカート部分を力いっぱい引き裂いた。薄い布地を何枚も重ねたデザイン上、思っていたよりも簡単にスリットが入る。
……うん、よし! これで走れる!
窓枠に右足をかけ、いざ飛び立たんと上半身を乗り出した刹那──
「……ひゃっ!」
腹に誰かの腕が回り、勢いよく乗り出した上半身が室内へと引き戻された。
ま、まさかまだ共犯者が!?
ガラス片だけで戦闘なんて出来るかしら──などと思い巡らせつつ、ゆっくりと私を抱く誰かを見上げる。
「──世の中には似た顔の人間が、3人はいると聞きますが。どうして私の愛しい婚約者に似た女性は、勇敢にも窓から飛び降りようとしているんでしょうかねぇ……?」
──本人だからじゃないでしょうか! とは流石の私も口には出来ず。
そこには今一番会いたくなかった人が、にっこりと恐ろしい笑顔を浮かべていた。
***
──ああ、これはどう言い訳をすれば良いのでしょうか。
いつも大して働かない脳が「働きたくありません!」と白旗をあげる。働け、迅速に。
密着した体勢の中、心臓の音が聞こえやしないかとドギマギしつつお互いを見つめ合うこと数秒。これは流石にアーチも逃げ切ってしまっただろうと絶望していると、グレン様がゆったりと首を傾げた。
「いくらですか?」
「ん……?」
な、何のことだろうか……? 思わず耳を疑って聞き返す。
するとグレン様は、浮かべていらっしゃった恐ろしい笑顔を更に深めて答えた。
「声も顔も反応も彼女にそっくりですが、彼女は今日も学校で楽しく学生生活を送っているはずなのです。まさかこんな時間にこんなお店で、ピアスを外した状態でこんな格好で全力疾走し、挙げ句の果てに窓辺から飛び立とうとしているはずがありません。ええ、きっとそうですよね?」
「ほ、ほんとに! きっと人違いですね!」
苦し紛れに、裏声でそう返答した。
間違いない……これは確信犯だ。そもそも人よりも感覚の優れている獣人を欺こうとする方が無理な話なのである。
「……なら問題はありませんね。それで、いくらであなたを一晩買えますか?」
「ひ、ひぃ……」
一瞬、ほんの一瞬、グレン様の背後に残虐非道と謳われる軍神の幻覚が見えた。
いや、いやいやいや、このお店そう言うサービスはしてないですって……! たぶん。
財布を取り出そうとするグレン様の手を慌てて制す。
次期辺境伯兼騎士団長のお財布とか怖すぎる。もはや金貨では事足りず、小切手とか出てきそう。
私自身にそこまで金をかけるのか? という話は別だが。……なんだか虚しくなってきた。
「せ、セレナさん! 速いよ……!」
なんと間の悪いことに、置いてきたと思っていたクラリスの声がどこからか飛んでくる。
「へぇ、あなたセレナさんと仰るんですか? 奇遇ですね、私の婚約者もセレナというのですよ。セレナ・アーシェンハイド、聞いたことありますか?」
グレン様が意地悪く耳元でそう囁く。
そりゃ聞いたことありますよ、自分の名前なので……。
「どなたですか……? 知り合い?」
「いいえ? 違うらしいですよ。今の私は彼女に一目惚れした一般客……になるのでしょうか。ちなみに彼女は一晩いくらで買えますか?」
「それはその、先輩に相談しないとちょっと……」
「クラリス!?」
クラリスの問いかけにグレン様が余裕の表情で微笑む。口パクで「よかったね、玉の輿!」なんて言っても許されないから!
窓から引き上げられた私は、そのまま腰を抱く形で拘束されながらも一応は廊下に降ろされる。
今にも震え出しそうな体に喝を入れていると、遠くから物珍しそうな表情でやってくるお父様の姿が見えた。……終わった。
「──それで、貴方は本当に私の愛しい婚約者殿ではない、と?」
「……申し訳ございません、セレナ・アーシェンハイドです」
もはやこれまで。白旗を揚げざるを得ない。私の自白を認め、グレン様は私の耳から魔法具を奪い取った。途端に、私の髪は黒から元の色──水色へと早変わりする。
唯一状況の飲み込めていないクラリスが目を丸くし、私に小さな声で問いかける。
「……ね、ねぇ、どうなってるの?」
「……父と、婚約者です」
「え! じゃあ、セレナのお父さんは娘の婚約者と浮気してたってこと!?」
なんだなんだとヤジを飛ばしにやってきた客達が驚き、お父様に一気に視線が集まる。
これはもうダメだ、悲劇が更なる悲劇を招いている。
「(……諦めよう)」
今の私にはただネロの健闘を祈ることしか出来なかった。
いつもご愛読、及び感想をありがとうございます……!
大変私事なのですが諸事情につき、次の更新(11月29日火曜日)をお休みさせていただきたく思います。
土曜日は必ず更新できるようにしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。




